ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

ばらばらにされた1つの権利

 2023年の1月6日の朝日新聞オピニオン欄「無関心に向き合う」。石原燃(いしはら・ねん)さんの寄稿に胸を打たれたので、記録を書いている。(…ちなみに、新年のオピニオン欄は「「覚悟」の時代に」という統一的なテーマで寄稿やインタビューが掲載されていたが、この「覚悟」云々というテーマはいらなかったと思う。このテーマを掲げることの意図が、分からなかった。)

 石原さんの文章は、Twitterでもかなり広くシェアされていたと思う。

digital.asahi.com

 今回おそらく多くの人の支持や共感を集めたのは、マイノリティの人権が多数派の意志に左右されることや、人権が「思いやり」にすり替えられている日本の公的機関の空虚さと致命的誤解についての論点だったと思う。実際、紙面の大見出しも「理解なき多数者から軽んじられる人権 もううんざりだ」だし、デジタル版の見出しも「うんざりだ、人権を「多数決」で決める無関心な社会」だから、この論点は間違いなく文章の中心点だ。

 ただ、わたしはそれと少し違った点に感銘を受けていた。というか、日ごろから心の底で考えていたけれど、表に出るのをうっすら抑えていた思考を引きずり出された。 それは、ひとつひとつがバラバラであることを強いられる現実に対する葛藤だ。

 この文章では、生殖を取り巻く人権軽視の現実が、様々なケース事例をまじえつつ通覧される。2022年末の嬰児の遺棄事件、(まだ記憶に新しい)2019年の就活性の同様の遺棄事件、性教育の欠乏、中絶や避妊具へのアクセスの悪さ/高いハードル、一向に承認されない中絶薬…。産む/産まないをめぐる生殖の権利に注視する石原さんのまなざしは、この国の「健常な日本人の女性」以外の人々にも向かう。トランスジェンダー男性やノンバイナリーの人々、障害と共に生きる人もいれば、中絶や出産についての情報を必要としている人が日本人・日本民族の人とは限らない。短い紙面のなかで、そうした周縁化されがちな集団についても石原さんはそっとひとつずつ言葉を配る。触れないといけないから、とお飾りていどに触れるのではない。それぞれわずかずつしか文字を割けないことへの口惜しさが紙面からにじむ。

 しかしそうした通覧の作業に、わたしは著者のもどかしさを感じた。

 石原さんが「中絶薬」を使って中絶する人物をとりまく6人の「女性」たちの演劇を上演したときのこと。「中絶薬さえ承認されればいいというわけではないのに」といった感想が耳に入ったそうだ。もちろん、そんなことは石原さんも誰も考えていない。「中絶薬さえ承認されればいいなんて思っている人は、おそらくいない。」

 ただ、様々な社会課題が、こうしてバラバラに位置づけられて理解されてしまう状況は、なにもこの感想に限られない。存在するのは、「性と生殖に関する健康と権利(リプロダクティブ・ヘルスアンドライツ)」という、ただひとつの人権だ。

しかし日本では、妊娠する身体を持つ人の「性と生殖に関する健康と権利」を実現しなくてはならないという共通目標が掲げられていないので、さまざまな課題をつなぐものがなく、すべてが細ぎれにされてしまう。匿名出産などの「産む支援」は乳児の命を守るという文脈で議論され、不妊治療は少子化対策の文脈で推進される。そして、避妊や中絶派、病院の経営的観点や、「性が乱れる」という家父長的な価値観でハードルが設定される。

 すべてが、ばらばらにされる。本当は、生殖の権利というただひとつの権利が、すべての人に保障されるべきだ。それだけのことなのに。

 有名なカイロ行動計画の定義に結実していった生殖の権利という発想は、はじめから、産むか産まないかを決める権利、どのような間隔で/どれくらい産むかを決める権利、適切な健康情報や避妊手段にアクセスする権利、母子(出産する人とその子ども)が安全に時間を過ごす権利などを含んでいた。

 その権利の内実は、確かに多様だ。しかしそれは、生殖の権利が雑多な寄せ集めだということを意味しない。なぜなら、こうした内実の豊かさは、世界中の多種多様な状況に置かれた人々には多種多様な状況があるという、ただその事実を反映しているに過ぎないからだ。

 すこし雑なアナロジーになってしまうけれど、例えば日本とアメリカとイタリアと中国と、それぞれの国・地域において「表現の自由」として目下求められるものには差異がある。しかし、それぞれの国・地域において求められる「表現の自由」の内実が多様であるとしても、そこにあるのはただ1つの権利だ。それと同じように、「生殖の権利」として切実に求められるものの内実は、国・地域によって異なるだろうし、同じ国・地域のなかでも、人種的マジョリティか/マイノリティか、(その社会において)障害があるか/ないか、中流階級か/貧困を生きているか、等々によっても異なる。

 カイロ行動計画の「生殖の権利」の説明は、確かに複雑な政治的妥協の産物だし、冗長だ。それは否定できない。でもわたしは、「生殖の権利」という、もともとは非白人女性たちの権利運動から生まれ洗練されていったはずの概念が、このように多様な内実とともに理解されていることは必然だと思うし、また誠実だと思う。なぜなら、妊娠を経験する人たちが置かれた状況は一様ではないし、生殖をとりまくニーズは中絶薬1つや不妊治療のひとつで一挙に解消するようなものではないからだ。

 にもかかわらず、ばらばらにされる。中絶薬のこと、不妊治療の保険適用のこと、匿名出産のこと、妊娠した技能実習生の強制帰国のこと、外国人への医療情報の保障のこと、性別承認法(特例法)におけるトランスジェンダー不妊化要件のこと、障害者への優生上の理由に基づく不妊化のこと…。同じ1つの権利の問題、統一的な人権の問題のはずなのに、それぞれに次々とステークホルダーが用意され、ばらばらの壁が立ちはだかり、それぞれの場所で、ばらばらに闘うように強いられているように感じる。

 そして、それぞれのばらばらの現場で、マイノリティの権利はマジョリティによる多数決によって左右されてしまう。

マイノリティ―の人権は、マジョリティーの理解がどうあれ、実現されなくてはならないことなのに、人権ってなんかうさん臭いという偏見のなかで、多数決に勝つことを求められるのは、もううんざりだ。

 うんざりだ。全てがばらばらにされてしまう現実がうんざりだ。

 わたしの尊敬する女性運動家の大先輩が教えてくれた歴史がある。1996年まで日本にあった優生保護法は、2つのパートでできていた。1つ目は「母性保護条項」。今も母体保護法として残っているが、ここに含まれた「経済的理由」によって、日本では妊娠中絶が事実上は合法化されている(※堕胎罪があるので原則は違法)。もう1つのパートは「優生条項」――「不良な子孫の出生を防止」するために、障害者や貧しい人々、あるいは性的行動に「乱れ」を指摘された人々に対する、優生上の理由に基づく不妊化を国として支えていた。

 70年代初頭と80年代初頭、「経済的理由」による中絶を禁止し、日本での中絶を全面的に禁止しようとする政治的な動きがあった。今と変わらない、自民党はいつも生殖の権利を踏みにじろうとする。当時の女性運動・フェミニズム運動にとって、この経済的理由の死守は重要な政治課題となった。しかし優生保護法下での中絶の権利を求める女性たちと、同じ法律がお墨付きを与える優生思想によって生存と生活を脅かされていた障害者運動の男性たちが激しく衝突することも、あったようだ。この「衝突」についてはいろいろな媒体で様々に伝えられているのを読んだけれど、おそらくは文字通りの激しい、痛みのともなうものだったのだと思う。

 わたしは教えてもらった。そうして同じマイノリティとして「衝突」を強いられ、交渉と対話と、議論を積み重ねていった結果、SOSHIREN(旧称:82優生保護法改悪阻止連絡会)のような団体のなかでは次のような認識が生み出されていったのだと。

国家による人口の「量」と「質」の管理から、身体の自律性を取り戻すこと。

 リプロダクティブ・ライツ(生殖の権利)という言葉が流通するよりも前、おそらくは「リプロダクティブ・フリーダム」という言葉が運動の鍵を握っていた時代。しかし上の認識は、間違いなく「生殖の権利」に結実していく世界史的な流れをなぞっていた、あるいは先取りしていたと、わたしは浅学ながら思っている。

 敗戦後の日本で、人口調節を理由に解禁された中絶は、高度経済成長期が終わりにさしかかろうとする70年代には、再び人口調節を理由のひとつとして禁止されようとしていた。国家による「量」の管理。

 若干の断絶がありつつも、戦前の国民優生法の後継として国家ぐるみの優生思想を具現化した優生保護法不妊化という、信じられない身体侵襲への社会の抵抗感を減らし、立場の弱い人々の尊厳を踏みにじった。国家による「質」の管理。

 あらゆる社会インフラが民営化され続け、出産や子育てを経ながらキャリアを続けることが難しくされる社会は、生殖と子育ての可能性を貧困層から奪う。じわじわと、貧困のなかを生きる人々から生殖の選択肢が奪われる。これも一種の優生学的状況だ。

 障害のある子どもの子育てにポジティブなイメージを持てないよう、社会の想像力が制限されている。荒廃した福祉が、実際にそれを困難にしている面もある。国家の無策により出生前診断がなし崩し的に臨床に浸透し、妊娠の継続に対する選択肢が浮上させられる。

 北海道の「あすなろ福祉会」で、婚姻する知的障碍者カップルに不妊化が強いられていたのが明らかになったのはつい最近のことだ。あすなろ福祉会による人権侵害はとうてい許されないが、そうして生まれる子どもが施設サービスの対象から初めから外されているという制度上の欠陥は無視できない。

 誰の生殖を社会で規範化し、正しいものとして促進する一方、誰の生殖を排除し、誰の生殖を初めから想定しすらしないのか。国家はいつもその答えを用意している。人口の「量」と「質」に、国家はつねに興味を持っているからだ。少子高齢化を憂うこの国の政権与党が、「生産性」のない次世代の出生や、外国にルーツをもつ人々による生殖を歓迎しているはずがない。日本という国家にとって、殖えるべきは「生産性のある」労働力であり税収源であり、日本文化を継承する、人種的に”正当な”日本人だから。

 国家による「量」と「質」の管理が、ずっと続いている。生殖の権利をないがしろにする政治状況が、ずっと続いている。その権利侵害が、優生保護法の「優生条項」として、そして「経済的理由」を削除しようとする暴政として、性同一性障害特例法の不妊化要件の存置として、続いている。

 ここにあるのは、1つの現実だ。生殖の権利の侵害。

 国家による人口の「量」と「質」の管理に対する抵抗。わたしの尊敬する女性運動の先輩から受け継いだ知恵は、2023年の現在においてもあまりに新鮮(フレッシュ)で、あまりにもアクチュアルだ。

 いつも、ばらばらにされそうになる。対立させられることもある。うんざりだ。それぞれの状況に応じて、それぞれのニーズがある。それぞれの闘いがある。わたしにも、切実な問いがあり、闘いがある。いまも、トランスジェンダーの性別承認法における不妊化要件と優生思想の歴史を研究している。不妊化要件の廃絶を説く論文も今年には出す予定だ。ばらばらの私たちをばらばらにさせる力学に、抗っていたい。

 生殖の権利。大切な人権の1つだ。その同じ権利が、いろんな人たちからいろいろな仕方で奪われている。だから、それぞれの状況がそれぞれであることは大切にしつつ、でもつながりたい。誰かの生殖の権利がないがしろにされている限り、その社会・国家で生殖の権利が守られているとは言えない。誰かの生殖のニーズが、ある瞬間には満たされているとしても、それは生殖の権利が守られている状態とは言えない。なぜなら「生殖の権利」を求めるとは、誰かの生殖だけを「正当な」生殖として支持する一方で、誰かの生殖を妨害したり、禁止したり、無視したりする国家のあり方そのものに抵抗することだからだ。誰かの生殖のニーズがないがしろにされる状態が当然視されるかぎり、そこに生殖の権利はない。

 石原燃さんは、寄稿の最後でご自身に言い聞かせる。

私の身体は、私のものだ。

 私の身体を、すべての「私」が生きられるように。生殖の権利という、1つの権利を私たちから奪いさろうとする国家の力学が1つの論理に貫かれているのなら、その権利を求める私たちがばらばらでいるわけにはいかない。