ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

出版記念イベントについて

 『トランスジェンダー問題』(拙訳)が出版されて約5カ月が経った。その間、同書の刊行記念イベントとして、いくつものイベントに登壇した。多くの書店さんなどが本書に興味を持ってくださり、企画が次々と立ち上がったのは、本当にありがたいことだった。ただ、そうしてイベントに登壇するなかで、気になることがいくつかあった。以下では、そのなかから書き残しておくべきだと思われることについて書く。

0.はじめに
 社会生活上の行動制限が徐々になくなりつつあるとはいえ、コロナ禍で書店に足を運ぶお客さんが激減したことは、出版界全体にとって大きな変化だっただろうと思う。そうしたなかで、これまで対面が中心だった出版記念イベントのオンライン化が急速に後押しされ、また以前までそうしたイベントを行ったことのない主体(書店等)が、Zoomなどを使って新たに参入するといったことも起きた。
 わたしは、基本的にこの変化を好ましいものだと思っている。東京や大阪に住んでいる人にしかそうしたイベントにアクセスできなかったという、地理的条件がほぼ除かれたのだから、純粋に多くの人たちに機会が開かれる結果になったはずだ。
 加えて、コロナ禍による(実店舗での書籍)売り上げの減少や、昨今の物価高による損失が、そうしたイベントの参加費収入によって少しでも補填されることがあるのなら、これからも書店や出版社が継続的に営業・活動を続けるために、そうしたイベントが活発化することはよいことだと思う。
 そのうえで、やはり――その範囲は明示しないが――業界全体として仕組みを改善できる点があると思われる。以下にわたしが書くことは、以上のような現状認識に立ったうえでのものである。

1.連絡の不透明性について
 この手のイベントは、書店さんなどイベントを主催する機関(以下「主催機関」)から、出版社を経由して、著者・訳者に依頼がくるケースが多い。しかし、イベントの打ち合わせの日程や、当日の段取り、配信環境の説明など、何から何まで出版社があいだに入るかたちで連絡をしなければならないのは、必要以上に手間がかかるプロセスであり、合理性を欠いているように思う。最初の登壇依頼はともかく、それ以降は、主催機関の担当者と、イベントの登壇者で、なるべく直接やりとりできた方が絶対に話が早い。必要に応じて出版社の担当をCCに入れればよいだけの話だ。
 なかには、主催機関の担当者から登壇者まで直接メールを送るのは失礼ではないかと考える人もいるようだが(実際にいた)、なにからなにまで出版社(の担当編集者や営業担当者)をいちいち介して連絡するのは中継する出版社さんにも大きな負担になるうえ、登壇者サイドからすると、やり取りしているはずの主催機関の担当者がいつまでも「見えない」状況に置かれるため、信頼感を醸成しにくく、むしろ連絡に不透明さがつきまとう。主催機関は、主催機関として責任をもって対応してほしい。もちろんこれは主催する各個機関と出版社の力関係の問題でもあるのだが、出版社の編集・営業さんにイベントの連絡と調整を丸投げして、主催機関はZoomの設定だけ行う、といったスタンスはさすがに無責任だと思う。

2.謝礼について
 上記の問題と関連することもあるが、登壇にあたっての謝礼が明示されない仕事の依頼がときどきある。0円なら0円でもいい。絶対に、最初に、明示してほしい。そして、この手の出版記念イベントは当日 90~120分(+事前打ち合わせ1時間)で1万円くらいが相場だ。この価格が適正かどうかも、改めて考えて欲しい。
 例えば、わたしは現在群馬県内に住んでおり、都内の会場に出向くには電車賃だけでも往復1万円弱かかる。この時点で謝礼はほぼ消える。加えて、イベントは夜の時間帯が多いため、登壇のために上京すればほぼ確実に泊まりになる。もちろん、そうした上京の機会に紐づけて、他の出版社さんと打合せをしたり、研究者の知り合いのところを訪れたり、といったことをしているので、純粋にイベントのためだけに交通費・宿泊費を支出しているわけではない。しかし、わたしの赤字を前提としたイベント企画が自明視されているのはいったいどういうことなのだろう、と思うことはある。
 今回いくつものイベントに登壇した。もちろんそれぞれ主催機関の性格は異なっており、Webメディアや書店が主催するものだけでなく、大学主催のトークイベントや、NHK文化センターの「講座」もあった。あまりお金の話はしたくないが、これらのイベントのなかに1つだけ歩合制の仕事があり、そこからは10万円くらいもらった。他方で、当初の謝礼金額が0円のものもあった(※交渉して最終的には1万円もらった)。金額の開きが大きすぎる。
 今回わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者としてイベントに登壇していたが、どのイベントにも非常に多くの来場者があった。イベントごとに参加費(後述)が異なり、単純な人数比較はできないが、無料~1500円くらいの価格帯で毎回 200名~350名くらいの方が来てくれた。これは、この種のイベントでは例外的に数が多いことをわたしは知っているし、全てのイベントを歩合制にしろと言っているわけではもちろんない。しかし、ときにイベントチケットだけで30万円以上のお金が動くこともあるなか、出版社は(営業=販促という建前から)ほぼ手弁当に近く、登壇者もまた1万円で固定、という分配が放置されているのは持続性という観点から問題がある。
 もちろん、イベントが組まれることは訳者・著者としてとてもありがたい。多少の赤字が出たとしても、販促に協力したい気持ちはある。しかし繰り返すが、現状の環境はかなりのていど登壇者と出版社営業部・編集部の負担にただ乗りしている面があり、持続性の点から問題を含む。
 なかには、主催機関ではなく出版社から登壇者に謝礼が支払われるケースもある。登壇者への謝礼が「何に」対する対価であり、「誰が」それを支払うのか、参加費収益のうち、主催機関と出版社での取り分は適正なのか、そのつど考えたうえでイベントを進めてほしい。主催機関がイベントを「出版社による宣伝の機会」としか捉えておらず、そのため登壇者への謝礼も払おうとしないケースが少なからずあるが、わたしにはそれが適正なバランスであるようには思えない。

3.参加費について
 現在、この手の(書店主催の)イベントでは参加費1500円がスタンダードになりつつある。しかし、正直言って高い。一般書が1冊あたり1000~2000円(場合によっては3000円くらい)なのに、出版記念イベントがそれとほぼ同額というのは、少し立ち止まって考えるべきことだと思う。
 とはいえ、わたしが登壇したものに関して言えば、1500円のイベントでも200~250人くらいの参加者が集まっており、その意味で「適正価格」だと言えばそうなのかもしれない。しかし、それは需要と供給のバランスという点からの「適正さ」であって、民主的なしかたで「知」を分配するという観点からは、あまり「適正」ではない。お金がある人しか参加できないからだ。
 加えて、これは素人考えになってしまうが、いまの価格設定は「登壇者に強い興味がある(熱心な)参加者を50人集める」ことでイベントを黒字にしようとするモデルに依拠しているように思う。しかし、やはり「知」を広く分配するという観点からは、そうした「熱心な50人」をターゲットにした企画はあまり望ましくない。
 もちろん、主催機関が営利を求める組織である場合、利潤を求めるのは当然だ。そして、イベントの収益が主催機関の存続ならびに活動に生かされるなら、単発で黒字がでること自体は良いことだと思う。しかしわたしの感覚からすると、1500円はやはり高すぎるし、1500円払っても聞きに来てくれる「熱心な50人」の外側にいるはずの潜在的な参加者へのアプローチ機会として出版記念イベントが機能した方が、結果として書籍はよく流通するのではないかと思う。実際、「800円くらいなら聞いてみたかった…」という理由でイベントを見送った経験がわたしには無数にある。今後、参加費についても各主催機関に再考を願いたい。

4.参加者の安全について

 参加者間でチャットが自由に送付可能・閲覧可能な状態でZoomイベントを開催しようとしている主催機関がいくつもあった。本当にやめてほしい。
 コロナ禍に入って3年になるが、オンライン上のこうしたイベントの、誰でも見られるチャット欄に、トランスジェンダーに対して攻撃的・差別的な書き込みが投下されるのを幾度も目にしてきた。だからわたしは、チャット欄がオープンになっているイベントについては、全て閉じるようお願いした。それは、第一にはとりわけトランスの当事者の人たちが不安を感じないようにするためであり、第二には、誰でも見られる場所に投下された攻撃的・差別的または不適切な表現を含むチャット投稿に対するフォローアップを行うコストを省くことで、わたしがイベントに集中するためでもある。
 ただ、いくつものイベントに登壇して、改めて感じたことがある。たいていの主催機関の人たちは、いまトランスの人たちがオンライン上でどれだけ危険な言葉に暴露され続けているのか、知らないのだ。そんなことも知らずに『トランスジェンダー問題』の刊行記念イベントをしようとしているのかと思うと、正直ばかみたいだと感じることもあった。
 チャット欄を閉鎖するというのは、一時的な措置に過ぎない。そんなことをしても、世の中から差別言説がなくなるわけではない。しかし、せっかく高いお金を払ってリアルタイムで参加してくださっている方たちが、その場で傷ついたり、あるいは傷つく可能性を恐れて集中してイベントに参加できないといったことは、絶対に避けたい。

5.環境について
 
「連絡の不透明性について」で書いたこととも関連するが、イベント直前まで、どのような配信環境なのか不明なことがある。最も困るのは、イベント中に寄せられた質問をどのように登壇者が確認するのか不明、というケースだ。しかし残念ながらそのようなケースは多い。登壇者がリアルの会場で話しつつ、オンラインでも同時配信する場合、登壇者の手もとの端末でZoomの「Q&A」等を閲覧できなければ質問を確認できない。しかし、このレベルの確認すらできないままイベント当日を迎えることがままある。
 ときに、参加者から寄せられた質問は(PC端末を操作する)スタッフが読みあげる、という提案されることもあったが、内容によっては非常に危険な・攻撃的な・差別的な文章がそのまま読みあげられる可能性もあるうえ、質問の回答順序に裁量がきかなくなるため、そうした提案は断った(これは「参加者の安全性について」で書いたこととも重なる問題である)。デフォルトでどのような配信環境なのか、そしてそれによって登壇者と参加者の安全は守られるのか、事前に明確にしたうえで可能ならば登壇者と相談する機会を設けて欲しい。

6.情報保障について
 主催機関には、原則として、ろうの参加者・耳の聞こえない参加者への情報保障を行うことを求める。今回わたしが登壇した一連のイベントのうち、そうした情報保障が適切に遂行できたのは1つだけだった。
 情報保障の手段は、いくつもある。専門の業者に依頼してリアルタイムで字幕を付けることもできれば、登壇者の発言を「UDトーク」等のアプリを経由して字幕化させたうえで、スタッフで漢字の誤変換などを修正し、それを配信することもできる。あるいは人員が少ないようであれば、「UDトーク」による字幕化をそのまま配信することもできる(ただし漢字の誤変換などはそのままである)。場合によっては、リアルタイムでの字幕提供を諦めて、書き起こしスクリプトを提供することもできる。また、コストがかかるとはいえ、録画した動画に都度の字幕を挿入することも事後的に可能である。
 ここで重要なのは、そうした情報保障を「行う」ことに対する特別な理由を探すことではなく、むしろ「なぜ行わないのか」、という問いを立てることである。実際のところ、そのように「行わない」ことはそれだけで特定の人たちをイベントから排除することを意味しているのだから、本来正当化が必要なのは「行う」方ではなく「行わない」方の選択である。
 もちろん、主催機関にもさまざまな制約がある。予算や人員など、すぐには増やせないこともある。しかし「ろうの・耳の聞こえない参加者などいるはずがない」という前提でイベントを続けるのは、いいかげんやめてほしい。現状よりもインクルーシブなかたちに情報提供の手段の拡張することは、確かにコストがかかることがある。しかし繰り返すが、いま問われるべきはそれが「特別なコスト」に感じられる現在の文化・環境が、どのような排除を自明視したうえで成り立っているのか、ということである。

7.書き手と話し手について
 コロナ禍とは無関係に生じていた変化として、SNSにフォロワーを多く持つ人ほど本を出しやすいという、少しだけ困った環境が生まれつつある。編集者さんたちも、いまやSNSを追いかけて「書ける」人間と「売れる」人間を品定めしている。加えて、この「出版記念イベントブーム」により、「書ける」だけでなく「話せる」書き手さんに、今後ますます仕事が集中していくことが懸念される。
 確かに、イベントに多くの人を集められるような、魅力的な話ができる人がいるのは素晴らしいことだ。そして、そうした話し手のおかげで、イベントが盛り上がり、出版社・書店さん・書き手さん・参加者さんが広く利益を受けることがあるのなら、それもまた素晴らしいことだ。しかし、今後そのように「話せる」書き手のところに出版企画が集中するようなことがあれば、出版業界はますます多様性を失うだろう。話をするのが上手くない人、苦手な人にだって、優れた書き手は絶対にいる。
 加えて、マイノリティの人権にまつわることについて書いたり、表現したりする人たちは、しばしばそのマイノリティ性と共に生きていることが多いため、そのようなイベントへの登壇は、そうした人に対して大きな負担・リスクを生み出す。そのこともぜひ覚えておいて欲しい。何が言いたいかというと、この種のイベントで「話せる」書き手であること自体が、一種の特権だということだ。
 ここでは特に、顔や声をさらすことが生活に大きなリスクを生み出すという、少なからぬトランスの人たちの状況を想像してみて欲しい。そのうえで、そのような心配を抱かずにイベントに登壇できる(シスジェンダーの)人たちがどれだけ恵まれた環境にいるのかについても、どうか想像を巡らせてほしい。

8.今後について
 『トランスジェンダー問題』が刊行されてから約5カ月、継続的にイベントに登壇する機会があった。本当にありがたいことだと思う。しかし、今後わたしと同じような属性の書き手さんが増えたとき、あるいは今回のわたしと同様にトランスのトピックについて積極的に表に出てイベントに登壇する機会のある人が生まれたとき、そうした人たちが不当に搾取されたり、危険にさらされたりする環境をわたしは残したくない。今回この記事を書いた最大の動機は、その点にある。
 わたし個人については、それほど問題はない。わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者印税をすべて献本に回すような人間だし、イベントの謝礼の多寡が生活に直結するといったこともない。だからこそわたしは、出版記念イベントをめぐる環境がきちんと整えられることを強く願う。わたしのように様々な余裕のある人間が適当に身銭を切って販売促進に協力して、これまで書いてきたような色々なことがうやむやにされたまま、よくない慣行が放置され、登壇者と参加者の安全が損なわれるような状況が放置される限り、とりわけ差別や人権にまつわる出版の環境はよくはならない。
 わたしは気まぐれでこの翻訳を引き受けたわけではない。わたしは、『トランスジェンダー問題』のあとにつづく本のために、この本の翻訳を引き受けた。いま、LGBTトランスジェンダーにまつわるトピックには、著しい「知の需要」がある。その需要に応えるべき出版社や書店さんたちが、少しでもよいかたちで出版記念イベントを継続できるように、わたしが気づいたことをいくつか書き残した。数年後、なんでもないひとりのお客さんとして、わたしは誰かの出版記念イベントに安心して参加したいのだ。