ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

心でも身体でもない「生活する性別」について

 この記事ではこれから、「生活する性別」という概念を紹介します。この概念を手に入れることで、トランスジェンダーの人たちの生きる状況がよく理解できるようになるからです。反対から言えば、この「生活する性別」という発想を持っていないと、トランスの人たちについて、誤った理解を持ってしまう結果にもなります。

1.「心の性」と「身体の性」

 トランスジェンダーの人たちの状況を言うために、これまでずっと「心の性」と「体の性」という概念が使われてきました。「トランス男性は『身体が女性で心が男性』の人です」といった風に。これらの言葉は、社会がトランスジェンダーの存在を理解し、受け入れるために確かに役に立った面もありました。しかし、その目的にとって、明らかに物たりない面があります。詳しくは以下に書きました。

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 上の記事では、「心の性」と「身体の性」をやめるべき理由を手短に説明しつつ、トランスの人たちの現実を理解するにはもっと複層的な視点が必要なのだ、ということを書きました。記事で紹介したのは、以下の表です。

 4人の男性がいます。一番左のシス男性は、ジェンダーアイデンティティも、法的に登録された性別も、身体の性的特徴も、生活も、すべて「男性(的)」です。対して、左から2番目にあたるトランス男性①(ハルト)は、アイデンティティは男性ですが、法的登録は女性です。そして、働く場所ではほとんど「男性社員」でしかないものの、一部の上司からは「男性ではない」扱いを受けていることで悩んでいました。商業施設などに行けば、当然のように男性として接客され、男性として買い物やレジャーを楽しみますが、実家に帰れば「娘」扱いをされてしまいます。こんな風に、生活する様々な場所(職場・実家・商業施設…)に応じて、生きている性別が食い違っている状況のトランスの人は、結構います。
 もちろん、全てが一貫している状態の人もいます。上の表だとトランス男性②の人がそうです。この人は、生活空間の全領域において「男性」として一貫して生きていますので、シス男性と実態として違いがありません。なお、このような状況の人が、生活の(ほぼ)全領域においてトランスジェンダーとしてカミングアウトすることなく、この一貫性を保持しているとき、このような状態を「埋没している」と言います。他方で、一番右のトランス男性のように、自身のアイデンティティ(男性)に沿った仕方では、生活を送れていないという人もいます。
 このようなトランス男性の多様性は、「身体は女性だが心は男性」といった説明では一向に見えてきません。彼らの状況は、一人一人ちがいます。性別移行の状況が違うからです。そして、まさしくその「性別移行」について理解するために必要なのが、これから紹介する「生活する性別」です。そして同じことが、トランス女性の人たちにも、ノンバイナリーの人たちについても言えます。

2.性別移行

 「生活する性別」という言葉あるいは発想を耳にしたことがある人は、少ないかもしれません。わたしはその理由を知っています。それは、世の中で広く使われてきた言葉はシスジェンダーを前提としたものだからです。
 上で紹介した表を思い出してください。一番左の男性はシス男性でした。この男性は、上から下まで全部が「男性(的)」です。結果として、このようなタイプの男性は自分のことを「男性」としてしか考えていません。「性別」というものをこの(表の)ように複層的な観点から考える必要性が、そもそもないのです。要するにシスの人たちには、そもそもジェンダーアイデンティティと法的な登録を分けて考えたり、身体の特徴と生活の在りようを分けて考える必要がありません。だから「生活する性別」という概念や発想にも、多くの人は馴染みがありません。
 しかしトランスの人は違います。トランスの人のなかには、法的登録とアイデンティティが食い違っていたり、法的登録と生活の実態が違っていたりする人がいます。それらが分離しうるということを、実体験から知っています。おのずと「生活する性別」という概念が必要になります。しかし繰り返しますが、世の中に流通する概念、言語そして情報は、シスの経験を中心に構築されているので、そのような概念は普及していません。ここにはシス/トランスのあいだの解釈上の非対称性があります。
 このような言葉の非対称性は、性別移行の経験の有無という点から考えることもできます。トランスの人には、生きていく性別を変えていこうとしたり、実際に変えたりする人たちがいます。これは、シスジェンダーには基本的にあり得ない経験です。このとき、トランスの人たちは何を移行しているのでしょうか?性別移行だから、性別を移行しているのですが、ではその「性別」とは何でしょうか?
 多くの人にとって最も分かりやすいのは、身体的な移行(すなわち治療)だと思います。ホルモン治療によって声が低くなったり、毛深くなったり(テストステロン)、胸に膨らみが生まれたり、脂肪がつきやすくなったり(エストロゲン)します。また手術によって胸の膨らみを除いたり、陰茎を作ったり、あるいは陰茎や精巣・陰嚢を除去したりします(性別適合手術)。そのような医療的介入のニーズを深刻に抱えるトランスの人は確かにいますし、そうして引き起こされる身体の変化が、性別移行において重要な意味を持つことは間違いなくあります。
 他方で、そのような身体的改変「だけ」で性別移行を理解することは、できません。例えば、陰茎の存在に強い違和を経験しているトランスの女性がいたとします。彼女にとって、性別適合手術はとても重要な医学的ニーズなのです。彼女は、陰茎のない身体(むしろ膣のある身体)をこそ自身の身体として経験するため、そうした彼女の性別違和を解消するための性別適合手術は、きっと彼女に大きな喜びをもたらすでしょう(激痛は伴いますが)。
 しかし、陰茎がなくなることだけが、彼女の望みでしょうか。それだけが彼女の性別移行でしょうか。もし、彼女が標準的に理解されるトランスジェンダーの女性であるなら、きっとそうではないはずです。
 陰茎は、ふつう他人からは見えません。下着やズボン・スカートを履いているからです。ですから、このトランスの女性が、あるとき陰茎を切除したとしても、バイトの同僚や、学生時代の友人には、全く分かりません。このことは、陰茎の有無は実のところ社会生活にほとんど何の変化ももたらさないことを意味しています。
 このとき、そのような手術を望むトランスの女性の「性別移行」とは、いったい何なのでしょうか。もちろん、手術を必要とする人はいます。この身体では生きていけないという違和で目の前が真っ暗になり、他のことが何一つ考えられなくなり、自分の身体を傷つけてしまうくらいに身体のことが憎くて憎くて気持ち悪くて吐きそうになるという人はいます。(※これは性別違和に関する1つの経験的描写にすぎません)
 ―――しかし、たとえ身体にまつわる性別違和が非常に深刻であるとしても、「陰茎のない男性として生きていくこと」を、きっと彼女は望んでいないでしょう。彼女が望んでいるのは、男性から女性へと性別を移行することであり、「陰茎がなくなりさえすれば(それまでと同じように)男性として生きていてもいい」とは、多くの場合考えないだろうと思います(――そのようなケースは、性別違和というよりも身体完全性同一性障害(BIID)の経験に近いのではないでしょうか――)。もちろん、身体の違和に思考を支配されているときに、生活のことなんて考えられなくなるという人もいるでしょう。とにかく身体を治療することだけを考えていて、それから先の人生を生きていく未来なんて想像すらできないという人もいると思います。そういう人は確かにいますし、分かります。しかし、いざあるていど性別移行を済ませた人のなかで、身体の特徴を変えること「だけ」が性別移行であると考える人は、ほとんどいない(あるいは標準的には想定されない)だろうと思います。
 別の角度からも考えてみましょう。このような手術をするトランス女性は、おそらくはそのほとんどが、すでに女性として生きています。もしくは、女性として生き始めています。多くの場合はホルモン治療をすでに始めているでしょうが、体つきや外見、周囲からの見なされ方、視線の動かし方や、髪型、名前などなど、性別と関連する多くの要素をすでに「女性(的な状態)」へとシフトさせているケースが多いでしょう。このとき、彼女はすでに性別を移行し始めています。男性から女性への移行です。そして、そうした性別移行がかなりのていど進んでから、上に挙げたような性別適合手術を受けていることがきっと多いはずです。そう考えるとやはり、このようなトランス女性に対して「陰茎がなくなりさえすれば(それまでと同じように)男性として生きていてもいい」という欲求を見いだすのは標準的には不適当だということになります。
 さて、ここでは「性別移行とはなにか?」ということをイメージするために、身体的な移行(治療)について少しだけ考えてきました。このような議論から分かるのは、トランスの人たちが行う「性別移行」は、個人的な水準、法制度的な(登録上の)水準、身体的な水準、社会生活上の水準など、複数の水準にまたがっているということです。そして、この記事にとって大事な発想が、ここに登場します。「生活する性別(生きている性別)」です。

3.生活する性別

 トランスの人たちには、生きていく性別を変えていく人たちがいます。生活するそれぞれの場所で、自分がどんな性別で生きるのか。その性別を、場所に応じて1つずつ変えていくのです。これこそが、性別移行において大きな意味を占める実践です。上に紹介したハルトを見てください。ハルトは、おそらくはその男性的な身体の特徴をふくむ外見や、声の低さ、また名前や振る舞い方などから、職場では「男性社員」として基本的に働くことができています。しかし、戸籍の性別表記を知られている部長の認識は「ひっくり返す」ことができていません。また実家の家族にも、状況がよく理解されておらず、「娘」扱いされてしまう状況を「ひっくり返す」ことができていません。しかし、知り合いのいない商業施設や公共交通機関においては、かつて「女性」的に生活していた状況を「ひっくり返す」ことができています。かつてはあらゆる場所で「女性」として存在させられていたであろう状況を変えるべく、ハルトはそれぞれの場所「ひっくり返して」きたのです。その過程では、転職をしたり、人間関係を大規模に再編(清算)している可能性も高いですが、それもまた「ひっくり返す」実践の一部です。
 そうした性別移行は、とはいえ男性➤女性/女性➤男性といったバイナリーなプロセスとは限りません。例えば、以下のようなノンバイナリー・トランスフェムの人がいたとします(アミ(さん)と呼んでおきましょう)。

 こういう状況の人は、少なからずいます。アミは2つの職場を持っています。1つ目は飲食店で、2つ目は雑貨屋さんです。飲食店は学生時代からずっと勤めていて、アミが男性として大学に通っていたときから、料理長とはずっと同じ職場です。仕事はそこそこ気に入っています。現在のアミはぱっと見の外見も話し方も、体つきもほとんど女性的になっているので、新しく入ってきたスタッフはアミのことをなんとなく「女性の仲間」として認識し、実際に女子会などにも誘っています。ただ、料理長だけはアミの過去を知っていることもあり、アミを男性の延長戦上で扱い続けてしまうようです。そのせいでアミがトランスであることは職場には知られていますが、他のスタッフもあまり気にはしていません。職場②(雑貨屋さん)の方では、アミはもっぱら女性として働くようにしています。男性のふりをするよりも、その方がアミは自然体でいられます。
 知り合いのいない映画館や商業施設に来ると、アミはもうシスジェンダーの女性と見分けがつきません。アミは、着ているものも女性用のものばかりで、髪も長く、女性の顧客に混じって、買い物をしたり映画を観たりします。
 アミはしかし、女性としてのアイデンティティを持っていません。アミはトランスフェムですが、ノンバイナリーなのです。そのことをオープンにできるのが、地元のLGBTサークルです。サークルと言っても、月に1度、地元の当事者たちで集まるお茶会です。ここでは、アミは自分がノンバイナリーであることを伝えています。だから周りの参加者も、アミを「女性」としてではなく、ノンバイナリーとして受け入れます。
 実家の両親も、今ではアミが男性ではないことを受け入れています。しかし、両親の頭の中ではどうしても「男性から女性になった」という認識になってしまうようで、アミはもう諦めています。かつては性別移行について猛烈に反対されていたので、そのころを思えば、「女性」として受け止め、接してくれているだけで十分です。
 家族と会って疲れた時などは、SNSを開きます。Twitterのアカウントを持っていて、そこではトランスっぽい人たちとゆるく繋がっています。このアカウントはアミが性別移行を始めたときに開設したもので、プロフィールにも「ノンバイナリー/トランスフェム」と記載しています。かつては「MTF-GID」の人たちとの交流が多かったアミですが、最近は「ノンバイナリー」を自認する人たちとの方が、居心地がいいと感じます。
 地元には、親友がいます。中学時代からの仲良し3人組です。性別移行を始めた時、アミはもう3人組は解散だと思いました。しかし、縁を切るつもりでLineグループに投稿したアミのカミングアウトを見た親友2人は、一生懸命アミを理解しようとしました。本を読んで勉強したり、アミとの関わり方を丁寧に探ったりしてくれました。結果として、親友2人は(ほぼ女性として生きている)ノンバイナリーとしてアミのことを理解し、そういうアミと一緒にいまも3人組を続けています。
 これが、アミの生活する性別です。アミは、生まれた時に男性を割り当てられています。ですので、実家でも学校でも、外出先でも、生活はすべて「男性」として送っていました。それからアミは、性別を移行し始めました。様々な場所で自分が生きることになる性別を、1枚ずつひっくり返していったのです。新しい職場を手に入れ、ちょっとした説明もしつつ、女性として働くことができるようになりました。実家の両親とは激しい喧嘩もしましたが、いまは和解しています。「息子」の状態をひっくり返して、いまは「娘」ということで落ち着きました。他方で、親友3人組における性別も、アミは「ひっくり返し」ました。とはいえそれは、男性➤女性 ではなく、男性➤ノンバイナリーへの変化です。カミングアウトと、親友の努力によって、アミは「親友3人組」における「生活する性別」を移行することができたのです。
 こんな風に、生活する性別は「女性」と「男性」だけに限りません。周囲の理解と、カミングアウトのための言葉があれば、「ノンバイナリー」や「ノンバイナリー/トランスフェム」として存在することもできるのです(常にうまくいくとは限りません)。
 そして一般的な話としても、トランスの人たちが実践する性別移行にはこうした機微があることを理解しておく必要があります。いま見てきたように、性別移行の中核には場所ごとに生活の在りようをシフトさせる実践がありますが、それぞれの場所には、それぞれの事情が複雑に絡み合っており、それぞれの場所で重視される要素が違っているからです。例えば、アミの職場①には、料理長がいました。料理長にとっては、アミが男子大学生だったときの記憶が「重み」をもつので、アミをいつまでも「男性」扱いしてしまいます。他方で新規のスタッフにとっては、アミの見た目や振る舞い方、また職場でのコミュニケーションの在りかたのほうが「重み」をもつので、たいていのスタッフとはアミは「女性」としてコミュニケーションしています。
 料理長にとって過去が相対的な「重み」をもったように、実家の両親にとっても、アミを「息子」として育ててきたという過去の来歴は圧倒的な「重み」をもったはずです。しかしその「重み」は、アミのカミングアウトと度重なる喧嘩、そして両親の理解と受容によって、少しずつ減りました。今では、アミの現実の在りかたの方が「重み」をもつに至り、実家では「娘」として存在することができています。
 このように、ある場所において、トランスの人がどのような性別を生きているのか/生きることができるのかというのは、それぞれの「場」ごとに異なる「要素の重みづけ」に依存します。知り合いのいない商業施設では、せいぜいぱっと見の外見(そこには身体の動かし方なども含まれる)くらいしか「重み」をもつ要素はありませんが、実家や級友との関係では、そうもいきません。トランスの人たちは、それぞれの「場」において働く「重みづけ」の力学を見極めつつ、ときにカミングアウトをしたり、しなかったりしながら、生活する性別を移行していかなければならないのです。
 そして、その性別移行のプロセスでは、誰もが(アミやハルトのように)生活する性別の「分散」を経験します。すべての「場」を、一挙に同時にひっくり返すことはできないからです。しかし、その「分散」の状態を減らしていって、特定の性別の状態で生活を一貫させていく人も(上述のトランス男性②のように)います。いずれにせよ、「生活する性別」というこの概念を持っていないと、そのようなトランスの人たちの現実と変化を理解することはできません。

4.抜け落ちる現実

 この記事は、「生活する性別」という概念・発想を皆さんに紹介することを目的としていました。ここで改めて、「心の性」と「身体の性」という概念の組み合わせに戻ってみましょう。いまや(前回の記事以上に)この概念の組み合わせから抜け落ちてしまう現実があることがお判りいただけると思います。私たちの生活の「場」には、それぞれ「重み」をもつ要素があり、その要素をうまく見極め、周囲の人との関係を調整することによって、トランスの人たちは「生活する性別」を移行していきます。カミングアウト1回で完了する「場」もあれば、激しい葛藤を伴う「場」もあるでしょう。徐々に理解を得ていく「場」もあれば、ぱっと見の外見だけで生活する性別をコントロールできてしまうような「場」もあるでしょう。
 「心の性」と「身体の性」に欠けているのは、ですからこの「生活の現場」です。トランスの人たちが生きている現実が、その概念の組み合わせからは見えてきません。トランス男性のハルトについて、「身体が女性で心が男性」などという理解をしたところで、ハルトの職場での働き方や、実家での葛藤、日常生活の在りかたは見えてきません。先ほどのアミに対して「身体が男性で心がノンバイナリー」などと説明してみたところで、アミの現実はさっぱりひとつも理解できません。それらの言葉には、生活の現実を表現する力がないからです。
 そのような表現はむしろ、トランスの人たちの現実を表現するよりも、覆い隠してしまっているかもしれません。実際、いまSNSで盛り上がってしまっているトランスヘイトの多くは、そのような「覆い隠し」の結果であるとさえ、言えるかもしれません。私たちはシスの人たちを中心にして編成されてきた言葉や情報の在りかたを、変えていく必要があるのです。
 この長い記事を最後までお読みくださりありがとうございました。ここに書いた内容は、まもなく発売の『トランスジェンダーQ&A   素朴な疑問が浮かんだら』の執筆を通して明晰化されたものです。この記事を興味深く読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ぜひ書籍を手に取っていただければと思います。

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