ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

特例法を必要とするのは誰か?

 この記事では、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)について、この法律を必要としている状況にある人とはどんな人たちなのか、わたしなりに説明したいと思います。昨年には特例法の一部に違憲判決が下り、大きなニュースになっていましたが、今年も同様の違憲判決が予想されており、法改正の議論がこれから加速していきます。そんなとき、「そもそもこの法律って誰のためのものなの?」と疑問に思う人は増えることが予想されます。ですから書きました。
 最初に自己紹介をしておくと、わたしは『トランスジェンダー問題』(明石書店)の訳者で、『トランスジェンダー入門』(集英社)の共著者です。また、まもなく『トランスジェンダーQ&A』(青弓社)という書籍が発売になるほか、先月ちょうど、この特例法について扱った『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店)という書籍を出版しました(編著者として)。特例法について考えたい方には、まずは『トランスジェンダーと性別変更』をおすすめします。ブックレットなので読みやすいです。

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1.戸籍の性別がおかしい

 特例法を必要としているのはどのような人たちでしょうか?この問いに答えるにあたり、ひとつ一緒に考えて欲しいことがあります。
 突然ですが、あるとき自分の身分証の性別欄が書き換わってしまったと仮定しましょう。例えばあなたがシスジェンダーの女性だとして、あなたは女性として生きているのに、気づいたら保険証やマイナンバーカードの性別欄が「男」になっていたと、そう仮定します。怖くて調べてみたら、どうやら住民票も戸籍も「男」になっているようです。逆でもかまいません、あなたが男性で、男性として生きているのに、保険証や住民票、戸籍には「女」と書かれてしまっています。
 そんなこと、大したことではないと思うかもしれません。確かにそうですね。日常生活を送っていて、他の人に住民票や戸籍謄本を見られる機会なんてありませんから、生活にすぐに不便が生まれることはないように見えます。
 でも、これから就職・転職をする、というタイミングであればどうでしょうか。履歴書の性別欄にはなんと書けばよいでしょう? そもそも自分は女だし、女として生きているし、女として働くつもりなのだから、当然「女」と書くに決まっている。そう思うと思います。でも、あなたがそうして「女」と書くと、採用内定までもらった後に、「嘘をついていた」という理由で内定を取り消されるかもしれません。勤め先の共済に加入する手つづきをしている途中で、あなたの住民票の性別が「男」になっていることがバレてしまって、虚偽申告をしたから採用できない、というのです。
 だったら仕方ない。履歴書には「男」と書いて、面接で説明すればいい。そう思うかもしれません。しかし、履歴書に「男」と書いていたはずの候補者が、どう見ても女性であり、本人も女性として働くつもりだと聞かされて、会社の人事担当は困ってしまうかもしれません。なぜこんなことに?どうして住民票が「男」なんですか?――そんな質問に答えているあいだに、あなたは面接時間を使い切ってしまいます。他の候補者ならば、自己アピールに使えたかもしれない時間を、あなたは書類の性別に対する弁明で使い切ってしまうのです。
 ほかにも、病院にいくときはどうでしょう。例えば、コンタクトを新調するために眼科に行くとします。しかし受付で保険証を提示したところ、スタッフさんはぎょっとしてじろじろ自分を見てきます。場合によっては、「ご本人でないと処方箋は書けません」と突き返されたり。
 投票所でも同じです。一部の自治体では投票所入場券に性別欄がありますから、地域の投票所の入り口で、あなたは自分の生きている性別とは違う入場券を差し出さなければならないかもしれません。近所に住む町内会の人が受付をしていますが、あなたの入場券を見た人たちは、裏でひそひそ話をしているようです。
 なぜ、こんな面倒なことになってしまったのでしょうか。
 それは、あなたが生きている性別と、あなたの公的書類の性別欄(の表記)のあいだに、食い違いがあるからです。あなたは女性として、あるいは男性として生きているのに、書類に「男性」とか「女性」とか、おかしな性別が書かれているからです。そのせいで、あなたは深刻な困難を経験します。就職や通院、投票など、生きていくなかで大事なタイミングで、あなたの書類が、あなたの人生を阻みます。身分証に身分を保証されないからです。そしてあなたが異性愛者なら、あなたは結婚ができないことにもなるでしょう。―――戸籍の性別が生活の現実とずれてしまっているせいです。
 生きている性別とは違う性別が、公的書類に書かれてしまっている状況。少しだけ想像してもらいました。突飛な思考実験だと思われるかもしれません。でも、それが面倒な事態であることは、すぐに分かると思います。

2.生活する性別

 生きている性別と、公的書類に書かれた性別が食い違うこと。それは大きな困難を帰結します。先ほどはシスの人を想定したうえで、ある種の思考実験として、急に住民票や保険証の記載がおかしくなってしまった!という状況を考えました。しかし、もうお気づきの通り、このような「食いちがい」が生じている状況というのは、一部のトランスジェンダーの人たちが置かれている状況にほかなりません。
 トランスの人のなかには、生きていく性別を変えていく人たちがいます。生まれた時に法的に登録されてしまった性別とは異なる性別へと、生活をシフトさせていくということです。このような性別移行を理解するには、「生活する性別」という概念を持っておく必要があります。詳しくは、以下の記事に書いたので、まずは読んでください。

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 現実問題として、生活する性別と法的登録が「食い違う」人たちが存在しています。その人がトランスジェンダーで、比較的バイナリーな(男女二元的な)性別としての生活実態を自分のものとしていくタイプの人だとすると、そのような「食いちがい」が起きることがあります。
 ただ、注意してほしいことがあります。いま、トランスジェンダーについての標準的な理解としては、「出生時に割り当てられた(=法的に登録された)性別と、性自認(=性同一性/ジェンダーアイデンティティ)が食い違っている」という説明が一般的となっています。ただ、わたしがいま考えたいのは、この「食いちがい」ではありません(!)。いま考えたいのは、生活する性別と法的登録の食いちがいであって、性自認と法的登録の食いちがいではありません。このことに注意してください。

   
 さて、特例法は法的に登録された性別を変更するための法律です。なぜそのような法律ができたのでしょうか?それは、先ほど皆さんに想像してもらったように、生活する性別が法的な登録と食い違っていると、看過できないほどの著しい不利益が発生してしまうからです。その不利益を解消し、就活や通院、転居や投票、場合によっては婚姻にあたってトランスの人たちが差別を受けないようにすること。加えてまた、性別移行後の生活を安定的に送っているトランスの人たちが、書類の表記によって意に反して自分のプライバシーを暴かれないようにすること。それが、特例法の目的です。
 このような特例法の目的を理解するために必要なのは、ですから(性自認ではなく)「生活する性別」という概念ないし発想です。そして、わたしが「生活する性別」について記事を書いてきたのは、この特例法の意義を説くためにほかなりません。

3.特例法を必要とするのはどのような人か?

 特例法を必要とするのはどのような人たちでしょうか。それを説くのが、この記事の目的でした。その答えは、これまでの議論を踏まえれば次のようになります。

特例法を必要とする状況の人

法律上登録された性別と大部分の生活上の性別が食い違っており、そのことによって重要な生活上の領域における安全が損なわれたり、生活上重要性の高い活動に支障が生まれたりしている、もしくは今後そのような状況になる可能性が高い状態の人

 分かりにくいので図にしておきます。

 このうち緑で囲ってある部分が、前提です。生活する性別(生活上の性別)についてこの記事では詳しく説明しませんが、ようするに生活実態として生きている性別のことです。トランスの人のなかには、生まれた時の登録とは異なる性別で学校に通ったり、会社で働いたり、出かけたり、遊んだり、家族と過ごしたりしている人がいます。全員ではありません。でも、現実にいます。それは否定しようのない事実です。そのような人たちは、男性や女性として、生活をしているのです。もちろん、生活上の性別をほとんど移行できたとしても、実家の両親だけには拒絶されるとか、昔の同級生だけは過去の性別で扱ってくるとか、そういうことはあります。ですので、ここでは「大部分の生活上の性別」という表現を使用しました。
 そのようにして、基本的な生活実態が法的登録と異なっていることは、多くの不利益を生みます。例えば、男性として企業で務めているのに、法的登録が「女」になっているせいで、一部の人事関係の人だけにはトランスジェンダーであることを知られてしまっている、といったケース(この記事のトランス男性①ハルトなど)。こういう状況にある人は、絶えず会社でのアウティングに怯えなければならず、働く上での安全を著しく損なわれています。あるいは、法的登録は「男」だが、女性として大学に通っている学生のケース(わたしのこれまでの大学の教え子にも複数人いました)。彼女の法的登録が「男」であることを、ほとんどの同級生が知らない一方で、男女比を調整する語学のクラス分けや、健康診断の通知の宛名などによって、彼女はアウティングされてしまうかもしれません。これらのケースにおける、会社(勤め先)や大学が、上の説明における①重要な生活上の領域に相当します。働いたり、学んだりするにあたって、法的登録が生活上の性別と「食い違う」ことが、大きな困難になっています。
 他方で②生活上重要性の高い活動としては、就職活動や通院、投票、入国審査、あるいは結婚などを念頭に置いています。生活上の性別と法的登録が食い違っていると、そうした大事な場面で、たいへんな困難を経験してしまうことがあります。
 ③今後そのような状況になる可能性が高いというのは、いま現在は①②のような困難を経験していないが、これから経験する可能性が高い、という意味です。例えば、いまの会社ではトランスであることをオープンにしつつ働いているけれども、これから転職する可能性がある(&できれば埋没したい)とか、いますぐに結婚したい相手はいないけれども、将来的に(異性と)結婚する可能性があるとか、そのような状況を考えています。なお、わたしは大学の教員でもありますので、一番は学生のことを念頭に置いています。いまの大学生には、大学入学時点ですでに生活上の性別を移行している方も多く、そうした学生は、就職活動が始まる3年次~4年次には①②のような困難を経験することが多いです。結果としてそうした学生は、1~2年次の時点で特例法によって法的登録を変更するニーズをもつことになります(結果として③に該当)。

4.法的登録を変える

 以上で、特例法を必要とするのは誰か?という問いには答えが与えられたことになります。最後に、いくつか注釈も添えておきます。
 まず、特例法によって法的に登録された性別を変更するということを、性自認の観点から理解することには意味がありません。わたしは少なくともそう考えています。なぜなら、生活上の性別移行が進んでいないにもかかわらず、法的な登録だけを(性自認に合わせて)書き換えたところで、本人にはなんのメリットもないからです。例えば生活の大部分を女性として過ごしている(過ごすほかない)トランス男性が、戸籍の性別だけを(性自認に合わせて)男性に書き換えたところで、彼にとって新たに利益が発生することはありません。むしろ、それこそ「身分証に身分を保証されない」状況が新たに出現することになり、この記事の冒頭で考えてもらったような不利益状態に陥ると考えられます。もちろんこれは、トランス女性でも同じです。
 ですので、特例法の話は性自認の話とは独立に考える必要があります。特例法を必要とするのは、法的に登録された性別を変更することによって、生活上の危険性や障壁の経験、およびその可能性が取り除ける状態にある人であり、まさにそのような危険や障壁を除去する国家の責任から、特例法は制定されたのでした。特例法が性自認を書き込むためのものではないということは、よく理解しておく必要があります。
 第二に、法的に登録された性別を変えることは、文字通りに理解される必要があります。戸籍の性別が変わっても、本人の身体の特徴は変わりません。見た目も変わりません。過去も変わりません。振る舞い方も変わりません。身分証を見せない限り、戸籍の性別を変えたことを他者に気づかれもしません。特例法とは、そういうものです。これは『トランスジェンダーと性別変更』のなかで野宮亜紀さん(※特例法制定に尽力された当事者の活動家です)も繰り返し書いていることですが、トランスの人たちは、戸籍を訂正することによって性別を移行しているのではありません。逆です。性別移行をして、生きている性別が変わった結果として、上で書いた①~③のような状況に置かれてしまうから、戸籍を訂正するのです。つまり、戸籍を変えるくらいのニーズを抱いている人は、もうすでに性別移行を終わらせてしまっています。あるいは「最後の一手」として戸籍を訂正しさえすれば、「男性」や「女性」としての生活の安定と安全が得られる見込みが高い、そのような人たちです。そうでない状況の人が、戸籍だけを(性自認に合わせて)書き換えても、本人にはほとんど利益はなく、おそらく不利益が増えるだけです。このことを理解していないと、特例法について誤った「懸念」を抱いてしまう結果にもなります。法的な登録を変えることのニーズが、トランスの人の性別移行のプロセスのどの時点に生じるものなのか、私たちはよく理解しておく必要があります。(もちろん、性自認に沿った生活が得られないのは苦しいことです。しかし戸籍の表記を変えられることで動かせる生活の範囲は、そんなに広くありません。それは知っておく必要があります。戸籍は魔法ではないからです。むしろ、性自認に沿った生活が得られないことによる困難については、生活上の性別を形づくる要素(自身の状態や周囲の理解)を動かしていくことによって解決する部分の方がはるかに大きいはずです。)
 ちなみに、手術要件の話に絡めて、SRS(性別適合手術)と戸籍変更の前後関係について議論されることも多いですが、戸籍の性別を生活実態にあわせてから働くことができれば、安全に手術費用を貯めやすくなるので、合理的に考えれば、SRSよりも先に戸籍変更ができる世界の方が、SRSへのハードルは低くなるはずです。すぐにでもSRSを受けたいのに、戸籍の表記が生活と食い違っているために安全に働くことができず、そのせいでSRSのための資金が貯まらない… それなのに、戸籍変更にあたって実質的にSRSが義務付けられている…(絶望)というのは、SRSや戸籍変更を視野に入れたことのある人にとってはおなじみの「負のスパイラル」ですが、このような酷い状況は早く変わる必要があり、実際にもうすぐ終わります。
 繰り返しますが、SRSに先立って戸籍変更ができる状態になっていた方が、SRSをするためのハードルは下がります。(※ここまで説明しても理解できないという人は、おそらく「生活する性別」という概念を理解していない(つまりは性別移行についてよく分かっていない)からだと思いますので、繰り返しますがこちらの記事を読んでください。私たちは服を着て生きているので、外性器周辺の身体の状態と、生活する性別は必然的に連動していません。そしてSRSや戸籍変更を経験する当事者の多くは、それらが規範的な(シス的な)組み合わせとは異なる、という状態を経由しています。)

5.おわりに

 特例法については、これまでずっと「要件」の話ばかりされてきました。つまり、どんな人ならば戸籍の訂正を認めてもよいか、という条件の話です。しかし、特例法を必要としているのはどのような状況の人なのかが明らかになっていないかぎり、そのような「要件」論には何の意味もないとわたしは思います。だから、この記事ではトランスの人たちの生活の現実になるべく即した形で、「そもそも戸籍訂正を必要とする状態にあるとはどういうことか」を考えました。「誰の戸籍変更を認めるのか」という、国家の視点あるいはマジョリティの視点だけではなく、トランスの人たちのニーズから、特例法の議論は出発するべきだとわたしは思います。そしてそのような議論が、この国にはまだまだ圧倒的に不足しています。
 この記事が、わたしのそうした思いを共有してくださる方の理解の助けになることを願っています。冒頭でも書きましたが、これから特例法について日本社会は大きな議論の波を迎えることになるでしょう。そんなとき、トランスの人たちの存在を議論の「材料」に貶めるのではなく、生活と人生をもつ生身の人間として、いつも考えられる人が増えて欲しいと思います。岩波ブックレットトランスジェンダーと性別変更』も、参考にしてもらえれば幸いです。
 なお、今回はトランスの当事者のニーズに焦点を当てましたが、実際には戸籍の性別表記が生活実態と食い違う人が存在することによってトラブルを経験するのは、当事者に限られません。企業や学校は従業員や学生の重大な秘密を抱えてしまうことになりますし、投票所やクリニックの受付スタッフにとってもそれは同じです。だから特例法による性別変更は、実際にはトランスの人の周囲にいる人たちに大きな利益をもたらす制度であることも、覚えておいてください。

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心でも身体でもない「生活する性別」について

 この記事ではこれから、「生活する性別」という概念を紹介します。この概念を手に入れることで、トランスジェンダーの人たちの生きる状況がよく理解できるようになるからです。反対から言えば、この「生活する性別」という発想を持っていないと、トランスの人たちについて、誤った理解を持ってしまう結果にもなります。

1.「心の性」と「身体の性」

 トランスジェンダーの人たちの状況を言うために、これまでずっと「心の性」と「体の性」という概念が使われてきました。「トランス男性は『身体が女性で心が男性』の人です」といった風に。これらの言葉は、社会がトランスジェンダーの存在を理解し、受け入れるために確かに役に立った面もありました。しかし、その目的にとって、明らかに物たりない面があります。詳しくは以下に書きました。

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 上の記事では、「心の性」と「身体の性」をやめるべき理由を手短に説明しつつ、トランスの人たちの現実を理解するにはもっと複層的な視点が必要なのだ、ということを書きました。記事で紹介したのは、以下の表です。

 4人の男性がいます。一番左のシス男性は、ジェンダーアイデンティティも、法的に登録された性別も、身体の性的特徴も、生活も、すべて「男性(的)」です。対して、左から2番目にあたるトランス男性①(ハルト)は、アイデンティティは男性ですが、法的登録は女性です。そして、働く場所ではほとんど「男性社員」でしかないものの、一部の上司からは「男性ではない」扱いを受けていることで悩んでいました。商業施設などに行けば、当然のように男性として接客され、男性として買い物やレジャーを楽しみますが、実家に帰れば「娘」扱いをされてしまいます。こんな風に、生活する様々な場所(職場・実家・商業施設…)に応じて、生きている性別が食い違っている状況のトランスの人は、結構います。
 もちろん、全てが一貫している状態の人もいます。上の表だとトランス男性②の人がそうです。この人は、生活空間の全領域において「男性」として一貫して生きていますので、シス男性と実態として違いがありません。なお、このような状況の人が、生活の(ほぼ)全領域においてトランスジェンダーとしてカミングアウトすることなく、この一貫性を保持しているとき、このような状態を「埋没している」と言います。他方で、一番右のトランス男性のように、自身のアイデンティティ(男性)に沿った仕方では、生活を送れていないという人もいます。
 このようなトランス男性の多様性は、「身体は女性だが心は男性」といった説明では一向に見えてきません。彼らの状況は、一人一人ちがいます。性別移行の状況が違うからです。そして、まさしくその「性別移行」について理解するために必要なのが、これから紹介する「生活する性別」です。そして同じことが、トランス女性の人たちにも、ノンバイナリーの人たちについても言えます。

2.性別移行

 「生活する性別」という言葉あるいは発想を耳にしたことがある人は、少ないかもしれません。わたしはその理由を知っています。それは、世の中で広く使われてきた言葉はシスジェンダーを前提としたものだからです。
 上で紹介した表を思い出してください。一番左の男性はシス男性でした。この男性は、上から下まで全部が「男性(的)」です。結果として、このようなタイプの男性は自分のことを「男性」としてしか考えていません。「性別」というものをこの(表の)ように複層的な観点から考える必要性が、そもそもないのです。要するにシスの人たちには、そもそもジェンダーアイデンティティと法的な登録を分けて考えたり、身体の特徴と生活の在りようを分けて考える必要がありません。だから「生活する性別」という概念や発想にも、多くの人は馴染みがありません。
 しかしトランスの人は違います。トランスの人のなかには、法的登録とアイデンティティが食い違っていたり、法的登録と生活の実態が違っていたりする人がいます。それらが分離しうるということを、実体験から知っています。おのずと「生活する性別」という概念が必要になります。しかし繰り返しますが、世の中に流通する概念、言語そして情報は、シスの経験を中心に構築されているので、そのような概念は普及していません。ここにはシス/トランスのあいだの解釈上の非対称性があります。
 このような言葉の非対称性は、性別移行の経験の有無という点から考えることもできます。トランスの人には、生きていく性別を変えていこうとしたり、実際に変えたりする人たちがいます。これは、シスジェンダーには基本的にあり得ない経験です。このとき、トランスの人たちは何を移行しているのでしょうか?性別移行だから、性別を移行しているのですが、ではその「性別」とは何でしょうか?
 多くの人にとって最も分かりやすいのは、身体的な移行(すなわち治療)だと思います。ホルモン治療によって声が低くなったり、毛深くなったり(テストステロン)、胸に膨らみが生まれたり、脂肪がつきやすくなったり(エストロゲン)します。また手術によって胸の膨らみを除いたり、陰茎を作ったり、あるいは陰茎や精巣・陰嚢を除去したりします(性別適合手術)。そのような医療的介入のニーズを深刻に抱えるトランスの人は確かにいますし、そうして引き起こされる身体の変化が、性別移行において重要な意味を持つことは間違いなくあります。
 他方で、そのような身体的改変「だけ」で性別移行を理解することは、できません。例えば、陰茎の存在に強い違和を経験しているトランスの女性がいたとします。彼女にとって、性別適合手術はとても重要な医学的ニーズなのです。彼女は、陰茎のない身体(むしろ膣のある身体)をこそ自身の身体として経験するため、そうした彼女の性別違和を解消するための性別適合手術は、きっと彼女に大きな喜びをもたらすでしょう(激痛は伴いますが)。
 しかし、陰茎がなくなることだけが、彼女の望みでしょうか。それだけが彼女の性別移行でしょうか。もし、彼女が標準的に理解されるトランスジェンダーの女性であるなら、きっとそうではないはずです。
 陰茎は、ふつう他人からは見えません。下着やズボン・スカートを履いているからです。ですから、このトランスの女性が、あるとき陰茎を切除したとしても、バイトの同僚や、学生時代の友人には、全く分かりません。このことは、陰茎の有無は実のところ社会生活にほとんど何の変化ももたらさないことを意味しています。
 このとき、そのような手術を望むトランスの女性の「性別移行」とは、いったい何なのでしょうか。もちろん、手術を必要とする人はいます。この身体では生きていけないという違和で目の前が真っ暗になり、他のことが何一つ考えられなくなり、自分の身体を傷つけてしまうくらいに身体のことが憎くて憎くて気持ち悪くて吐きそうになるという人はいます。(※これは性別違和に関する1つの経験的描写にすぎません)
 ―――しかし、たとえ身体にまつわる性別違和が非常に深刻であるとしても、「陰茎のない男性として生きていくこと」を、きっと彼女は望んでいないでしょう。彼女が望んでいるのは、男性から女性へと性別を移行することであり、「陰茎がなくなりさえすれば(それまでと同じように)男性として生きていてもいい」とは、多くの場合考えないだろうと思います(――そのようなケースは、性別違和というよりも身体完全性同一性障害(BIID)の経験に近いのではないでしょうか――)。もちろん、身体の違和に思考を支配されているときに、生活のことなんて考えられなくなるという人もいるでしょう。とにかく身体を治療することだけを考えていて、それから先の人生を生きていく未来なんて想像すらできないという人もいると思います。そういう人は確かにいますし、分かります。しかし、いざあるていど性別移行を済ませた人のなかで、身体の特徴を変えること「だけ」が性別移行であると考える人は、ほとんどいない(あるいは標準的には想定されない)だろうと思います。
 別の角度からも考えてみましょう。このような手術をするトランス女性は、おそらくはそのほとんどが、すでに女性として生きています。もしくは、女性として生き始めています。多くの場合はホルモン治療をすでに始めているでしょうが、体つきや外見、周囲からの見なされ方、視線の動かし方や、髪型、名前などなど、性別と関連する多くの要素をすでに「女性(的な状態)」へとシフトさせているケースが多いでしょう。このとき、彼女はすでに性別を移行し始めています。男性から女性への移行です。そして、そうした性別移行がかなりのていど進んでから、上に挙げたような性別適合手術を受けていることがきっと多いはずです。そう考えるとやはり、このようなトランス女性に対して「陰茎がなくなりさえすれば(それまでと同じように)男性として生きていてもいい」という欲求を見いだすのは標準的には不適当だということになります。
 さて、ここでは「性別移行とはなにか?」ということをイメージするために、身体的な移行(治療)について少しだけ考えてきました。このような議論から分かるのは、トランスの人たちが行う「性別移行」は、個人的な水準、法制度的な(登録上の)水準、身体的な水準、社会生活上の水準など、複数の水準にまたがっているということです。そして、この記事にとって大事な発想が、ここに登場します。「生活する性別(生きている性別)」です。

3.生活する性別

 トランスの人たちには、生きていく性別を変えていく人たちがいます。生活するそれぞれの場所で、自分がどんな性別で生きるのか。その性別を、場所に応じて1つずつ変えていくのです。これこそが、性別移行において大きな意味を占める実践です。上に紹介したハルトを見てください。ハルトは、おそらくはその男性的な身体の特徴をふくむ外見や、声の低さ、また名前や振る舞い方などから、職場では「男性社員」として基本的に働くことができています。しかし、戸籍の性別表記を知られている部長の認識は「ひっくり返す」ことができていません。また実家の家族にも、状況がよく理解されておらず、「娘」扱いされてしまう状況を「ひっくり返す」ことができていません。しかし、知り合いのいない商業施設や公共交通機関においては、かつて「女性」的に生活していた状況を「ひっくり返す」ことができています。かつてはあらゆる場所で「女性」として存在させられていたであろう状況を変えるべく、ハルトはそれぞれの場所「ひっくり返して」きたのです。その過程では、転職をしたり、人間関係を大規模に再編(清算)している可能性も高いですが、それもまた「ひっくり返す」実践の一部です。
 そうした性別移行は、とはいえ男性➤女性/女性➤男性といったバイナリーなプロセスとは限りません。例えば、以下のようなノンバイナリー・トランスフェムの人がいたとします(アミ(さん)と呼んでおきましょう)。

 こういう状況の人は、少なからずいます。アミは2つの職場を持っています。1つ目は飲食店で、2つ目は雑貨屋さんです。飲食店は学生時代からずっと勤めていて、アミが男性として大学に通っていたときから、料理長とはずっと同じ職場です。仕事はそこそこ気に入っています。現在のアミはぱっと見の外見も話し方も、体つきもほとんど女性的になっているので、新しく入ってきたスタッフはアミのことをなんとなく「女性の仲間」として認識し、実際に女子会などにも誘っています。ただ、料理長だけはアミの過去を知っていることもあり、アミを男性の延長戦上で扱い続けてしまうようです。そのせいでアミがトランスであることは職場には知られていますが、他のスタッフもあまり気にはしていません。職場②(雑貨屋さん)の方では、アミはもっぱら女性として働くようにしています。男性のふりをするよりも、その方がアミは自然体でいられます。
 知り合いのいない映画館や商業施設に来ると、アミはもうシスジェンダーの女性と見分けがつきません。アミは、着ているものも女性用のものばかりで、髪も長く、女性の顧客に混じって、買い物をしたり映画を観たりします。
 アミはしかし、女性としてのアイデンティティを持っていません。アミはトランスフェムですが、ノンバイナリーなのです。そのことをオープンにできるのが、地元のLGBTサークルです。サークルと言っても、月に1度、地元の当事者たちで集まるお茶会です。ここでは、アミは自分がノンバイナリーであることを伝えています。だから周りの参加者も、アミを「女性」としてではなく、ノンバイナリーとして受け入れます。
 実家の両親も、今ではアミが男性ではないことを受け入れています。しかし、両親の頭の中ではどうしても「男性から女性になった」という認識になってしまうようで、アミはもう諦めています。かつては性別移行について猛烈に反対されていたので、そのころを思えば、「女性」として受け止め、接してくれているだけで十分です。
 家族と会って疲れた時などは、SNSを開きます。Twitterのアカウントを持っていて、そこではトランスっぽい人たちとゆるく繋がっています。このアカウントはアミが性別移行を始めたときに開設したもので、プロフィールにも「ノンバイナリー/トランスフェム」と記載しています。かつては「MTF-GID」の人たちとの交流が多かったアミですが、最近は「ノンバイナリー」を自認する人たちとの方が、居心地がいいと感じます。
 地元には、親友がいます。中学時代からの仲良し3人組です。性別移行を始めた時、アミはもう3人組は解散だと思いました。しかし、縁を切るつもりでLineグループに投稿したアミのカミングアウトを見た親友2人は、一生懸命アミを理解しようとしました。本を読んで勉強したり、アミとの関わり方を丁寧に探ったりしてくれました。結果として、親友2人は(ほぼ女性として生きている)ノンバイナリーとしてアミのことを理解し、そういうアミと一緒にいまも3人組を続けています。
 これが、アミの生活する性別です。アミは、生まれた時に男性を割り当てられています。ですので、実家でも学校でも、外出先でも、生活はすべて「男性」として送っていました。それからアミは、性別を移行し始めました。様々な場所で自分が生きることになる性別を、1枚ずつひっくり返していったのです。新しい職場を手に入れ、ちょっとした説明もしつつ、女性として働くことができるようになりました。実家の両親とは激しい喧嘩もしましたが、いまは和解しています。「息子」の状態をひっくり返して、いまは「娘」ということで落ち着きました。他方で、親友3人組における性別も、アミは「ひっくり返し」ました。とはいえそれは、男性➤女性 ではなく、男性➤ノンバイナリーへの変化です。カミングアウトと、親友の努力によって、アミは「親友3人組」における「生活する性別」を移行することができたのです。
 こんな風に、生活する性別は「女性」と「男性」だけに限りません。周囲の理解と、カミングアウトのための言葉があれば、「ノンバイナリー」や「ノンバイナリー/トランスフェム」として存在することもできるのです(常にうまくいくとは限りません)。
 そして一般的な話としても、トランスの人たちが実践する性別移行にはこうした機微があることを理解しておく必要があります。いま見てきたように、性別移行の中核には場所ごとに生活の在りようをシフトさせる実践がありますが、それぞれの場所には、それぞれの事情が複雑に絡み合っており、それぞれの場所で重視される要素が違っているからです。例えば、アミの職場①には、料理長がいました。料理長にとっては、アミが男子大学生だったときの記憶が「重み」をもつので、アミをいつまでも「男性」扱いしてしまいます。他方で新規のスタッフにとっては、アミの見た目や振る舞い方、また職場でのコミュニケーションの在りかたのほうが「重み」をもつので、たいていのスタッフとはアミは「女性」としてコミュニケーションしています。
 料理長にとって過去が相対的な「重み」をもったように、実家の両親にとっても、アミを「息子」として育ててきたという過去の来歴は圧倒的な「重み」をもったはずです。しかしその「重み」は、アミのカミングアウトと度重なる喧嘩、そして両親の理解と受容によって、少しずつ減りました。今では、アミの現実の在りかたの方が「重み」をもつに至り、実家では「娘」として存在することができています。
 このように、ある場所において、トランスの人がどのような性別を生きているのか/生きることができるのかというのは、それぞれの「場」ごとに異なる「要素の重みづけ」に依存します。知り合いのいない商業施設では、せいぜいぱっと見の外見(そこには身体の動かし方なども含まれる)くらいしか「重み」をもつ要素はありませんが、実家や級友との関係では、そうもいきません。トランスの人たちは、それぞれの「場」において働く「重みづけ」の力学を見極めつつ、ときにカミングアウトをしたり、しなかったりしながら、生活する性別を移行していかなければならないのです。
 そして、その性別移行のプロセスでは、誰もが(アミやハルトのように)生活する性別の「分散」を経験します。すべての「場」を、一挙に同時にひっくり返すことはできないからです。しかし、その「分散」の状態を減らしていって、特定の性別の状態で生活を一貫させていく人も(上述のトランス男性②のように)います。いずれにせよ、「生活する性別」というこの概念を持っていないと、そのようなトランスの人たちの現実と変化を理解することはできません。

4.抜け落ちる現実

 この記事は、「生活する性別」という概念・発想を皆さんに紹介することを目的としていました。ここで改めて、「心の性」と「身体の性」という概念の組み合わせに戻ってみましょう。いまや(前回の記事以上に)この概念の組み合わせから抜け落ちてしまう現実があることがお判りいただけると思います。私たちの生活の「場」には、それぞれ「重み」をもつ要素があり、その要素をうまく見極め、周囲の人との関係を調整することによって、トランスの人たちは「生活する性別」を移行していきます。カミングアウト1回で完了する「場」もあれば、激しい葛藤を伴う「場」もあるでしょう。徐々に理解を得ていく「場」もあれば、ぱっと見の外見だけで生活する性別をコントロールできてしまうような「場」もあるでしょう。
 「心の性」と「身体の性」に欠けているのは、ですからこの「生活の現場」です。トランスの人たちが生きている現実が、その概念の組み合わせからは見えてきません。トランス男性のハルトについて、「身体が女性で心が男性」などという理解をしたところで、ハルトの職場での働き方や、実家での葛藤、日常生活の在りかたは見えてきません。先ほどのアミに対して「身体が男性で心がノンバイナリー」などと説明してみたところで、アミの現実はさっぱりひとつも理解できません。それらの言葉には、生活の現実を表現する力がないからです。
 そのような表現はむしろ、トランスの人たちの現実を表現するよりも、覆い隠してしまっているかもしれません。実際、いまSNSで盛り上がってしまっているトランスヘイトの多くは、そのような「覆い隠し」の結果であるとさえ、言えるかもしれません。私たちはシスの人たちを中心にして編成されてきた言葉や情報の在りかたを、変えていく必要があるのです。
 この長い記事を最後までお読みくださりありがとうございました。ここに書いた内容は、まもなく発売の『トランスジェンダーQ&A   素朴な疑問が浮かんだら』の執筆を通して明晰化されたものです。この記事を興味深く読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ぜひ書籍を手に取っていただければと思います。

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「心の性」と「身体の性」をやめるべき理由

 この記事では、トランスジェンダーの人々について説明するためにずっと用いられてきた「心の性」と「身体の性」という表現について考えます。わたしが誰か知らない方向けに自己紹介をしておくと、わたしは『トランスジェンダー問題』(明石書店2022年)の訳者であり『トランスジェンダー入門』(集英社2023年)の著者の一人であり『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店2024年)の編者です。4月には『トランスジェンダーQ&A:素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社2024年)が出版されます。
 この記事を通して、わたしは、これらの概念の組み合わせは、それだけではトランスの人々について何かを語るための役に立たないと主張します。しかし、それは「心の性など存在しない」とか「身体の性など存在しない」という主張とは違います。また、「心の性という表現を使うべきでない」という主張とも微妙に違います。誰かに何かを説明するにあたっては、相手の予備知識や発達段階などに応じて、様々に表現方法を変えることが求められます。ですから、これらの概念やその組み合わせに「それ自体で問題がある」とはわたしは思っていません。使わないで済むなら使わない方がいいと思っていますが、それはまた別の話です。
 「心の性」と「身体の性」という組み合わせが役立たずである理由は、いくつもあります。なかでも今回の記事では、「トランスの人たちの状況についてちゃんと語ろうと思うなら、そんなものでは足りない」という話をします。なお、この記事は先述の『トランスジェンダーQ&A:素朴な疑問が浮かんだら』の執筆を通して得た知見を多くふくんでいます。ですので、記事に興味をもった方はぜひ本を予約してください(※発売は 4/25 です)。

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1.あるトランスジェンダー男性の例

 具体的な議論を始めるにあたり、ひとりの架空の人物に登場してもらいます。トランス男性のハルトです。
 ハルトは現在27歳、都内の企業で働いています。生まれた時は「女性」として登録されましたが、大学時代に自身の性別違和をやり繰りできなくなり、性別移行を始めました。大学在籍中から、すでに初対面の人には「男性」として認識される状態になっており、21歳のときに始めたホルモン治療の影響で、声も低くなっています。筋トレも頑張ったので、そのへんの男性よりも肩回りはがっしりしています。卒業後はフリーターとして飲食店などで働き、お金を貯めて胸の膨らみを取る手術を受けました。26歳になったころから、現在の会社で正社員として働いています。
 ハルトは、男性としての人生に充実感を覚えています。自分がそうではないはずの性別を押し付けられ、自分を騙していた「女性」時代とは違って、これこそが自分の人生だったと感じます。これからも自分は男性を生きるだろうし、男性として死ぬのだろうと当たり前に思います。男性であることがハルトのアイデンティティなのです。
 会社の同僚たちは、ハルトがトランスジェンダーであることを知りません。ただの男性社員として認識しています。しかし、会社の人事部の担当者と、部長だけは別です。戸籍の性別の表記が「女性」である状態で入社したので、就職の話をもらった時点で、どうしても伝えざるを得なかったからです。
 ハルトの戸籍の登録は「女」です。昨年10月の最高裁判決まで、ハルトのような人は卵巣(と子宮)を取らなければ戸籍を訂正できなかったのですが、ハルトにはその手術を受ける希望も、お金も、時間もありませんでした。今も住民票や保険証には「女」と書かれています。
 会社の部長とは、日常的にはあまり接点はありません。しかし部長と会うと、ハルトは嫌な気持ちになります。周囲の男性社員とは違った扱いを受けていると感じるからです。部長は自分を「男」ではなく「女性」(それも幼い女性)として見下している気がする。ハルトはそんな気持ちになります。大人数が集まる機会に部長がいると、ハルトは落ち着かない気持ちになります。
 ハルトは中部地方の出身です。実家の両親は、ハルトの性別移行に理解があるはずでした。しかしホルモンで声変わりをしても、筋トレで立派な上半身を手に入れても、胸オペをしてフラットな胸になっても、どうやら両親はハルトを「娘」だと思い続けているようです。人前でも平然と昔の(女性の)名前で呼んできますし、ハルトはもうなかば諦めています。
 最近の趣味は、地元のバドミントンサークルです。性別への違和感が理由で高校時代に退部してしまったのですが、もともと運動は好きだったので、地元のクラブで再開しました。もちろん、仲間たちはハルトがトランスジェンダーであることを知りません。そういえば、ハルトは映画を観るのも大好きです。もちろん、会員登録は男性です。

 ―――さて、ハルトの状況はどのようになっているでしょうか?

 ハルトのようなトランス男性は、いっぱいいます。生活している様々な場所に応じて、存在する性別の様態が「ばらけて」いたり、「まだら」になったりしている状況のトランスの人です。(『トランスジェンダー入門』では、これを「分散」という言葉で説明しました)

2.性別の多元性

 注目すべきは、それだけではありません。ハルトの「性別」について考えるとき、私たちはいくつもの側面からそれを考えることができます。上の表にある通り、性別は多元的なのです。
 まずはジェンダーアイデンティティ性自認や性同一性とも呼ばれます。自分をどの性別として理解し、納得し、将来にわたってどの性別として生きていこうとするのかという、アイデンティティにおけるジェンダーの側面です。
 次に書類上の性別。日本では戸籍の性別と言えば分かりやすいかもしれません。ハルトは、アイデンティティが男性であるにも関わらず、出生時の登録が「女性」だったせいで面倒な目に遭ってきたようです。
 その次は身体の性的特徴。第一次性徴や第二次性徴をはじめとして、女性にありがちな身体の特徴と男性にありがちな身体の特徴には傾向の違いがあります。ただし、それらの性的な特徴はあくまで平均や傾向の違いにすぎず、「男性」の全員が同じ身体の特徴を持つわけではなく、それは「女性」も同様です。また、そうした性的特徴のいくつかは、医学的な措置によって変化させることもできます。ハルトの場合は、声の低さ(高さ)、筋肉のつき方、平らな胸…といった点では男性的な身体の特徴を持っていますが、多くの男性にはない内性器を持っているようです。果たして、ハルトの身体は「男性の身体」でしょうか「女性の身体」でしょうか。そんなに乱暴な二分法でハルトの身体を切り刻むのは、どうやらひどいことに思えてきます。
 そして最後は、生活上の性別。これは、生活の「場」に応じて変化することがあります。ハルトについては、職場では完全に「男性」として過ごせていますが、部長の存在だけは気がかりです。映画館でもスポーツジムでも、バトミントンのサークルでも「男性」として存在できていますが、実家では「娘」扱いされてしまっているようです。
 こんなふうに「性別」は多元的です。ジェンダーアイデンティティ、書類上の性別(法的登録)、身体の性的特徴、生活上の性別……。これらを区別しながら丁寧に見ていくことで、やっとハルトの「性別」の状況が見えてきます。

3.トランスジェンダーの多様性

 この多元性は、トランスジェンダーの人たちに多様性をもたらします。すぐに分かると思いますが、これらの多元的な性別の組み合わせは、多様だからです。例えば次の表を見てください。

 字が小さくて申し訳ないです。生活上の性別としては、職場・実家・商業施設の3つの「場」を挙げました。そして4人の男性がいます。一番左がシス男性で、残り3人がトランス男性です。うち1人がハルトです。
 まずシス男性。ジェンダーアイデンティティも、法的登録も、生活上の性別も全て「男性」です。身体の性的な特徴も、ほぼ男性に典型的なものです。次のハルト(トランス男性①)は、さっき見た通りです。
 では、トランス男性②を見てください。彼は、法的登録も男性です。性同一性障害特例法に則って、すでに戸籍の訂正をしたようです。身体の性的な特徴も、ほとんど完全に男性に典型的なものになっています。上から下まで「男性」ですね。こういうトランス男性は、現実にたくさんいます。シス男性と区別がつきません。
 最後はトランス男性③です。こちらの男性は、アイデンティティは明確に男性ですが、それ以外の点では「女性」ないし「女性的」である部分が多いです。書類にも「女性」と書かれ、職場でも「女性社員」として働き(=働かざるを得ず)、実家に帰れば「女性」扱いされ、映画館など商業施設でも「女性」として接客されます。身体の特徴も、筋トレやホルモン治療、胸オペなどしていませんので、現在の社会では「女性」に典型的・ありがちな特徴を多めに備えています。もしかしたら本人にとっては、それが強い違和感の理由になっているかもしれません。そして、この③のような状況のトランス男性も少なくありません。彼は、これから様々な水準での性別移行を経験するかもしれません。あるいはしないかもしれません。いずれにせよ、こういう状況のトランス男性も多く実在しています。
 これまで、性別の多元性に注目しつつトランス男性の多様性を見てきました。すぐに分かることですが、こうした多様性はトランス女性の人びとにも、ノンバイナリーの人びとにも存在しています。「トランス男性/トランス女性/ノンバイナリー」といった集団のなかには、無限の多様性がありますが、実は「性別」という点だけとっても、状況はほんとうに多様なのです。

4.「心の性」と「身体の性」

 トランスジェンダーの人たちについては、これまで「心の性と身体の性が異なる」といった説明がなされてきました。新聞報道でも、いまだにそうした表現が使われることがあります(たとえばこの東京新聞の記事)。シスジェンダー中心に文化や言語が構築されてきたなかで、シスの人たちでも理解できる言葉として選ばれてきたのは確かに事実です。
 しかし、落ち着いてよく考えて欲しいのです。たとえば先ほど4人の男性(うち3人がトランス男性)が出てくる表をご紹介しました。こうした多様性は、「身体が女性」だけど「心は男性」…といった説明では、ぺっちゃんこにされてしまいます。「身体は女性だけど、心は男性である」という、これまでずっとトランス男性の説明に使われてきた言いまわしからは、このような多様性は見えてきません。トランス男性のなかにはシス男性とほとんど変わらぬ性別の実態を生きている人がいるという事実も、トランス男性のなかに著しい差異があるという事実も、見えてきません。
 これが、「心の性」と「身体の性」という概念の組み合わせが役に立たない理由です。この概念の組み合わせは、トランスの人々が生きる現実をほとんど全く反映していません。むしろ、聞き手に対して偏ったイメージを惹起するという点で、もはや有害さの方が最近は指摘されるようになっています。
 ただし、注意してください。わたしは「心の性が存在しない」とか、そういうことが言いたいのではありません。むしろ逆です。「心の性と身体の性」という言い回し(概念の組み合わせ)は、ほんらいはトランスジェンダーの存在を承認するためにこの社会が求めてきたものだったはずです。その目的を忠実に遂行するならば、むしろわたしはその表現をそろそろ卒業しよう、と言いたいのです。

 以上で、この記事を終わります。最後にもう一度、宣伝で恐縮ですが、これまで書いてきたことは、新刊『トランスジェンダーQ&A:素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社2024年)の執筆のなかで明晰化されたアイディアに基づいています。この本は『トランスジェンダー入門』で書ききれなかったこうした着想と議論を周司あきらさんと総動員したものです。ご興味ある方はぜひ読んでください。
 この記事が皆さんの役に立つことを願っています。

2023年の振り返り

 はてなブログの機能で「去年のあなたのエントリを読み返しましょう」みたいな提案がメールで届いていた。去年「2022年の振り返り」を書いていた。12月30日。

yutorispace.hatenablog.com

 読み返して驚いた。自分では今年(2023年)の仕事だと思っていたことがいくつも書かれていた。自分のアウトプットすらきちんと追跡的に記憶することができていないのはよくない。

 去年の時点で「できなかったこと」として書き留めたもののうち、今年も実現できなかった大きなこと。博論の書籍化。書きたいこともあるし骨格もとうにできているが、最近の先行研究を反映したものとして著作にまとめ上げる時間がまったくとれなかった。出版社も待たせてしまっていて本当に申し訳ない。

 今年の生活にとって最も大きかったのは『トランスジェンダー入門』の出版。実際の執筆活動は昨年中に終わっていたが、とにかく7月の出版後が忙しかった。合計7つの出版記念イベントを組むことができたが、どれも非常に参加者が多く、プレッシャーがすごかった。相手が研究者で、話の内容について想像がつく機会は除いて、イベント前は対談相手の方との話のシミュレーションに多くの精神的リソースを使った。
 わたしには「話す」機会が与えられている。より正確には、わたしみたいな人間に偏ってその機会が与えられるようにこの社会はできてしまっている。何もしないこともできる。ただ、この歪な状況でわたしに与えられている機会と課せられた責任を、わたしは額面通りに引き受けることにした。周司あきらさんと『トランスジェンダー入門』を書くと決めたときに、そう決めた。こんな責任、逃げた方が楽だといつも思う。
 去年は『トランスジェンダー問題』を翻訳した。2022年の日本に必要だったと胸を張って言える。ただ、状況は変わった。トランスジェンダーをめぐる情報と言論の環境はさらに悪くなった。だから『トランスジェンダー入門』を書かなければならなかった。とはいえ昨年『問題』を訳していて本当によかった。『問題』を訳していないのに『入門』を書くのは、想像もできない。
 出版後の忙しさは、執筆以外の仕事が激増したことに由来する。新書を出すとはこういうことかと思った。ちょっと仕事を入れすぎた。新書の出版とは関係ないものも含めると、今年は8件くらい新聞に出て、3回くらいラジオに出た。講演の数は数えていない。ただ、ひとつひとつとても記憶に残っている。これまでつながりのなかった多くの方とつながることができた。
 新書執筆以外にも、トランスジェンダーに関連する執筆がいくつか。ひとつは雑誌『すばる』8月号にエッセイを寄稿した。もうひとつは『現代用語の基礎知識2024』に周司あきらさんと共著でトランスジェンダー関係の項目を書いた。この『基礎知識』のエントリは、新書を書いてから半年たった時点でのわたしたちの認識をまとめたもので、めちゃくちゃ良い文章が書けたと思っている。
 そして、去年の振り返りの時点ですでに『トランスジェンダー入門』の原稿ができていたように、来年もトランスジェンダー関連書籍がいくつも出る。今年の10月からはそれらにかなりエネルギーを注いだ。来年でる。再来年はもう出ないだろう。というか、再来年にはわたし以外の書き手がもっと増えていてほしい。わたしの役目それまでの開墾と「つなぎ」役にすぎない。
 研究の方では、がんセンター以来のチームでひとつ英語の論文が出た。日本語の論文は、『生命倫理』にトランスジェンダーの性別承認法における不妊化要件についての論文を載せた。今年の10月にちょうど日本の最高裁でも違憲判断が出たやつ。あとは実存思想協会の『実存思想論集(特集:フェミニズムと実存)』にも寄稿した。フェミニストクィア現象学ハイデガー存在と時間』についての論文。関わりが深いにもかかわらず、あんまり研究が進んでいないのでサーヴェイ的に書いた。詳しくは今度論文にしたい。学会発表は例によって何件やったのか数えにくい。医哲倫の大きなシンポと、生命倫理学会の公募シンポ、公募ワークショップに登壇したほか、大学主催のオープンな研究会・シンポジウムにも何件も呼ばれて発表した。よく身体がもったと思う。30代前半のわたしは本来は若手の研究者に数えられるはずだから、研究領域全体のことなんて考えずにただただ研究論文を量産していたい。ただ、なんだかそれももう許されなくなってしまった。逃げたいときもある。ポストが安定しているのは確かにありがたい。ただ、もうすこし若手研究者でいさせてほしかった。
 教育の方では大学でベストティーチャー賞(優秀賞)をもらった。昨年の履修者学生からの投票で、学部からひとり選ばれる。今年は新しく英語の論文を講読する授業を担当することになったのでJenny Morris のフェミニスト障害学の論文を学生たちと読むことにした。後期は東大で「生殖=再生産の倫理」を開講している。14年ぶりに戻った駒場は、全体としてあんまり変わってはいなかったけれど、わたしの授業に出てくれている学生たちの様子はかつてからは想像もできないくらい違う。ただ、マイノリティの学生が安全に学ぶことのできる環境はぜんぜん整っていない。

 群馬に住み始めて1年8カ月が過ぎた。死ぬほど忙しかったのに、群馬県内ですでに1回引っ越した。群馬は、住むにはいいところだ。野菜が美味しい。大きな河、きれいな河が流れている。家が広い。そして、カフェやレストランの座席の間隔がひろい。東京なら10人収容されるだろうスペースに、群馬だとだいたい6人くらいのテーブルと椅子が置かれている。夜は星がきれいにみえる。月明かりのありがたさを感じる。
 よく考えたら、東京がどうかしている。乗車率が常に150%あるような電車を当たり前のように利用するなんて、どうかしている。お金を払わないと座って休むこともできないなんて、街の設計としては落第点以下だ。不快感ばかりが溜まるギチギチのチェーンのコーヒー店で、昼休憩を過ごす時間を奪い合っている。美味しくもないのに見た目ばかりが均一できれいな野菜を買うしかない。群馬に来て「星が見える!」とテンションが上がったけれど、よく考えたら逆だ。東京の夜が明るすぎるんだ。

 あまり体調がよくない。9月ごろから、階段をあがるだけで心臓が異常に拍動するようになった。階段を上り下りするときに深呼吸をすると意識を失いそうになる。自転車をこぐだけで全身がぐったりしてしまう。90分の授業をする前は、毎回「倒れませんように」と念じている。昨年のブログの時点で、こう書いていた。

とはいえ、この状況をあと何年も続けるのはどう考えても無理だ。これまでは脳の回転数を上げて、メモリを開拓してしのいできたけれど、ここ1年くらいで物理的な限界が近付いている感覚がある。あとは生活の時間を抵当に入れて脳みその稼働時間を増やすしかないけれど、1日は24時間しかないし、結構これも限界が近づいている。

この「限界」が、はっきり見えた1年だった。脳みその回転量を上げても、もう補いきれない。朝起きた瞬間から夜寝る瞬間まで働き続けた1年だった。フルで休んだ日は年間通して5日もないとおもう。精神よりも先に肉体の方が限界に近付いてしまった。
 最近、絶対に意識を失ってはならない場所で意識喪失してしまった。たまたま友人が近くにいたから命を救われたけれど、状況がすこし違えば文字通り死んでいた(溺死)。あとで振り返って「わたし死にかけたんだな」と思うと、なんだか変な気持ちになった。友人には心から感謝している。友だちがほんとうに少ない人生だけれど、この数年で新しく親しくしてくれている友だちと、わたしの仕事を通じてわたしを気に懸けてくださるすべての仲間には、平和に長生きして欲しい。

 得たものは多かった。失ったものも、多かった。そういう1年だった。年末年始は、すこし休ませてもらう。わたしは来年の振り返りを書くことができるのだろうか。

 ※ 最近はThreadsによくいます。

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特例法の諸要件はなんのために存在するのか?

 特例法の4号要件(不妊化要件)に対して、明日(10/25)憲法判断が下る。違憲判決となれば4号要件は失効し、性別変更要件は大きく緩和される。5号要件についても、憲法判断がなされる可能性がある。

1.有害な発想

 特例法については、いわゆるトランスジェンダー性同一性障害の当事者のあいだでも誤解が多い。典型的な誤解は、(GIDの診断を受けていることを前提とした)特例法の5つの要件を「おのずから」満たす人だけが、この特例法をそもそも必要としている人であり、「おのずから」満たさない人は、そもそも法律によって性別変更をする資格のない人だ、という誤解である。そして、こうした誤解に基づき、次のようなことが言われることもある。――そもそもこの特例法は、この5つの要件を「おのずから」満たしている人たちが作ったのであり、この5つの要件を「おおずから」満たす人たちだけが、この法律の恩恵を受けることのできる「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」なのだ、と。

 これは、ただの誤解である。もちろん、勝手に思い込んでいるぶんには、勝手にすればよい。しかしこうした誤解に基づき、べつの当事者に向けて「お前たちは本物ではなく偽物だ」と言ったりするのは、おそろしく有害だ。そしてまた、トランスジェンダーの存在をよく思わない人たちも、同じようなことを言うことがある。この法律は、そもそも5つの要件を「おのずから」満たす「気の毒な性同一性障害者」のための法律なのであり、要件緩和を訴える人々は「自己主張が強いだけの活動家」なのだ、と。

 以下では、こうした有害な人々が前提とする先の発想が、どのように誤っているかを説明する。

2.特例法

 特例法は3条において次のように定めている。

第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
一 十八歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

 これらの要件が「本物の性同一性障害者」や「本物のトランスジェンダー」の基準を示すものだと考える人たちがいるようだ。しかし法律を読めば分かるように、これらの要件は、トランスジェンダー(的な人たち)がどんな状況を生きていて、どんな医学的ニーズを持っているのか、といったこととは関係がなく挿入されている。

 1号の年齢要件は、民法成人年齢に準じている。さすがに「18歳以下のトランスジェンダー性同一性障害者は偽物だ」と言う人はいないだろうが、重要なのはこの要件が民法の規定によって挿入されているという事実だ。

 2号の非婚要件は、民法同性婚が認められていないため挿入されている。特例法の「公式解説」として見なされている、南野知惠子(監修)『「解説」性同一性障害者性別取扱特例法』(日本加除出版2004)でも、当然ながらそう説明されている。重要なのはここでも、この要件が民法の規定から挿入されていることだ。

 3号の子なし要件は、なぜ挿入されたのか明らかになっていないことが多い。特例法の骨子が明らかになったとき、突如法案に入れ込まれたこの要件をめぐって、当事者団体はじめ立法に尽力した人たちのあいだい大きな困惑と混乱が生じたことは周知のとおりである。とはいえ、先の『解説』や直近の判決などを見るに「子どもの福祉を守るため」というのが、この要件の根拠らしい。要件の妥当性はいったん脇に置くが、ここでも重要なのは、この要件がトランスジェンダーの人たちがどのように生きているのか、という現実とは無関係に挿入されたことである。子なし要件の存在は当事者のあいだでも大きな紛糾の種となったし、要件が入っている理由も「子どもが可愛そうだから」という、性別変更をする当事者の状況とは無関係の、漠然としたものに過ぎない。

 4号の不妊化要件は、性別移行前の性別にありがちな生殖能力による生殖の結果として生まれる子の法的登録に混乱が生じるという理由で、挿入されている。詳しくは以下の拙稿を参照。

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ここでも重要なのは、この要件が、トランスの人たちが望んで性別適合手術をしていることがあるという事実とは無関係に挿入されていることである。上記ブログにも書いた通り、4号要件はトランスの人々が「不妊状態=生殖不能」であることを求めているに過ぎない。たとえ自ら望んで受けた性別適合手術によって、結果として不妊状態になっている当事者が一定数いるのだとしても、それはこの要件の理屈とは関係がない。この要件は、ただただ「生まれる児の法的登録が混乱する(法秩序の混乱)」とか「”妊娠する父”や”妊娠させる母”は社会通念として受け入れられない」とか、トランスの人たちの現実とは関係のないところから挿入されているにすぎないからである。

 5号の外観要件も同様である。先の『解説』にも言及のある通り、この要件は、公衆浴場という空間があるため「陰茎のある女性」は存在してはならない、という理由で挿入されているとされる。実際には、公衆浴場の利用など日常生活において極めて限定的な場面でしかないのだから、この法律にわざわざこのような要件を入れること自体が不当なのだが、とはいえここでも重要なのは、この要件がトランスジェンダーの人たち自身の(医学的)ニーズから挿入されたわけではなく、「社会の秩序」という、それとは別の観点から挿入されたことである。医学的なニーズから、自ら望んで陰茎を切除しているトランス女性が一定数いることは、べつに5号要件が特例法に入っている理由とは関係がない。

 以上のように、特例法の5つの要件が挿入された理屈は、トランスや性同一性障害の人たちのニーズや現実とは関係がない。たとえば2号要件は民法同性婚ができないから挿入されたのであり、「本物のトランスジェンダーは結婚しないから」という理由で挿入されたのではない。4号要件も「法秩序の混乱」という国家の理屈で挿入されたのであり、「本物のトランスジェンダーはみんな性別適合手術をしていて不妊だから」という理由で挿入されたのではない(そもそもみんながそれを望むならわざわざ要件に入れる意味はない)。そもそも、国はそんなことに興味がない。新たに戸籍登録の性別を変える人間が出てきたとき、既存の法体系や社会秩序・社会通念に「バグ」が生じないかどうかにしか、国は興味を持っていない。そして特例法の5つの要件は、そうした「バグ」を未然に防ぐという意図で、挿入されたものである。

 そのため、特例法の5つの要件をもって「本物」と「偽物」の線引きができるという考えは誤っている。そして、馬鹿げている。自分オリジナルの「本物」と「偽物」の線引きを使い、自分を「本物」の側に位置づけることによって精神的な安定を得ようとする当時者がいることは、否定しない。有害な発想であると思う一方で、どちらかと言えば気の毒だなと思う。とはいえ、そうしたオリジナル基準をつくるとき、特例法の要件がその線引きに使えると考えるのは、少なくともやめた方がいい。

3.運動家たち

 これまでは、特例法の要件を挿入する国家の理屈を見てきた。ここからは、特例法を作るために尽力した運動家たちの見解・状況を参照する。

 特例法の制定にあたり国会で尽力した運動家としては、FTM日本の虎井まさ衛、TSとTGを支える人々の会(TNJ)の野宮亜紀ならびに上川あやgid.jpの山本蘭などの名前が知られている。ここに挙げた3団体は、2003年3月18日、南野知恵子がリードしていた自民党の「性同一性障害勉強会」に要望書を提出している。戸籍訂正を可能にする法律がまもなくできることが明らかとなり、特例法策定の詰めの作業が行われていただろう2003年の3月である。

 この要望書を先日見る機会があった。上記3団体の代表が名を連ねたこの要望書では、要件について一切の記載をしていなかった。「こうした要件は入れないでください」とか「こうした要件なら入れてもいいです」といった要望は、一切の具体的な記載がなかった。理由は、当事者が分断されるからである。許容すべき要件と、許容できない要件を、当事者団体の側から線引きすることは、まもなく成立する特例法によって「救われる当事者」と「救われない当事者」の線引きすることである。もちろん、なんらかの法ができる以上、そうした「線引き」は発生してしまう。でも、そうした「線引き」を当事者団体の側から提示することはできないし、すべきでない。上記3つの当事者団体は、そう判断したのである。

 当時の運動家たちがもっていたこのような賢明さは、gid.jpの山本蘭の名前で出された以下の「公式見解」にも記録されている通りである。

gids.or.jp

この「公式見解」は、次のパッセージで始まる。

戸籍の性別訂正の話を持ち出すと、まずこの要件をどうするかという話がすぐに始まります。でも、性同一性障害をかかえる人と言っても、実は様々な方がいらっしゃいます。みんな同じように苦しんでいます。そして、多くの方は戸籍を変えて欲しいと思っています。それをどうして当事者が同じ当事者をあなたはいい、あなたはダメって区別することができるでしょうか?それって、差別じゃないのでしょうか。要件に入らない人を見捨てることができましょうか。私たちにはできません。だって同じ仲間なんですから。

 山本蘭氏の過去の言動には首肯できない点も無数にあるが、このパッセージに現われている氏の姿勢は、賢明かつ尊敬に値するものだと思う。

 ここで、改めて問いたい。現在5つの要件を抱えている特例法は、果たして「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」を見つけ出すための基準になるのだろうか。断じてそのようなことはない。そして、特例法の要件をそのような目的で使うのは、この法律を作るために尽力した運動家たちの精神に照らして、許されない。

 冒頭でも紹介した誤解は、次のようなものだった。――特例法の5つの要件を「おのずから」満たしている人たちが、そもそもこの特例法は作ったのであり、この5つの要件を「おおずから」満たす人たちだけが、この法律の恩恵を受けることのできる「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」なのだ――。この発想は、明確に誤っている。特例法を作るために尽力した運動家たちは、具体的な要件を差し出すことで仲間たちのあいだに線を引くことをよしとしなかった。

 実際のところ、国会議員との面談・交渉など、法律制定時に走り回っていた運動家たちには、最終的に出来上がった特例法の要件を満たさない人もたくさん含まれていたという。個人名を挙げることはしないが、当時の与党自民党を動かすために尽力した3名の当事者の運動家のうち、国内で性別適合手術を受けていた人は0人だった。そして3名のうち2名は、その時点でいわゆる性別適合手術を受けてもいない。そのため、日本で「正式に」性別適合手術ができるようになったから、「国内で正式に手術を受けた人たちのために法律ができた」というのも、特例法ができるまでのストーリーとしては正確ではない。余談をさらに付け足しておけば、当時の大きな当事者団体の活動に加わり、法律制定にも尽力した人たちのうち、およそ半数以上は、やはりその時点で(不妊化を伴う)性別適合手術を受けていなかったということである。だから「手術を受けた人たちが法律を作った」わけではない。

 しかし、法律ができたことで、要件もできた。2003年当時、世界のどの国の性別承認法にも(性同一性障害者の)診断要件や不妊化要件が入っていた。特例法ができるにあたっては、そうした世界の先例も当然参照されているだろう。当事者団体や運動家にとっては、いわゆる手術要件(4号不妊化、5号外観)が当事者たちに線引きをもたらすものであることは苦々しいものだったに違いない。しかし、日本の特例法で「世界初」を実現するのは難しいと誰もが考えただろう。結果「小さく生んで大きく育てる」という国会との約束のもと、特例法はできた。

 特例法の制定から20年が経つ現在、私たちはこれらの要件とどのように向き合うべきか。その5つの要件を「おのずから」満たす人間だけが、特例法による救済対象なのだとか、これらの要件を「おのずから」満たす人間だけが、「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」なのだとか、そのようなことを言うために特例法の要件は存在しているわけではない。特例法の要件は、当事者たちのニーズや現実とは無関係の理屈で挿入されたものであり、特例法を作った運動家たちは、要件による線引きをけっして積極的には提示しなかった。

 

 明日、2023年10月25日には最高裁判決が下る。4号の不妊化要件と、場合によっては5号の外観要件について、憲法判断が下る。「小さく生んで大きく育てる」という、当事者たちと国会との約束は、20年間ほとんど果たされなかった。その結果、司法による判断が、大きく要件を動かそうとしている。もちろん、4号がなくなろうと5号がなくなろうと、線引きは残り続ける。20年前からずっと問題視されている3号要件も、まだ存在する。しかし、不要な要件は少しでもなくなるべきだ。それだけは確かである。

 特例法の要件が大きな社会的注目を集める現在、個々の要件の是非について考えるにあたって「この要件を満たすのが本物だ」とか「この法律は要件を満たす人たちのためにできたのだ」とか、誤った発想に流されないようにしてほしい。なんのためにこの要件はあるのか。特例法を作った運動家たちはどのように要件と向き合っていたのか。そのことを考えるための一助として、この文章が使われることを願っている。

特例法の4号要件は「手術」を求めているのか?

 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)の4号要件を、わたしは「不妊化」要件と呼ぶ。これには理由がある。この要件は「手術要件」と呼ばれることもあるが、わたしはそれらの呼び方を採用していない。それには理由がある。

 呼称など、実際には些末な問題に過ぎない。しかし、この要件をどのように呼ぶかという問いは、この要件が何を求めているのかについての理解と密接に関わっている。

 

1.不妊化要件(4号要件)は何を求めているか?

 そもそも、特例法のいわゆる4号要件――正確には同法3条4号――は何を求めているのか。同法3条は次の通りである。

第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。

一 十八歳以上であること。

二 現に婚姻をしていないこと。

三 現に未成年の子がいないこと。

四 生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

上の通り、4号要件は「生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」を求めている。まず確認すべきこととして、ここに「手術」の文字はない。しかし(閉経その他の医学的理由により生殖の能力を失っている場合を除いて)ひとが生殖腺の機能あるいは存在そのものを失うには手術を受ける必要がある。そして、特例法に沿って戸籍性別を変更しようとするトランスの人々の多くは、外科的な手術を受けた結果としてこの要件をクリアしている。そのため、4号要件を「手術要件」と呼ぶことには妥当性があるように見える。

2.求められているのは「不妊状態」

 しかし、そうした呼称は4号要件の正確な理解を妨げる。なぜなら、4号が求めているのは「生殖能力を持っていないこと」つまり「不妊状態であること」だからである。

 絶対に理解しなければならないことがある。特例法4号要件は、トランスの人々に「手術を受けること」を求めてはいない。4号要件が求めているのは、性別登録を訂正するトランスジェンダーが「不妊状態であること」だ。そして、そうした「不妊状態であること」を創り出すためならば、手術を希望しない人や希望できない人も含めて、一律にまとめて不妊化を伴う手術を強いても構わないと特例法は考えている。

 そもそも、なぜ特例法に4号要件があるのだろうか。つまり、なぜ特例法はトランスジェンダーたちに不妊状態であることを求めているのだろうか。それは、法案が成立した際に自民党の議論をリードした南野知恵子が書き残しているように、そして2019年の最高裁判決でも採用されてきたように、「移行前の性別に備わる生殖能力で生殖をすると、法秩序に混乱がもたらされるから」である。もっとも法律が懸念するのは、トランス男性が法的に「男性」へと登録を変えたのちに、妊娠・出産するケースだろう。関連してまた、「父=妊娠させる」「母=妊娠する」という通念に反する事態が出現するため「社会が混乱する」ということも、4号要件の存置の理由に挙げられる。

 それだけのことだ。だから、絶対に勘違いしてはならない。特例法は、そして日本国家は、トランスジェンダーの人々に「手術をしてほしい」とは思っていない。特例法が望んでいるのは、トランスジェンダーが「不妊状態であること」だ。そして、その状態を作り出すためなら、トランスの人たちが望まない手術を結果的に強いられたり、そのことで生殖の権利を侵害されたり、望まない医学的措置を受けない権利を侵害されたり、家族を形成する権利を侵害されたりしても、いいと思っている。トランスの人々の権利など、どうでもいいと思っているからだ。それが、現在の4号要件だ。

 だから、「手術を望む当事者もいる」といった理由で4号要件の存置に賛成する(もしくは撤廃に反対しない)のだとしたら、そこにはおかしな「ボタンのかけちがい」が起きている。何度でも繰り返す。特例法は、トランスの人たちに「手術をしてほしい」とは願っていない。特例法は「不妊状態であれ」と命令しているのであって、しかもそのとき「望まない人にまで手術を強制しても構わない」と思っているのである。つまり、ここで「手術」は”コストのかかる手段にすぎない。不妊化を伴う手術という、極めて身体的な負荷の大きい医学的措置を、特例法はせいぜい「必要なコスト」程度にしか思っていない。

 もちろんトランスの人のなかには、自らの医学的ニーズとして性別適合手術を受ける人がいて、そうした人は手術の結果として不妊状態となる。しかし、そんなトランスの人々のニーズなど、特例法には関係がない。特例法が求めているのは、繰り返すが「不妊状態であること」であって、自分の望んだ手術によって不妊状態になったのであろうと、あるいは望まぬ手術によって不妊状態になったのであろうと、そんなことに国家は1ミリも関心を持っていないからである。その意味で、4号要件に「違憲」判断を下した先日の静岡家裁が「生殖腺除去手術」という言葉を使っていたのは示唆的である。

3.時間が経ちすぎてしまった

 トランスの人々のなかには、出生時に戸籍に登録された性別(女or男)と、現実に生きている性別とが食い違っている状態の人がいる。そうした状況にある人たちは、就労や婚姻、住居探し、病院への通院などにあたって、著しい不利益を被っている。とくに就労は経済状況(貧困)と直結しており、通院は健康と直結している。いずれも、人生=生存全体にかかわる問題である。そのため、トランスジェンダーたちのこうした不利益は、国家の責務として解消されなければならない。これが、日本の特例法をはじめとして、一般に性別承認法が必要とされる背景である。先に触れた、特例法ができたときに出版された南野らの著作でも、そうした社会的困難の解消の一助として、特例法の意義が明確に説かれている(南野知惠子(監修)『「解説」性同一性障害者性別取扱特例法』日本加除出版2004)。

 しかし、そうしてトランスの人々の生活上の不利益、法的な不利益をなくすための特例法には、厳しい要件が残され続けてきた。「小さく生んで大きく育てる」という期待のもと作られた特例法は、当事者コミュニティのそうした期待を完全に裏切り、20年間ほとんど変わらなかった。4号の不妊化要件もそうした「取り残された要件」の1つだ。だから、今こうして裁判闘争が繰り返されている。

 明後日10月25日には、最高裁で4号要件についての憲法判断が下る。問われているのは、4号要件を国家が残そうとする理由が、この要件があることで生み出される多様な人権侵害に優越するかどうか、である。すなわち、4号の不妊化要件を残したいという国家の願いは、不妊化を伴う手術を希望しない・希望できない人びとにまで、一律に手術を強制し、そのことによっておびただしい権利侵害を生み出すにたるだけの重要な「願い」なのかどうかが、問われている。(図を参照)

 わたしは、そのようなことはありえないと思っている。性別変更を願い、権利として性別承認の機会を得ようとするトランスの人々に対して、一律に不妊化を強いるなどあってはならないことであり、4号要件は憲法13条(幸福追求権)や24条(の含意する家族を形成する権利)に違反すると考えている。

 そしてそもそも、不妊化を求める理由である「混乱」は、出生登録や戸籍登録にあたって新たな附則を設けたり、特例を設けたりすることによって容易に回避できるはずのことだ。そうした運用上の工夫によって解決可能な「混乱=問題」の解決のために、不妊状態であることを一律に要求するのは、明らかにコストに見合っていない。先日、裁判所として初めて特例法の4号要件に「違憲」判断を下した静岡の家庭裁判所も、同様の論理を立てていた。もはや、不妊化を一律に求めることなど許されないのだ。

5.これは「手術要件」ではない

 もう一度くりかえす。4号要件が求めているのは「手術をすること」ではない。4号要件が求めているのは「不妊状態であること」であり、しかもその不妊状態を一律に実現するためなら「望まない人びとにまで一律に手術を強要してもいい」と国家は考えている。これが、特例法の4号要件である。だから、つねに考えなければならない。

1)なぜ国家は性別承認(戸籍訂正)を求めるトランスジェンダーに「不妊状態であること」を求めるのか?そこに正当性はあるのか?

2)そうして「不妊であること」を求める国家の理屈は、はたして手術を望まない人びとに対してまで一律に手術を強いることを正当化するだけの理屈なのか?

 この2つの問いを区別することは、つねに重要である。

 だから、わたしは4号要件を「手術要件」と呼ばない。その呼び名は、4号要件がどのような理屈で不妊化を求め、その理屈がほんとうに手術の強制を正当化するのかどうかという、真に考えるべき問いを見失わせるからだ。

フェミニズムとアイデンティティの政治(NHKカルチャー青山)

 明日、9/29(金)NHKカルチャー青山さんにて、清水晶子さんと2度目のフェミニズム対談(?)をやります。テーマは「フェミニズムアイデンティティの政治」。伝説的に楽しかった昨年の講座「トランスジェンダーフェミニズム」を受けて、今年も講座が実現しました。

 以下のリンクから、対面とオンラインと、それぞれ申し込みができます。アーカイブ動画の配信ももちろんあります。

◆9/29(金)19:00~20:30 

教室受講:

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1277343.html

オンライン受講

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1277345.html

 アイデンティティの政治という言葉は、いま(特にアメリカなど英語圏で)やっかいな使われ方をしています。「ジェンダーだのLGBTだの、新奇な言葉を使いながら、マイノリティがやかましく自分たちのアイデンティティを主張して、社会に余計な分断を持ち込んでいる」とか。あるいは「アイデンティティの承認を求める運動にリベラル派が注意を持っていかれたせいで、本当に大切な問題が見失われ続けている」とか。なんとなく気に入らない社会正義の実践や社会運動をまとめて腐すためのレッテルとして、「アイデンティティの政治(identity politics)」が使われています。

 日本語圏で、そうしたレッテル貼りとして「アイデンティティの政治」という言葉が使われる機会は少ないですが、「マイノリティによる不合理なアイデンティティの主張によって、キャンセルカルチャーが加速している」みたいな、すさまじく解像度の低いバックラッシュ言説は、掃いて捨てるほどあります。あの感じを、なんとなくイメージしてもらえれば。

 他方で、そうしたレッテルとしてではなく、アイデンティティの政治とはどのようなものであるかを考えるのはとても重要なことです。そして今回の講座では、とくにフェミニズムアイデンティティの政治について、重点的に話をします。

 現代的な感覚としては、もしかするとピンとこないかもしれませんが、フェミニズムもまたアイデンティティの政治としての側面を持っています。歴史的に、間違いなくそうした面がありました。ときに「女性であることはアイデンティティではなく階級なのだ」と表現されることもありますが、その実質がアイデンティティの政治であると言うほかない理論や運動は、フェミニズムのなかにたくさん見いだすことができます。それ自体は、多くの人が異論なく同意できる事実だと思います。

 考えるべきは、そこで「女/おんな/女性」というアイデンティティのもとに集ったフェミニストたちの実践そして理論が、なぜそのようなアイデンティティの政治を求めることになり、そこにどのような功罪があったのかということです。

 そもそも「アイデンティティの政治」という言葉自体は、コンバヒー・リバー・コレクティブのステイトメントのなかで使われ始めたものであることが知られています。異性愛中産階級の白人女性中心のフェミニズム運動においてしばしば不可視化されてきた(あるいは不可視化され続けてきた)、黒人のレズビアン女性や労働者階級の女性たちの経験、そして彼女たちの置かれている政治的な環境の差異を際立たせ、主張する必要が「アイデンティティの政治」という言葉と、そうしたパースペクティブに基づく運動とを求めたということです。

 もちろん、コンバヒーコレクティブ以前のフェミニズムが、アイデンティティの政治と無縁だったわけではありません。それは先ほども書いた通りです。とはいえその事実から想起すべきは、アイデンティティを前に出さなければならないという、のっぴきならない政治状況こそが、アイデンティティの政治を求めてきたということです。

 たほうで、少し時代がくだって90年代。清水さんが専門とするクィア理論が運動と共に生まれたのは、アイデンティティを基礎に置く政治をまさに批判し、それを乗り越える必要性が(それこそ緊急に)認識されたからでした。今回の講座のための打ち合せで清水さんがおっしゃっていたのは、清水さんがフェミニストとしての思考の歩みを始めたのは、そのような「アイデンティティ(の政治)に対する信頼/安定的な依拠」がゆらぐ時代のテクストや思考と共に、だったということです。

 あるアイデンティティのもとに集う人々は、本当に「○○としての経験」を共有しているのでしょうか。置かれた状況は、同じなのでしょうか。レズビアンにせよ、トランスジェンダーにせよ、あるいは「女性」にせよ、あるアイデンティティのラベルを自分に「引き受けること」は、そのような人「である」ことと、どらくらい同じであることができ、あるいは同じであることができない(ことがある)のでしょうか。もし、そこに「すきま」があるのだとしたら、アイデンティティの政治は、そのような「引き受け」のプロセスをなかったことにもしてしまうのではないでしょうか。

 そうして振り返ると、アイデンティティの政治としてのフェミニズムの歴史にも、多様な「フェミニスト」がいたという事実が、また違った仕方で/あるいはより多彩に、見えてきます。この講座でとくに注目されるのは、トランスジェンダートランスセクシュアルの存在です。

 昨今「第二派フェミニズムこそが、真に女性の状況をまじめに考えるフェミニズムであり、第二派フェミニズムトランスジェンダーという存在など認めなかった➤だからトランスジェンダーに親和的なフェミニズムは偽物のフェミニズムだ」といった乱暴なもの言いをするトランス排除的フェミニストが増えています。つまり、第二派フェミニズムとはなんであったか(なんであるか)という歴史の解釈が、トランス排除をめぐるフェミニストの政治の一部を構成しているということです。

 これに対して、「第二派フェミニズム運動のなかにもトランス女性は混じっていた」と主張することは、確かに大切でしょう。そうした歴史研究もたくさん積みあがっています。しかし、それだけでよいのでしょうか。

 ひとつには、今でいうトランス男性やトランスマスキュリンな人々が、フェミニズムの歴史において(理論のうえでとくに)果たしてきた貢献が、このような応答によっては忘れられてしまいがちです。ある時代、ブッチレズビアンとトランス男性(マスキュリン)のあいだに走った、切迫感のある(血の流れるような)緊張の歴史も忘れるべきではありませんが、「男性もフェミニストになれるのか」という問いに対して、その実存をかけて答えを出してきたトランスの男性/マスキュリン的な人たちがいることは無視できない事実です。

 もうひとつには、「女であるとはどのような意味なのか」という、第二派フェミニズムにとっての核心的な問いに対して、トランスセクシュアル(当時の言葉)の女性たちの存在と思考が与えてきた貢献を無視してはならないということです。ラディカルフェミニストであるマッキノンのような論者が問うてきた、女性sex であることはどのように構成され、どのように性差別的な抑圧の構造に挿入されているか?という問いが、トランス的な問いと無縁でないというのは、近年の研究をまつまでもなく明らかです。

 問いはこうして、アイデンティティとはそもそもなにか、という水準にも到達することになります。ただ、この問いだけを見るなら、歴史を参照する必要などないかもしれません。トランスやクィアな人たちは、自分たちにとってアクセス可能な言葉のなかから、「しっくりくる」ものを探し出すという経験をするものだからです。とはいえ、そうしたプロセスを「引き受け可能な言葉を探すプロセス」として見るか、「本当の自分を探すプロセス」と見るかで、そのアイデンティティを政治へと転化する場合の方向性も大きく変わってくるでしょう。

 あぁーー!書きたいことが止まらなくなってきました。

 明日が楽しみで仕方がありません。

 ちなみに昨年の講座のあとは、あまりにも楽しかったので記録のブログを書きました。

yutorispace.hatenablog.com

  今年も、終わった後にこんな楽しい報告ブログを書けるといいなと思います。

 皆さんと講座でお会いできるのを楽しみにしています!

 

トランスヘイト言説を振り返る(wezzy)

トランスジェンダー入門』の発売から、来週で2カ月になります。この間、ずっと勢いも衰えることなく書店さんでも手に取っていただいてるということで、著者としては安心しています。朝日新聞にも載っていましたが、4刷で2万部弱が出ています。

 刊行記念イベント5つ目が明日に迫っています。場所はwezzyさん。テーマは「トランスヘイト言説を振り返る」。能川元一さん、堀あきこさん、松岡宗嗣さんの3人によるレクチャーに加えて、わたしを含む4人での討議になります。
➤ 申し込みは以下より


wezz-y.com

・9月8日(金)19:00~21:00
・オンラインのみ。
アーカイブ配信あり。視聴期限は9/29。
・書籍付きチケットは完売。オンライン参加 ➤ 990円。

 さて『トランスジェンダー入門』では、ここ数年日本国内でも激化しているヘイト言説については扱いませんでした。ヘイト言説によって自分たちの語るべきことを制約されるのは不本意ですし、それに応答するはるか手前のところで、基礎的な情報を書籍にまとめる必要があると判断したからです。

 今回のイベントでは、そうしてスルーすることになった「トランスヘイト」言説を正面から扱います。この5年ほどで、日本におけるトランスヘイト言説の担い手は広く拡大しましたが、その発端やヘイト拡散の経緯について知らないという方は多いと思います。そのため、今回のイベントは「トランスヘイト言説を振り返る」としました。現在進行形で拡大・拡散しつつあるヘイトの現状があるからこそ、その過去にもう一度目を向け、どのような対抗軸が必要であり、また可能であるかを探ろうと思います。

 堀あきこさんからは、いわゆる「フェミニズムにおけるトランス排除」問題を論じていただきます。「女性」という立場からトランスの人々に集中的に投げつけられ続けるヘイト言説がどのような装いをしており、どのような点で問題性を含むのか、お話しいただく予定です。能川元一さんからは、右派・保守系論壇の分析を中心に、右派に流通するトランスヘイト言説がこの1年でどのような質的変貌を遂げたかを詳細に論じていただきます。これまで女性の健康や権利のこと、ましてやトランスのことなど一切関心を寄せていなかった右派論壇が、「女性の安全」なるタームをフックとして「女性の味方」面をしているというおぞましい現在に至るまでの経緯において、どのような言説の輸入・交換があったのか、わたしも高い関心を持っています。他方で松岡宗嗣さんからは、LGBT理解増進法(2023)が成立するまでの経緯をひとつの軸に、国政・地方政治両面におけるトランスバッシングの波、そして圧力を論じていただきます。理解増進法は、2021年にも国会に上梓される寸前までいきましたが、自民党内の反対により廃案になりました。それが2023年に再び取り沙汰されたとき、その内容はより酷いものとなり、国会審議の期間・過程では、目を疑うレベルのヘイト言説が政治家の口からも繰り返し飛び出しました。許しがたいこうした過去を記憶し、現在の状況を理解するためにも、松岡さんからのまとめは非常に有益なものとなるはずです。

 なお、お三方からの報告のあと、わたし(高井)からも短いレクチャーを行います。「素朴な疑問は存在しない~トランスヘイト言説に触れたら~」という題で、トランスの人々の生活や現実に関する「素朴な疑問」を連発することが、どのようにしてヘイト(憎悪)の扇動や拡散としての機能を持つのか、そしてそうしたヘイト的な「疑問」に触れたとき、どのような対応が望ましいのかといったことを論じます。普段わたしはトランスヘイト言説そのものを相手取る機会が少ないのですが、いい加減に言いたいことも溜まっているので、明日は言うべきことをはっきり言わせていただきます。

 以上が全体の予告(?)です。イベントではヘイト言説が多く引用されるため、皆さんには心身の安全と安寧を守っていただくことを最優先としていただきたいのですが、重要なイベントになることは確かです。皆さまのご参加をお待ちしています。

 最後になりましたが、このイベントはショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』(拙訳:明石書店2022年)の翻訳刊行からまもなく1年を記念するイベントでもあります。『トランスジェンダー入門』を通して、トランスの人々を取り巻く社会・経済・法・政治の状況について基礎的な知識を得ることができたら、ぜひ『トランスジェンダー問題』へと歩みを進めてほしいと願っています。トランスの人々を苦しめている諸問題については『トランスジェンダー入門』で簡単に論じましたが、そうした ”問題” は実のところ、トランスではない人も含む、多くの人々を苦しめている問題と同じ根っこを持っています。だったら、共に連帯して世界を変える以外に道はありません。「トランスジェンダー」という集団に対して、良くも悪くも注目が集まる現在だからこそ、「議論は正義のために」という『トランスジェンダー問題』の翻訳副題が、いま改めて想起されて欲しいと願います。

フェミニズムがフェミニズムであるために(エトセトラブックス)


 『トランスジェンダー入門』の発売から5週間ほど経ちました。ありがたいことに4刷も決まり、一時期は在庫不足がいろいろ懸念されてもいましたが、現在はネット書店でも実店舗の書店さんでも、問題なく発注数が出回っているのではないかと思います。

 『トランスジェンダー入門』の刊行記念イベント、3つ目が今週の土曜日に迫っています。

etcbooks.co.jp

・8月26日(土)19:00~21:00
・エトセトラブックショップ&オンラインにて。
・共著者の周司あきらさん、エトセトラの松尾亜紀子さんとの鼎談です。
・テーマは「フェミニズムフェミニズムであるために」
アーカイブ動画あり。
・オンライン配信参加1200円です。
・Zoomでの配信となり、リアルタイムで字幕が表示できます。

 今回のイベントでは、思いっきりずっとフェミニズム(と男性学)の話をします。『トランスジェンダー入門』の第6章も「フェミニズム男性学」だったのですが、紙幅の関係もあって、(わたしは)書きたいことの2%くらいしか書いていません。このイベントでは、書けなかったことも含めて、そした何よりエトセトラの松尾さんと3人で、ぞんぶんに「フェミニズムトランスジェンダー(の政治)」の話ができるかなと思います。

 今日ちょうど登壇者による打合せがありました。話したいことや考えたいことは無数にあり、2時間で収まるか不安です。今日の打ち合わせで出た、当日話したいテーマや「問い」は、こんな感じでした。


フェミニズムによるトランス排除
 ➤ ラディカルフェミニズムトランスジェンダーの関係について
 ➤ ラディカルフェミニズム=つねにTERF なのか?

フェミニズムにおける「女」とはなにか?
 ➤「女性の経験」をフェミニズムの基礎に置くとき何が起きているか

・傷つきやすさとフェミニズム
 ➤ 被害者性や傷つきやすさが連帯の基礎に来るとき何が起きるか。
 ➤(性)暴力をなくすための闘いはどのような道を目指しうるか

・リプロ運動とトランスジェンダー
 ➤ 日本における優生保護法をめぐる社会運動から学べること

トランスジェンダーという言葉が指すもの
 ➤ 「トランス女性」「トランス男性」という新しい言葉。
 ➤ 「TGのTS化」と「ノンバイナリーの登場」

・トランス女性が「マイノリティ女性」であるとはどういうことか?
 ➤ トランスの人々の経験、変化、アイデンティティ
 ➤ トランス女性が「男性」扱いされることで置かれる立場

男性学トランスジェンダーフェミニズム
 ➤ なぜ「政治的レズビアン」はあっても「政治的ゲイ」はないのか
 ➤ 男性的な割り当てや生存からスタートする「クィア」はなぜ少ないのか
 ➤ AMABのノンバイナリー、Aセクシュアルの人はなぜ少ないのか

トランスジェンダー差別と家父長制
 ➤ 「きちんとした夫」でないと見なされた存在へのおぞましい攻撃
 ➤ 「トランス的な人たち」への差別と、トランスジェンダーへの差別
 ➤「性別らしさ」の越境が許容されても「性別の越境」は拒否される世界

 ……… なんと!思い出すだけでも楽しそうです。

 昨今はフェミニストたちによるトランスジェンダー排斥・差別言説の拡散もほんとうにひどいありさまで、「フェミニズムトランスジェンダー」が、ある仕方で対立的にイメージされる機会も増えてしまっているかもしれません。

 そうした不安を抱いてしまうことがあれば、ぜひイベントに来ていただきたいです。エトセトラブックスの書店の陳列や装飾から始まり、雑誌『エトセトラ』の刊行を始めとした編集業にいたるまで、トランスジェンダーへの差別や憎悪扇動をフェミニストとして許さない姿勢を明確にしてきた松尾さんと、『トランスジェンダー入門』の著者2人で語り合う機会です。性を巡る差別や抑圧のない社会を作るために必要なことを、フェミニズム男性学において蓄積されてきた知恵の歴史から学び取る時間にしたいと思います。それでは、よろしくお願いいたします。

「まずは現実を知ることから」(B&B書店)

トランスジェンダー入門』の発売から3週間が経ちました。この間多くの方に手に取っていただき、ありがとうございます。ただ、初版があっという間にはなくなってしまったため、在庫僅少状態が続いています。早く2刷・3刷が行き届くとよいのですが。

トランスジェンダー入門』の刊行記念イベント、2つ目が3日後に迫っています。

bookandbeer.com


・8月10日(木)19:30~21:30
・下北沢の本屋B&Bさんにて。
・認定NPO法人ReBit代表理事である藥師実芳さんとの対談です。
・テーマは「まずは現実を知ることから」
・会場参加あり+オンラインあり。アーカイブ動画もあります。
・来店参加だと2,750円、オンラインだと1650円です。

 上記の通り、やや高額です。そのため参加してくださる方には申し訳ないのですが、薬師さんとはずっと一度お話しをしてみたいという思いがあり、わたし個人としてはいつになくエンジンがかかっています。刊行されたら薬師さんとぜひイベントをしたいと、出版前から集英社の編集さんにはお願いをしており、今回こうして実現しました。

 ReBitさんは2009年の設立。LGBTQに関する教育・啓発のみならず、キャリア支援や様々な調査の実施など、多岐にわたる活動をされています。例えば、今年の3月に公開されたこちらの調査報告「LGBTQ医療福祉調査2023」などは、時間の関係で『トランスジェンダー入門』には反映できなかったのですが(校正作業の最終版でした…)、非常に重要なデータがたくさん集まっています。

rebitlgbt.org

 今回のイベントは「まずは現実を知ることから」というテーマに設定しました。わざわざこのようなテーマを掲げているのは、現実を知りもしない人たちが、トランスジンダーについて誤った/誤解を招く/偏見に満ちた/差別的なことを言いふらす時代になっているからです。それも、ここ数年で急激に、です。
 もう、時計の針を戻すことはできません。だったら、改めて現実を知り、皆さんと一緒にトランスの人たちの状況を考えることから、始めるしかありません。だからこのイベントを企画しました。「まずは現実を知ることから」。
 『トランスジェンダー入門』には、多くのデータを引用しました。3章「差別」の章では、国内外のデータを、その簡単な解釈と共に提示しています。ReBitの薬師さんは、そのデータのなかに隠れている、LGBTQそしてトランスジェンダーの人たちの現実をよくご存じです。そして、ときに非常に厳しいそうした現実を生み出してしまうような、社会の構造についても、鋭い理解をお持ちです。今回の対談では、わたしと薬師さんで、そうした社会構造の偏りも含めて、存分に話していこうと思います。
 加えて、最近ReBitさんが達成したクラファンについても、当日は詳しくお伺いしたいと思っています。LGBTQであることで福祉を利用しづらい、LGBTQであることに加えて、精神障害発達障害である/と共に生きていることで、困難の質が変わる。そうしたLGBTQそしてトランスジェンダーのコミュニティの現実と向き合い、状況を変えるための取り組みにReBitさんは従事しておられます。その活動を支える、現状認識や思いについても、当日はぜひ伺いたいです。

camp-fire.jp

 先日、代官山蔦屋書店に李琴峰さんをお迎えして、著者2人と鼎談をしたときは『トランスジェンダー入門』という書籍の出版そのものについての話がけっこうな比重を占めていました。今回はすこし違います。今回は、書籍そのものについての話ではなく、私たちが変えていきたいと思っている現実そのものの話をします。これからも、何件も『トランスジェンダー入門』関連のイベントが予定されていますが、薬師さんとの対談は、おそらく他のどこでもできないようなバッキバキのトランスの話ができると思っています。なぜなら、わたしと薬師さんだからです(その意味はご参加いただければすぐに分かります)。

 当日は、福祉・医療、教育、就労といった、生きていくうえで避けられない、そしてとても重要な各領域において、どのようにトランスの人々への排除が構造的に作用しているか、そしてそれがどのようなデータに現われているか、といったような話しをしようと思います。もちろん、ReBitの薬師さんですから、単に抽象的な話だけには終始しません。しかし私たちは、社会構造の話をすることをためらいません。変わらなければならない現実が、そこに確かにあるからです。

 なお、今回のイベントとは直接は関わらないのですが、本屋B&Bさんは、わたしにとって、そして『トランスジェンダー入門』という著作の成り立ちにとって、実は思い出深い場所でもあります。というのも、『トランスジェンダー入門』の共著者である周司あきらさんと知り合ったのは、このB&Bのイベントだったからです。昨年の2月、周司さんの『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)の刊行記念イベントが本屋B&Bさんで開催されることになり、書店員さんの取り計らいで、対談相手にわたしをお呼びいただきました。

bookandbeer.com

ジェンダーアイデンティティが分かりません!」という(ふざけた/オマージュ込みの)テーマで、本当に楽しい時間を過ごしました。周司さんと初めて話したのが、このイベントの打ち合わせでした。その後、わたしの『トランスジェンダー問題』の翻訳にあたってもご助力をいただき、そのプロセスで「やっぱりこういうトランスの入門書が必要だよね」という流れで生まれたのが、『トランスジェンダー入門』でした。2月に初めて知り合ってから、8か月後には執筆が始まり、10か月後には原稿ができていました。B&Bのイベント担当さんには、私たちを出会わせてくださったことに感謝申し上げたいです。いただいたご縁がこうして新書になり、そしてまた、B&Bさんでイベントをすることができました。※今回のイベントは周司あきらさんは参加しません。

 最後に個人的な思い出話になってしまいました。皆さんと10日お会いできることを楽しみにしています。

『トランスジェンダー入門』関連情報(随時更新)

トランスジェンダー入門』に関連する情報を以下にまとめています。

1.出版情報、2.イベント情報、3.書評等、 4.メディア出演 5.その他 

1.出版情報

・2023年7月14日。集英社新書として発売されました。
・7月20日重版(2刷)決定。7月27日重版(3刷)決定。8月14日重版(4刷)決定。1月12日重版(5刷)決定(➤帯が更新)。3月5日重版(6刷)決定。

・発売前に書いたものですが以下に内容紹介があります。


2.イベント情報

(1)代官山蔦屋書店【終了しました】
・7月28日。作家の李琴峰さんと著者2人による鼎談。
【イベント&オンライン配信(Zoom)】『トランスジェンダー入門』(集英社新書)刊行記念 李琴峰×周司あきら×高井ゆと里トークイベント | イベント | 代官山T-SITE | 蔦屋書店を中核とした生活提案型商業施設
・イベント予告時のブログ
『トランスジェンダー入門』刊行記念イベント:代官山蔦屋さん - ゆと里スペース
・イベントの記録レポート(周司さんが執筆)(2)本屋B&B【終了しました】
・8月10日。ReBit代表理事の藥師実芳さんと高井の対談。
藥師実芳×高井ゆと里「まずは現実を知ることから」『トランスジェンダー入門』(集英社)刊行記念 – 本屋 B&B
・イベント予告のブログ。
「まずは現実を知ることから」(B&B書店) - ゆと里スペース
・イベントレポート(周司あきらさん執筆)

(3)エトセトラブックス【終了しました】
・8月26日。周司あきら✕高井ゆと里✕松尾亜紀子。三者の鼎談。
・「フェミニズムフェミニズムであるために」。
【イベント】2023/8/26 『トランスジェンダー入門』(集英社新書)刊行記念イベントのお知らせ | book | エトセトラブックス / フェミニズムにかかわる様々な本を届ける出版社
・イベント予告時のブログ。
フェミニズムがフェミニズムであるために(エトセトラブックス) - ゆと里スペース


(4)LOFT HEAVEN【終了しました】
・9月1日。高井ゆと里×吉田豪×武田砂鉄
・『トランスジェンダー入門』刊行記念~今この社会のジェンダー問題を考える~
『トランスジェンダー入門』刊行記念トークイベント – LOFT PROJECT SCHEDULE
・イベントレポート(周司あきらさん執筆)

(5)wezzy【終了しました】
・9月8日。能川元一さん、堀あきこさん、松岡宗嗣さん(3者報告)+高井
・「トランスヘイト言説を振り返る」
【販売終了】高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」 - wezzy|ウェジー
・イベント予告時のブログ
トランスヘイト言説を振り返る(wezzy) - ゆと里スペース
・イベント発表部分の集約記事(周司あきらさん執筆)

webmedia.akashi.co.jp

・高井ゆと里の報告を文章化しました。

webmedia.akashi.co.jp・クロストーク部分の報告記事(周司あきらさん執筆)

webmedia.akashi.co.jp

(6)NHKカルチャー青山【終了しました】

・9月29日。清水晶子さんとの対談
・「フェミニズムアイデンティティの政治」
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1277343.html
・予告ブログ
フェミニズムとアイデンティティの政治(NHKカルチャー青山) - ゆと里スペース
・イベントレポート(周司あきらさん執筆)

(7)梅田Lateral【終了しました】
・11月12日(日)。西田彩さんと高井の対談。
・「『トランスジェンダー入門』の向こうに」
『トランスジェンダー入門』の向こうに -
・イベント報告記事(周司あきらさん執筆)

(8)マルジナリア書店【終了しました】
・2024年3月8日(金)。田代美江子さん、松岡宗嗣さんとの鼎談。
・大月書店『Q&A:多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育バックラッシュに立ち向かう74問』との合同刊行記念イベント。
・「時を超えたバックラッシュ」。
・イベント報告記事(周司あきらさん執筆)

shinsho-plus.shueisha.co.jp

3.書評等 (著者で気づいたもの)

東京新聞(2023.7.22)山崎ナオコーラさんの「今月の3冊」。
「青春と読書」(2023年8月号)武田砂鉄さん「変わらなければいけないのは誰か 
乙女塾(2023.7.26掲載)みなみさん「『トランスジェンダー入門』を読んで
生活ニュース・コモンズnote(2023.7.27掲載)「知った瞬間、世界は変わる 『トランスジェンダー入門』を読んで
集英社新書プラス(2023.7.28掲載)江原由美子さん「「知っているつもり」の人こそ読んでほしい本
集英社新書プラス(2023.8.4掲載)桜庭一樹さん「立ち去るために質問するな
日本経済新聞書評(2023.8.12)リンクはこちら
朝日新聞読書欄(2023.8.19掲載)杉田俊介さん〔新書速報
沖縄タイムス「大弦下弦」(2023.08.21)「「トランスジェンダー入門を読んだ後は
*フェミ・ジャーナル「ふぇみん」(2023.8.5)特集「後退したLGBT理解増進法とトランスジェンダーのリアル」面にて書籍紹介。
*全国商工新聞(2023.8.21)書評欄。
朝日新聞読書欄「売れてる本」(2023.8.26)三木那由他さん執筆
*好書好日 (上記「売れてる本」選評:オンライン全文公開)

*かなたいむ:Youtube(2023.8.26)まだまだ暑い日々のLOOK BOOK!撮影の裏側はこんな感じです。
毎日新聞書評欄(2023.9.2)橋爪大三郎さん執筆今週の本棚
*読売新聞「新書」(2023.9.17)川口晴美さん短評
週刊読書人(2023.9.22)森山至貴さん「誠実に読むことから始める」
*労基旬報【新刊紹介】(2023.10.13)
*現代性教育ジャーナル(2023.11.15)「今月のブックガイド
中日新聞書評欄(2023.11.26)藤井誠二さん「読書かいわい」

4.メディア出演等

TBSラジオ【アシタノカレッジ】2023年8月10日出演。
➤アシタノカレッジ | TBSラジオ | 2023/08/10/木  22:00-23:30 https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20230810222112
東京新聞2023年8月10日夕刊➤トランスジェンダーの「入門書」が売れている デマが広がる中、著者2人が込めた思いとは:東京新聞 TOKYO Web
TBSラジオ荻上チキ・Session】2023年8月18日出演➤【音声配信】特集「トランスジェンダー入門~性別を変えるとは、どういうことなのか」高井ゆと里×荻上チキ×南部広美▼2023年8月18日 | トピックス | TBSラジオ FM90.5 + AM954~何かが始まる音がする~
朝日新聞「ひと」欄:「トランスジェンダー入門を書いたひと」(高井ゆと里)
*SPUR オンライン(2023.9.28)「話題の『トランスジェンダー入門』の著者にインタビュー。トランスジェンダーと共にある社会を目指して
図書新聞(2023.12.16)(3619号「差別を真に受けないために」(著者2人のロングインタビュー)

.その他

紀伊國屋じんぶん大賞2024にて3位を受賞しました!

中央公論2024年新書大賞にて5位を受賞しました!

『トランスジェンダー入門』刊行記念イベント:代官山蔦屋さん

 『トランスジェンダー入門』が発売されてから約2週間が経ちました。その間、発売4日で重版が決まり、それから1週間ほどで重版(3刷)が決まりました。本当に多くの方に手に取っていただき、ありがとうございます。

 そんな書籍の、最初の刊行記念イベントが明日28日(金)に予定されています。著者である2人が作家の李琴峰さんをお迎えして、代官山蔦屋書店での鼎談になります。

store.tsite.jp

 李琴峰さんと知り合ったきっかけは、昨年わたしが刊行した『トランスジェンダー問題』に推薦文(帯文)を寄せていただいたことでした。ちょうど1年くらい前です。それから、色々な場所でご一緒することも増えました。今回もこうして『トランスジェンダー入門』のイベントでお会いすることになりましたが、書籍の出版を通して色々な方と繋がれるのは嬉しいものですね。

 先日、明日のイベントの打ち合わせがありました。めっちゃ楽しかったです。

 今回の『トランスジェンダー入門』については、周司あきらさんと書いていることもあり、「当事者が書いた本」のように言われることがあります。しかし、著者である私たち自身はその点にさほど意味を見いだしていません。詳しくは明日のイベントで話しますが、この新書に関しては、私たちは「誰かが書かなければならない本だった(から書いた)」という意識の方が強いです。(そのあたりの現状認識については、明日ばきばきにお話ししたいところです。わたしにも生活があり仕事がありますが、昨年から今年にかけて、トランス関係の出版にいくつも主体的に携わってきました。なぜ寿命を削るようなことをしているのか、ふだんあまり話す機会はないので、明日は語りたいだけ語らせてもらおうと思います)

 それに対して、日本語の小説家として、レズビアンが登場する、クィアが登場する、そしてトランスジェンダーが登場する優れた小説を書いてきた李琴峰さんは、私たちのそうした動機とは全く違った原動力で、小説を書いていることでしょう。実に当たり前ですね。

 もちろん、著者である私たち2人のあいだでも、想定する読者や、この本の「読まれ方」については違いがあります。打合せのときに周司さんに言われたのですが、わたしはこの本の出版を「矛」のように理解していますが、周司さんはそれを「盾」のように理解しています。言い得て妙だと思います。そして、それぞれが想定するこの本の想定読者も、実はけっこう違います。周司さんは、かつての自分に読ませたいという思いもあったようですが、わたしにはそうした動機はありません。

 打ち合わせでは他にも、クィア表象における「若さ」の問題や、クィア表象における「説明しすぎのむずかゆさ」問題、そして「トランスジェンダーの本が今こんなにも売れてしまう」問題(?)も話題に上がりました。いま、私たちが手にできるトランス関連の書籍は、ほんの3年ほど前とは大きく変わっています。この変化を、積極的な転化に変えていけるか。打ち合わせで李琴峰さんに言われたことが、忘れられません。

 ということで、明日は私たち3人の執筆活動のモチベーションとか、エネルギーとか、世の中でどんな風に本が読まれて欲しいかとか、そういった話から、クィア表象一般についての話など、しようと思います。打ち合わせも一瞬で90分くらい経ってしまいました。とても楽しみです。

 なおイベントの終了後は、会場が閉まるまで時間がすこしあるようですので、その場にいらっしゃる方と少しお話ししたり挨拶したりする時間になります。イベントに絡めた言い方をすると、李琴峰さんとサイン会的な時間にもなります。代官山蔦屋さん、2階のラウンジは本当にきれいなところなので、皆さんとお会いできることを楽しみにしています。2階を貸し切りにできそう、ということで、来場参加もまだチケットがあるはずです(27日22時時点)。

 最初のイベントですので、オンラインの方も含め、皆さんとお祝い的にイベントを作っていけたらいいかなと思います。それでは。

『トランスジェンダー入門』内容紹介

 再来週7月14日、新書『トランスジェンダー入門』が発売されます(集英社より)。周司あきらさんとの共著です。周司さんにとっては『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店2021年)、『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店2023年)につづき3冊目の著作になるはずです。どちらも非常に素晴らしい書籍ですので、『トランスジェンダー入門』に関心のある方は、あわせてお読みください。

 

『トランスジェンダー入門』表紙。帯には「最初に知ってほしいこと」と大きく書かれている。

トランスジェンダー入門』表紙

 この記事では、『トランスジェンダー入門』のざっとした内容紹介をしたいと思います。まだこの本を買うかどうか決めていない、果たして(税込み)1056円払って読む価値があるのかと、悩んでいる方がいたら参考にして下さい。

 はじめに本書の目次を挙げておきます。

第1章 トランスジェンダーとは?

第2章 性別移行

第3章 差別

第4章 法律

第5章 医療

第6章 フェミニズム男性学

 これから、ごく簡単に『トランスジェンダー入門』でどんなことを書いたのか、紹介していきます。

 

第1章 トランスジェンダーとは?

 この章では、「トランスジェンダー」とはそもそもどういった人たちを指す言葉なのかについて、簡単な理解を読者の皆さんに得てもらうことを目指しました。
 トランスジェンダーについては、「生まれたときに割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティが食い違っている人たち」といった定義が与えられることがありますが、これだけ聞かされても、いまいちピンとこないという人が多いと思います。そこで本章では、「性別を割り当てる/割り振る」とはどのようなことか、そして「ジェンダーアイデンティティ」とはなにか、といった問いについても、もう一段踏み込んだ説明を試みました。もし、これまでそうした問いに少しでも悩んだことがある方がいたら、参考にしていただけるかなと思っています。
 それと同時に、この章では「身体の性」と「心の性」といった言葉がなぜ昨今使われなくなっているのか、そして、なぜそれらの言葉を使うべきではないのか、といったことも説明しています。これらの言葉が使われなくなったのは、それらが単に「正しくないから」ではありません。それらの言葉によっては、トランスの人たちの生きている現実を捉え損なってしまうから、それらの言葉は使われなくなっているのです。
 また、同じ第1章では「性別をめぐる2つの課題」を用いて、トランスジェンダーという存在を説明することも試みています。例えばトランス男性について、「男っぽい女の人」や「男らしさが好きな女の人」、あるいは「女らしさが嫌だった(女の)人」といった理解を持っている人はいませんか?それらの理解は、なぜ、どのような意味で的はずれであるのか。その答えを、私たちなりにシンプルに与えたつもりです。ぜひ読んでみてください。

第2章 性別移行

 この章では、トランスの人たちが経験することのある「性別移行(トランジション)」を3つの角度から説明しています。
 1つ目は「精神的な(性別)移行」です。これは、言ってみれば自分自身を「トランスジェンダーとして」発見したり、自分がトランスジェンダーであることを受け入れたりするプロセスを指します。私たちの社会では、出生時に子どもに性別を割り振り、その性別通りに死ぬまで生きていくことが前提とされています。そのため、トランスの当事者の人たちですら、自分がトランスジェンダーであることを理解し、受け入れるのは簡単ではありません。なかには物心ついたときから、周囲に自分のトランスとしてのアイデンティティを申告・主張できる子どももいますが、とはいえいずれにせよ、「自分はあなたたちが扱う性別の人間ではない」という自己理解や、気づきを、その子どもはどこかの時点で得たわけですから、「トランスジェンダーとして」の自己を発見する「精神的な(性別)移行」のプロセスは、そうした子にとっても無縁ではありません。そして、やはり周囲から与えられる情報の乏しさや、家庭環境が理由で、自分自身をトランスジェンダーとして自覚的に理解するまでに時間のかかる人もいます。むしろ、たいていのトランスの人たちは、社会が期待する通りに、シスジェンダーとして(無理やり)生きようとします。必死に、そうします。しかし最後の最後に、自分がシスではないという事実から目を背けることができなくなり、トランスジェンダーとしての自己を認めるようになります。精神的な(性別)移行です。
 2つ目は社会的な性別移行です。トランスジェンダーの人たちは、世の中ではしばしば「心の性」を周囲に認めさせようとする存在として語られがちです。しかし、自身のジェンダーアイデンティティを否定しながら生きることをやめ、いざ、現実に性別を移行するというのは、そのように「心」を認めさせるプロセスとは実のところ全く別のプロセスです。トランスの人たちは、社会生活の中で絶えず問われ続ける「男なのか?女なのか?」の問いに対して提示する答え、提示できる応えを、それぞれの「場」ごとに、オセロの盤面を1枚ずつ裏返していくように、地道に変えていくのです。この、「場」についての思想を手に入れることができれば、トランスジェンダーが試みる「性別移行」というものがどのような経験なのか、すこしイメージが膨らむと思います。
 3つ目は医学的な性別移行です。これについては、ここで敢えて特筆すべきことはありません。より男性的な身体へ、あるいはより女性的な存在へ、それぞれの方向への身体治療にはどのようなものがあり(オペ、ホルモン、etc.)、どのような変化があるのか、ざっとした知識を得ることができます。それと同時に、ノンバイナリーたちと「医学的な性別移行」の関係についても、少しだけ触れています。

第3章 差別

 この章では、現在の社会においてトランスジェンダーの人たちがどのように集団として抑圧された状況にあるのか、多様なデータを用いて明らかにしています。はっきり言って、読むのは辛いと思います。もちろん、トランスの人たちにはそれぞれ違った人生があり、みんなそれぞれ違った環境を生きています。しかし、いざ統計的な調査をしてみると、トランスの人たちが置かれている状況は、シスの人たちに比べて非常に過酷であることが分かります。
 トランスの人たちは、シスの人たちよりもどれくらい貧困に陥りやすいでしょうか。失業率はシスの何倍でしょうか。どれくらいのトランスの子どもが、学校でいじめに遭っているでしょうか。何割くらいの人に自殺未遂の経験があるでしょうか。就職活動で差別やハラスメントを経験している人はどれくらいいるでしょうか。
 この社会は、シスジェンダーの人たちを前提にできています。トランスジェンダーの人たちは、その社会の「異物」として、人生のあらゆる文脈で排除を経験する危険性にさらされています。もし、「トランス差別」について考えたいのなら、SNS上の酷い差別発言だけでなく、こうしたデータにもぜひ眼を向けて欲しいと思います。
 それと同時に、この第3章では、学校教育や就労現場がどのような意味でトランスの人たちにとって排除的に機能しているのか、その実態についても簡単に論じています。ぜひ、ご自分の周りの環境を変える際の参考にして下さい。
 ただ、第3章を書くなかで強く感じたのは、日本国内のデータが圧倒的に不足しているということです。最近やっと「LGBT」についての、ある程度まとまった人口調査が出てきましたが、トランスの人たちはそのなかでも圧倒的に数が少なく、有意味なデータは限られています。そのため第3章では、EUや米国、英国、オーストラリアのデータも数多く引用しました。トランスの人たちにフォーカスを当てた人口調査が、日本でももっと行われるように、適切なリソースが社会に与えられていくことを強く望みます。

第4章 医療と健康

 この章では、トランスの人たちの健康と医療について3つの角度から扱っています。第一には、いわゆる「トランス医療」をとりまく制度的状況を議論しました。現在日本には「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」が存在しています。新書では、このガイドラインがどのような背景から生まれたのか、そしてそれが策定されたことにはどのような良いことと、悪いことがあったのか、それぞれ論じています。
 この章では第二に、トランスの人たちが医療機関でどのような困りごとを抱え、それがどのようにトランスの人たちの健康を増悪させる要因となっているのかについても論じています。保険証の性別欄が重みをもつとともに、知らない他者たちの視線に晒されることもある病院という場所、そして無理解や偏見を備えているかもしれない医師や看護師の存在は、(差別を背景とした経済苦に加えて、)トランスの人たちが医療へとアクセスする際の妨げとなっています。加えて本章では、トランスの人たちが困難を経験しがちな入院病棟での扱いについても、病院側にどのような考慮が求められるか書きました。医療関係者の方は、ぜひお読みください。
 第三に、トランスの人たちの医療・健康についての情報が不足しているという構造的な問題についても扱いました。トランスジェンダーの人のなかには、医学的な措置を経験している人が多くおり、そうした人に対しては、どのような健康上の介入が安全・有効であるのか、研究データも臨床データも現在のところまったく不足しています。これは、社会的に改善されるべき公衆衛生上の課題です。

第5章 法律

 この章では、トランスの人たちにとって切実な問題となる3つの法律について論じています。具体的には、性同一性障害者の性別の扱いの特例に関する法律、同性婚の法制化、差別禁止法の三法です。
 後者二つについては、説明の必要が無いと思います。差別禁止法が必要なのは言うまでもなく、同性婚が法制化されれば、結婚を望んでいるトランスの人たちが婚姻のためだけに戸籍の性別を変更する(そしてそのために内性器を摘出する)、といった著しい不便がなくなります。
 問題は特例法です。特例法は、トランスの人たちの性別を公的に再登録するための性別承認法ですが、性別表記の訂正のために課している5条件(性同一性障害の診断も数え入れれば6条件)は人権侵害甚だしく、大きな問題を抱えています。新書の中では、それら5条件がどのようにトランスの人たちの現実から乖離し、またどのような意味で人権侵害であるかを論じています。特例法については、「ないよりもある方がまし」という共通認識のまま、その内容について疑問を持ってはならないという雰囲気が日本のトランスコミュニティには存在してきたと思います。しかし、現在の特例法は世界的にも明らかに異様です。わたしはその状況は一刻も早く変わるべきだと思っています。詳しくは第5章をお読みください。この章ではまた、性別表記の訂正にまつわる「よくある疑問」にも、部分的に回答しています。特例法の不妊化要件の話が出るだけで「女湯にペニスを付けた人が~」などと反射的に考えてしまう人がいるなら、眼を皿のようにして本章を読んでください。そして、身近な人がそうしたことを口にするようになって辟易しているという人にも、参考にしていただけると思っています。

第6章 フェミニズム男性学

 この章では、フェミニズム男性学・ノンバイナリーの政治という、ジェンダーをめぐる三種の解放運動・理論が、トランスジェンダーの解放とどのように繋がっているのか、あるいは不可分であるのかを論じました。その内容については、実際に読者の皆さんに確かめていただくしかないと思います。
 とはいえ、SNSでトランス差別的な言説に暴露されてきただろう人たちが期待しているような「問題」を、おそらくこの章では取り上げていません。私たちがこの章で論じたかったのは、トランス差別者たちが無理やり作り上げた「問題」ではなく、トランスの人たちが差別のくびきから解放されるために必要な社会変革と、ジェンダーをめぐってフェミニズム男性学が積み重ねてきた政治(ポリティクス)とが、互いに支え合い、必要としあっているという、その積極的な現実です。
 フェミニズムトランスジェンダーの存在が不和を起こすなど、歴史的に考えてもあるはずがなく、もしそのような認識を持っているなら、その人はフェミニズムの主体とは誰か、そしてトランスジェンダーとはどのような人たちなのかについて、根本的な誤解をしていると思います。『トランスジェンダー入門』の著者として、わたしは本書がそうした非現実的な認識枠組みに親近感を感じてしまう人たちにとっての助けになって欲しいと思っています。

終わりに

 以上で『トランスジェンダー入門』の内容紹介は終わりです。発売日まであと10日ほどとなりました。やっとこの本を皆さんに届けられること、嬉しく思います。

 やっと、この本が世の中に出る。「その話は『トランスジェンダー入門』に書かれているので、関心があるなら読んでみてください」と、やっと言える。

 私たちはもう、疲れたのです。お願いです。新書ですから、入門書ですから、どうかみなさん手に取ってみてください。
 帯の言葉には「最初に知ってほしいこと」とあります。そうです、最初に知って欲しいのです。どうか、よろしくお願いします。

www.shueisha.co.jp

『埋没した世界』刊行記念対談(6/30)に登壇します

 今週の金曜日(30日)に、三鷹の本屋さんであるUnité(ユニテ)さんにて、『埋没した世界 トランスジェンダ―ふたりの往復書簡』の刊行記念イベントに登壇します。対談のお相手は、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』(2021)や『『男がつらい!――資本主義社会の「弱者男性」論』(2022)などの著作がある、杉田俊介さんです。来店の参加は完売してしまいましたが、オンラインでの参加はまだ申し込みができます。(以下より)

unite-books.shop

 『埋没した世界』は、五月あかりさんと周司あきらさんが交わした書簡を書籍化したものです。ふたりとも埋没系のトランスジェンダーであるため、著者さんたちがイベントで前に出て話す、ということは不可能です。そのため、このイベントと、次回のWezzyさんのイベント(三木那由他さん×水上文さん)などでは、読者である登壇者たちが、この本をどのように読んだか、そしてこの本の言葉を切り口にどのような議論ができるか、皆さんと分かち合う時間になると思います。

wezz-y.com

 杉田さんと当日お話ししたいのは、ずばり「男性」についてです。

 『埋没した世界』の著者である五月あかりさんは、かつて「男性」として割り当てを受け、そして「男性」として生きようと必死に自分の身を膨らませ、また魂を削っていたと言います。そうでありえたはずの「無性」の自分を押し殺し、身を守るために「無性」としての自分を封印することで、「男性」へと性別を移行したのだ――そのようにあかりさんは語ります。あかりさんはその後、「女性」へと性別を移行しますが、あかりさんにとっては、思春期に経験した「男性化」こそが、第一の性別移行だったということです。

 『埋没した世界』では、あかりさんがそうして「男性」へと移行するなかで、どのようなものを失わされてきたのか、恐ろしいまでの解像度で描かれています。そして、あかりさんは言います。「女性」へと性別を移行したことで、自分はもともとそうであったはずの身体を取り戻したのだと。失ってしまった世界とのかかわり方、他者たちとのかかわり方を、取り戻したのだと。あかりさんはこうして、「男性」として存在することや、「男性」としての身体を生きることを、「異質な経験」として相対化していきます。それは、「男性であること」があたかも「デフォルト」とされてきた事実をフェミニズムが暴いてきたのとはまた異なる、「男性の有徴化」です。

 他方の周司あきらさんは、男性としての自己の身体をこよなく愛しています。そして、「男性でなくなること」によって自分の身体を人生を取り戻していったあかりさんとは対照的に、あきらさんは「男性になること」によって、自分の性別について何も考えなくて済むような、自然な在りようを取り戻したのだと言います。前著『トランス男性による トランスジェンダ―男性学』でもそうであったように、あきらさんは「男性であること」をポジティブな生存状態として理解しています。そして、男らしさが辛い、男性特権を反省しなければ、といった仕方で、右を向いても左を向いてもマイナス志向ばかりの男性学に、あきらさんは不満げです。なぜだ、せっかく自分は男性になることができたのに。

 杉田さんとの対談では、こうしたトランスジェンダーふたりの特異なパースペクティブから見えてくる、「男性である」という経験・状態について、掘り下げて語っていきたいと思っています。先日の打ち合わせで大きなテーマに挙がっていたのは、男性の身体が粗末に扱われることを社会が許しているという、「男性・雑問題」です。この、男性の身体を大切にするという規範が希薄であるという現在のジェンダーの仕組みは、トランスの女性やトランスの男性に対して、不可解なまでの困難を与えると同時に、シスの男性たちにも、構造的なミサンドリーを相互に植え付けているかもしれません。なぜなら、自分自身が「雑」に扱われることで、男性や、男性を生きさせられている男性以外の人たちは、自分の身体を尊重することを学ぶ機会を奪われ、それは必然的に、他の男性たちの身体や、ひいては男性以外の人たちの身体を大切にしない人間を世界に生み出すことにもなるからです。(ここでわたしは、あかりさんが『埋没した世界』の初めの方に書いていた、男子であることは、身体を風船のように・ラグビーボールのように膨らませることなのだという、印象的な比喩を思い出します。)

 さらに、そうした構造的な「男子・雑問題」は、男性たちの常軌を逸した長時間労働の常態化や、徴兵といった、より精度化されたミサンドリー(この名称はここでは仮の名称です)ともつながっているでしょう。

 杉田さんとの対談では、ぜひこうした「男性の身体が大切にされない世界」の不可思議さと、それを補完するような「ミサンドリー」について、語っていきたいと思っています。しかし、それだけではなく。とりわけ周司あきらさんが期待しているのは、「男性を生きること」をどのようにしてポジティブな実存の様態として語りなおせるか、ということでしょう。この点については、「マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か」という問いを徹底した杉田さんの胸を、わたしが借りることになるでしょう。ひとは男性に生まれるのではない、男性に「なる」のです。だとすれば、そうして「なる」過程で失ったものを、あかりさんが二度目の性別移行を通して取り戻したように、未来に取り返すことはできないのでしょうか。

 すみません、、イベントで話したいことがあまりにも多くて、書きすぎてしまいました。ご興味のある方は、ぜひオンラインにてご参加ください。

 なお、主催のユニテさんにもお願い・相談をしたのですが、今回のイベントでは、リアルタイムの字幕提供はありません。できるだけ多くの方に参加していただきたいと思っているのですが、本当に申し訳ありません。(映像配信に使っているプラットフォームと、字幕生成アプリの連携がうまくできないそうです)

 それでは、30日にお会いしましょう。あるいは、配信後1カ月はアーカイブが視聴できますので、アーカイブにて、お会いしましょう。

 

問われているのは、排除

 記事を開いてくださりありがとうございます。この記事は、トランスジェンダーに対する差別や排除って、そもそもどういうこと?どうすれば差別や排除をなくしていける?と疑問に思っている方のために書きました。この記事を書いているわたし(高井ゆと里)は、昨年『トランスジェンダー問題』という本を翻訳し、今年は『トランスジェンダー入門』という新書を出す予定です。後者は周司あきらさんとの共著で7月の発売です。

 これからいくつかのステップに分けて、トランスの人たちが生きやすくなる社会のあり方について、議論をします。とはいえ、わたしはトランスジェンダーのコミュニティの代表ではありません。当事者の方たちにも色々な考えがあり得るでしょう。ですから、これはあくまでわたしが皆さんと共有したいと思っている議論に過ぎません。しかし、できるだけ多くの人と共有できる前提から話を進めたつもりです。ですから、読み進めていくうちに???が湧いたときは、記事の前半で紹介した前提に立ち戻ってみてください。わたしはあなたとこの議論を共有できると信じています。

 記事は2つのパートに分かれています。前半では「そもそも社会にトランスジェンダー排除が存在するとは?」という話をします。後半は、そうした排除の一例、そして排除がなくなる社会のあり方を考察する一例として、公衆トイレの例を挙げます。

社会に排除があるとはどういうことか

 はじめに2つの前提を示します。これは、最低限みなさんと共有したいことです。

前提1:トランスジェンダーの人たちは存在している

前提2:社会はシスジェンダー向けにできている

 【前提1】は、とてもシンプルなことを言っています。トランスジェンダーの人たちは、この社会に存在しています。現在だけでなく、歴史的にも、トランスの人たちは存在し続けてきました。興味のある方は各種のデータを参照してください。だいたい人口の0.4~0.7%くらいが、トランスジェンダーの人たちです。つまり、生まれたときに「あなたはこちらの性別の人間として生き、そして死んでください」という社会からの期待・命令に応えることができず、そうでない性別として自分のアイデンティティを持ったり、またそうでない性別の人間としての人生を自分のものとしていく人たちです。1%未満ですから確かに少数ですが、しかし確実に存在しています。もし、この事実を受け入れない人がいるのなら、わたしはあなたを説得する術を持ちません、あなたはきっと、現実を受け入れることよりも自分の偏見やイデオロギー固執したいのでしょうから、申し訳ないですがお引き取りください。この記事は(空想ではなく)現実の社会のあり方を考えるために、書かれているからです。

 他方で【前提2】は、ちょっとイメージが湧きづらいかもしれません。そこで、例えば就労における女性差別のことを考えてみてください。その昔、日本の企業では性別によって定年(退職する年齢)を分けているところが沢山ありました。よくあったのが「女性25歳定年」です。なぜ25歳かというと、どうせ結婚して退職するだろうと思われていたからです。信じられませんよね?でも、それが当然だと思われていた社会だったのです。
 現在でも、世の中には厳然とした性差別が存在します。雇用における女性差別も、存在し続けています。そうした差別の現れ方は多岐にわたりますが、例えば今挙げた性別別定年制の背後にはっきり見られるのは、職場という場所がそもそも「男性社員」しか想定していないという「デフォルト」の偏りです。デフォルトが「男性」であるため、妊娠や出産・子育てといったライフイベントを経験することのある人たち――つまり「女性」――は、会社にいないことになっているのです。
 性別に応じて任せる仕事を変えるという慣行も、そうした「デフォルト」の偏りに由来します。男性の若手社員には、責任ある仕事をする上司の近くで経験を積ませる一方で、若手の女性社員にはお茶くみやコピーとりしか任せない。これは紛れもないハラスメントであり差別ですが、未だにそうした慣行のある会社はあるでしょう。そのとき上司は「女性は結婚したり出産したりで、退職するかもしれないから、責任ある仕事は任せられない」などと言うかもしれません。これも「デフォルト」の問題です。結局、そうして「デフォルト」の会社員像から外れているとされた女性たちは、経験や実績を積む機会を奪われ、気づけば「実力と実績で”客観的に比較して”」男性に後れをとることになります。この会社でどちらの性別の人が昇進するかは明らかでしょう。

 この「デフォルト」の発想を、トランスジェンダーの人たちに適用してみます。すぐに分かると思いますが、今の社会は、トランスジェンダーではない人たち、つまりシスジェンダーの人たちを「デフォルト」としています。生まれたときに、その子どもの外性器の見た目に基づいて割り振った性別(女or男)で、死ぬまで生きていくのが当然だとされています。「男の子」や「女の子」として育てられたり、学校でそうして扱われたりすることによって、自分の存在やアイデンティティが著しく否定される。そうした子どもの存在は、多くの場所で想定されていません。住民票や戸籍に登録された性別とは異なる実態を生きている人がいることは、大学でも、就職活動でも、企業でも、まだまだ想定されていません。社会全体の「デフォルト」がシスジェンダーだからです。

 こうした社会のあり方は「シスジェンダー向けに設計されている」と言うこともできます。社会の 0.4~0.7% の人は、本当はトランスジェンダーなのですが、にもかかわらず、世の中の「デフォルト」がシスジェンダーであるため、多くの施設や、人々の価値観は、シスジェンダーにとって都合がよいようにもっぱらデザインされています。

 こうした「デフォルト」の意味が理解できるようになると、次のことが分かるようになります。男性社員をデフォルトとする会社(男性社員のために設計された会社)で、女性社員が差別を受けるように。健常者をデフォルトとする学校(健常者のために設計された学校)で、障害のある児童・生徒たちが差別を受けるように。シスジェンダーをデフォルトとする社会で、トランスの人たちは構造的に排除を経験しています。【小括】としてまとめておきましょう。

小括1:トランスジェンダーの人たちは構造的に社会から排除されている

 これは【前提1】【前提2】から導かれることです。排除が「構造的」であるというのは、特定の個人による悪意や攻撃とは別の次元で、そもそも「いないこと」にされており、そのせいで不当に色々なものを奪われている、ということです。

 例えば、施設・制度のバリアフリー化が進みつつあるとはいえ、現在の社会の多くのスペースは、いまだに特定の身体や心の機能、かたち・見た目の人を「デフォルト」としています。そのせいで、自治体からの避難情報がろう者の人に届かなかったり、車いすユーザーの人が公共交通機関を利用するのに多大な不便を強いられたり、見た目が多数派と違う人が攻撃的な視線を浴びたり、認知機能に障害のある人が投票権を行使できなかったりしています(代筆の不可など)。こうした機会の剥奪や不便益は、特定の個人の悪意や攻撃によるものではありません。社会の「デフォルト」に初めから偏りがあるために、わざわざ追い出そうとしなくても、障害のある人たちは社会から自然と排除されがちなのです。

 トランスジェンダーの人たちの排除が「構造的」であることも、同じように理解できます。そもそも「デフォルト」の市民像と違っているために、つまりは社会に偏りがあるために、トランスの人たちは社会から排除されがちなのです。

 とはいえ、ここで1つ大切なことを確認しておきましょう。3つ目の前提です。

前提3:トランスジェンダーの状況は多様である

 トランスの人たちは社会から構造的に排除されている。そのように述べました。しかし、トランスジェンダーの人たちの中には、丸っきりシスジェンダーの人と同じように生活している人も沢山います。いわば「埋没」している人たちです。

 トランスの人の中には、生まれたときの割り振りとは異なる性別の方へと自分の人生を寄せていく(つまり性別移行をする)人たちがおり、そうした人のなかには、反対側の性別ですっかりシスジェンダーに埋もれて生きている人がいます。この事実は、絶対に忘れてはいけません。

 もちろん、全てのトランスの人が「反対側の性別へと」性別移行を望むわけではありませんし、そうした移行を望むすべての人が、首尾よく「埋没」できるわけでもありません。そういうわけで、トランスの人たちの状況は、多種多様です。例えば、同じトランス女性という集団ひとつとっても、女性としてすっかり社会に埋もれている人もいれば、(本人にとっては本意ではないが)周囲から男性として見なされたり、扱われたりしている状況の人もいます。そして当然ながら、性別移行のプロセスを進んでいる途中の人も、たくさんいます。色んな状況の人がいるのですね。

 この【前提3】と、先ほどの【小括1】を組み合わせると、次のように推論を進めることができます。

【小括2】程度の差はあれ、トランスの人たちに生活上のコストがのしかかっている

 例えば、戸籍上の性別表記も書き換えて、周囲からの認識としてもすっかり移行後の性別に馴染んでいるトランスの人たちがいます。そうした人たちも依然として、自分の過去を管理・秘匿するというコストを払う必要はあります。とはいえ、トランスジェンダーという集団の中では、そうした人たちは構造的な排除を経験する「度合」が相対的に低いと言うことができます。

 他方で、性別移行の途中であったり、あるいは「デフォルトの女性像」や「デフォルトの男性像」からの距離があると見なされるようなトランスジェンダーの人たちは、そうした構造的な排除を受ける「度合」が強まります。じろじろ見られたり、侮辱的な質問をぶつけられたり、採用拒否にあったり、ハラスメントを受けたり、使えるトイレがなくて大学に通えなくなったりします。残念ながら、よくある現実です。

 【小括1】で見たように、トランスの人たちは社会から構造的に排除されがちです。その身体の特徴や、ぱっと見の外見、過去の来歴などが「デフォルト」の人たちとしばしば異なっているからです。もちろん、トランスの人の状況は多様ですから、そうした排除を受けにくい状況の人もいます。しかし依然として多くのトランスの人たちは、自分たちの存在をそもそも想定していない排除的な社会のなかで、生きざるを得ません。

 だからこそ、多くの「コスト」をトランスの人たちは払い続けています。心を押し殺して、「男装」や「女装」をして職場に行きます。いじめを受けることを恐れて、学校を去ります。外出中ずっと多目的トイレのある場所を計算しながら移動します。性別移行のために、退職します。法の求めに応じて手術をするために、百万円以上かけて見たこともない子宮や卵巣をとります。個々人が、コストを払い続けるはめになっているのです。そのコストは、社会の「デフォルト」であるシスジェンダーならば払わなくてよかったはずのコストであり、人生の中で積もりに積もっていきます。

 これが、トランスの人たちを苦しめる「差別」や「排除」です。トランスの人たちの貧困率は一般集団の3倍弱です。失業率はだいたいどこの国でも3倍です。深刻な心理的苦痛を感じている人の割合は、シスの異性愛男性の2~3倍もいます。トランス女性の3割はうつ病です。どこの国でも、4割くらいのトランスの人に自殺未遂の経験があります。私たちの社会は、トランスジェンダーの人たちに対してそもそも排除的であり、そもそも差別的です。これは、構造的な問題なのです(以上のデータの出典を拾いたい人は、わたしのブログの過去の記事を読んでください)。

 とはいえ、忘れてはいけないこともあります。それは、トランスの人たちへの排除が構造的であるとしても、現状の社会で払わされているコストの「程度」の大小や、コストが背負わされる仕方は、その人の(トランスであること以外の)属性や状況によって、大きく異なっているということです。例えば、非定型発達であることによって定型発達者中心の職場から排除され、結果として経済的に余裕がなく、望む仕方での性別移行を進められない…、といった人がいます。トランスジェンダーであることに加えて、障害がある、病と共に生きている、民族的・人種的マイノリティである…、といった状況にあることで、その人が「トランスジェンダーとして」払わされるコストは加速度的に増大することがあるのです。そうした意味でも、トランスの人たちの状況は、まさしく多様なのです。

誰も排除されてはならない

 当たり前のことを言います。誰も排除されてはなりません。これは大原則です。公共空間が女性に対して排除的ならば、その空間は変わらなければなりません。学校や公共交通機関が障害者にとって排除的ならば、それらの空間は変わらなければなりません。社会の「デフォルト」と違っているという理由で、そうでなければ背負わなくてもよかったはずのコストをマイノリティ集団の個々人に押し付けるのは、間違っています。そのコストを取り除くために、社会が変わらなければならないのです。

 エレベーターの無い駅。足で歩く健脚の利用者だけが「デフォルト」である駅。多くの人が排除されています。例えば車いす生活者の人は、駅の階段を運んでもらうために、何日も、何時間も前に鉄道会社に連絡し、介助者に頭を下げる必要があるかもしれません。そのコストは、その人個人に押し付けてよいはずのものでは本来ありません。もちろんエレベーターを設置するにはコストがかかります。でも、そのコストは社会全体で払わなければならない。誰かが構造的に排除される社会のあり方は、間違っているからです。

 トランスの人たちの状況も、同じです。今の社会は、多くの場所で、多くの文脈で、まだまだトランスの人たちを排除するようにできています。【小括1】で述べた通りです。だからこそ、次のように言わなければなりません。

結論:トランス排除的な社会のあり方は変わらなければならない

 ここまでの議論をふり返っておきましょう。トランスジェンダーの人たちは、確かに存在しています【前提1】。しかし社会の「デフォルト」はシスジェンダーであり、社会はシスジェンダー向けに作られています【前提2】。その結果、この社会は構造として、トランスジェンダーの人たちを色々な場所から排除するよう機能しています【小括1】。もちろんトランスの人たちの状況は多様であり、移行後の性別ですっかり埋もれている人から、移行前の性別としての生活を続けている人まで、様々な人がいます。もちろん、性別移行が自分とは無縁だと感じている(ノンバイナリーの)人もいます【前提3】。ですから、排除を経験する「度合」や「仕方」は様々です。とはいえ社会全体がシスジェンダー向けにできている以上、程度の差こそあれ、トランスの人たちは生きていくうえで不断に「コスト」を払い続けています【小括2】。でも、そのコストは本来はトランスの人たち個々人に押し付けてよいものではありません。社会から排除されてよい人などいません【大原則】。トランス排除的な社会のあり方は、変わるべきなのです【結論】

トイレに応用する

 以上で、わたしの原則的な議論は終わりです。ここからは、少なくない人が関心を持っている(持ってしまっている)トイレの話をします。トランスジェンダーの人たちの困りごとは何ですかと聞かれて、わたしはいつも「貧困です」と答えています。そして貧困は、就職差別やメンタルヘルスの悪化とも密接に関わっています、とも。ですからトランスジェンダーに対する差別や排除をなくすという文脈で、トイレの話ばかりされるのは、わたしとしてはとても腹立たしいことです。しかし、せっかく原則的な議論を確認してきたばかりですので、トイレに話を応用して、目指していくべき社会の姿の一例を皆さんと共有できればと思います。ただし、公共の場所にあるトイレといっても、その性格は千差万別です。自分の事情を話せるような職場や学校のトイレなのか。駅や商業ビルのような、出会う人誰もが赤の他人でしかない場所のトイレなのか。話はまったく変わってきます。そこで、以下では「公共の場所のトイレ」として思い浮かべる人が多いと思われる、後者の状況に話の焦点を絞ります。つまり、そのトイレですれ違う人、誰もが赤の他人であるような場所のトイレです。

トランスの人たちはどうしているのか?

 さて、そもそも公衆トイレとは何をする場所でしょうか。トイレは、排せつをしたり、生理用品を代えたり、肌着を代えたり、子のおむつを替えたり、身なりを整えたり、一息ついたりする場所です。特に、排せつや生理は生きていくうえで避けて通れないものであり、そのため、もし学校や職場、商業施設や公共施設に「トイレが無い」となると、私たちの生活は一気に「詰んで」しまいます。「公共の場のトイレが無い/使えない」というのは、ようするに「その場所に行けない」ことを意味します。公共の場のトイレからの排除は、ですから、社会のかなりの多くの場所からの排除に直結します

 そんななか、トランスの人たちはどのように公共の場のトイレを利用しているでしょうか。先ほど【前提3】で確認したように、トランスの人の状況は多様です。なかにはすっかり反対側の性別で生きている人がおり、そうした人たちは、当たり前ですが学校や駅のトイレ、職場や商業施設のトイレなども、移行後の性別のそれを利用しています。ここには、いわゆる「埋没」と言わないまでも、移行後の性別のトイレを自然に使っている人が含まれます。例えば、在学中に男性へと性別を変えて、以降は男性として男子トイレを使用する大学生がいます。彼がトランス男性であることを、友人の何人かは知っているかもしれませんが、問題なく性別別のトイレを使用できるケースです。ただし、ここで重要なのは、彼が学生生活において男子トイレを使っているのは、彼の「性自認が男性だから」ではなく、彼が「男性だから」です。つまり、シスジェンダーの人たちと同じです。このように、すでに男性や女性として生き、男女別のトイレを使っているトランスの人たちの現状を理解するとき、いちいち「性自認」に言及する必要などないのですね。

 トランスの人には、他にも、本当は性別移行をしたいけれども、望みどおりには色々なプロセスが進んでいないと感じ、生まれたときに指定されて以来の性別用のトイレを多くの機会に使っているという人もいます。また、性別移行の進み具合とはべつに、やはり自分がそうでない性別用のトイレを使うのは安全ではない/著しい抵抗感があるといった理由で、公共の場では性別を問わない(ジェンダー不問)トイレのみを使って生きているという人もいます。そこには、少なくないノンバイナリーの人が含まれます。

 注意すべきは、公共の場に「女性トイレ」と「男性トイレ」の2つがあったとして、そもそも選択肢は存在しないということです。すっかり女性として生きていたり、女性として自然に認識される状態のトランスの人にとって、大学や会社の女性トイレを使う以外に、この場合選択肢はありません。それは、シスジェンダーの女性にとって選択肢がないのと同じです。

 ジェンダー不問トイレだけを使っている人にとっても、同じです。とくに性別移行に踏み出したトランスの人たちや、男女の性別で分けられたトイレを安全に使えないと感じているノンバイナリー・ジェンダークィアの人たちにとって、旧来の「男:女」別トイレは、そのどちらについても使用が難しくなることがよくあります。その場合「ジェンダー不問トイレ」だけが唯一の選択肢となり、出先にそうしたトイレが無く、「女性トイレ/男性トイレ」しかないとすると、実質的には選択肢が「無い」ことになります。いずれにせよ、状況はどうあれ、トランスの人たちにトイレの選択肢は存在していません。そしてそれは、繰り返しますがシスジェンダーの人たちに選択肢が無いのと同じです。

トイレからの構造的な排除

 とりわけ、最後のような状況にある人たちの抱えている困難が、ここでは重要です。移行後の性別で自然に馴染んでいる人たちにとって、既存の「男:女」別トイレの存在は、べつに生活の障壁にはなりませんが、そうもいかない人が、トランスジェンダーの人には多くいるからです。

 ここで【小括1】を思い出してください。この社会のデフォルトはシスジェンダーであり、トランスの人たちは構造的な排除を受けているのでした。そうした排除は、ことトイレについて言えば、男女別トイレばかりが量産されるという、設備の問題という形で現れます。こうした設備は現在のところ、「ふつうの男性の見た目」と「ふつうの女性の見た目」についての私たちの共通認識(ジェンダー規範)を用いて、運用・利用されています。なんとなく標準的な男性な見た目の人であれば、男性トイレを使いやすく、標準的な女性の見た目の人であれば、女性トイレを使いやすい、ということです。こうした規範も、つまるところ、トランスの人たちをトイレから排除するように機能しています。もちろん、このような運用法において本質的な、性別に典型的な見た目についてのジェンダー規範が、これから緩められるべきことは言うまでもありません。

 こうした「デフォルト」の社会のあり方は、しばしばそのように典型的・標準的だとされる男・女の見た目や振る舞い方と適合しないこともある、トランスジェンダーの人たちを困らせています。何人かのトランスの知り合いがいれば、すぐに気づかされるでしょう。多くの人が、公共の場に作られた既存のトイレの仕組みによって社会参加を妨げられています。アクセシブルな「ジェンダー不問トイレ」がないために、大学に通えない。旅行先にジェンダー不問トイレを備えたコンビニがあるかどうか不安で、友人からの誘いを最終的に断った。そういった人たちがいます。思い出してください。公共の場におけるトイレからの排除は、社会の多くの場所からの排除につながってしまうのでした。学びの機会を奪われ、仕事の機会を奪われ、遊びの機会を奪われ、図書館を使う機会を奪われ…。排除は構造的に出現します。

トランスの人がトイレから排除されてはならない

 このように、男女別トイレばかりを設置することによって、少なくないトランスの人たちへの構造的な排除が成立してしまっている以上、私たちが社会全体で求めていくべきことは明らかです。先に見た【結論】を、トイレに応用してみましょう。

結論:トランス排除的な社会のあり方は変わらなければならない

結論の応用:ジェンダー不問トイレの設置を進める必要がある

 社会はシスジェンダー向けにできています。あなたの通っている高校や大学に、男女別トイレはいくつありますか。街に遊びに出かけて、半径500mの範囲に、男女別トイレはいくつありますか。考えてみてください。いま仮に、その半径500mに、すでに100個の男女別トイレがあったとして、その2つがこれからジェンダー不問トイレになるとします。そのことによって、あなた(ここでは男女別トイレの使用で困っていない人を想定しています)はどれくらい困りますか? 100個あった選択肢は、依然として100個のままです。仮に、ジェンダー不問トイレをどうしても使いたくないというのであれば、選択肢は98個に減りますが、それはほとんど誤差の範囲です。しかし、ジェンダー不問トイレを日常的に必要としている人にとっては、違います。その半径500mのエリアに、これまでは1つか2つしか「ジェンダー不問トイレ」がなかったとします。ここに、新たに2つのジェンダー不問トイレができる。そうするとこれは、ジェンダー不問トイレを日常的に必要とする人にとっての選択肢が2倍、3倍になることを意味します。排除されていた人を、街に迎え入れることができる。(話は逸れますが、駅や商業施設の女性用トイレはたいてい混み過ぎですから、もっと数を増やすべきです)

 もちろん、トイレの作り方を変えていくのには、コストがかかります。改築にはコストがかかります。新たにデザインを検討しなければならなくなることもあるでしょう。コストがかかります。「作ったけれども誰も使わない誰でもトイレ」にならないようにするためには、利用者が他者からの望まない注目を浴びたり、スティグマを負わされたりしないよう、配慮する必要があります。そして、安全な場所であることも大切です。丁寧に丁寧に、利用者のニーズを聞き取りつつ、トイレの建て方を考える必要があります。とてもコストのかかるプロセスです。しかし【小括2】を思い出してください。これまでは、社会から構造的に排除されてきた人たちが、個々人で、恒常的にコストを払い続けてきたのです。そのコストは、今度は社会が代わりに払うべきではありませんか。社会から排除されてよい人などいません。

 車いす生活者の人が駅を利用できるようにするためには、エレベーターの設置というコストがかかりました。しかしそのコストは、車いす生活者の人以外も人も含む、社会全体で負担すべきです。誰も排除されてよい人などいないからです。トイレも同じです。既存のトイレが、「デフォルト」ではない誰かにとって排除的であったのなら、その構造的排除はなくならなければならない。そして、その排除をなくすためのコストは、社会全体で背負うべきなのです。

トランスの人をトイレから排除してはならない

 これまで、トランスの人たちの排除をなくすための方策として、応用的にジェンダー不問トイレの増設を説いてきました。しかし【前提3】で述べたように、トランスの人の状況は多様です。そして、現実にすでに多くのトランスの人が、移行後の性別の人として生き、公共の場でも同様に、そちらの性別用トイレを使って生きています。

 SNS上などでは、トランスジェンダーの人たちを、トランスジェンダーであるという理由のみに基づいて、社会から排除しようとする意見が見られます。それは、こと公共の場のトイレについては、トランスジェンダーの女性を引き合いに出して、次のような主張の形をとっています。

問題のある主張:トランスジェンダーの女性は、トランスジェンダーであることのみを理由として、公共の場の女性トイレの使用を禁じられるべきである

 これは、悪質な差別的主張です。少なくないトランスの女性が、すでに公共の場の女性トイレを使用しつつ生活していますし、これからもそうするでしょう。にもかかわらずこの主張は、そうした女性たちに対し、「あなたたちは出生時の割り当てが女性ではないから」とか「多くの(”ふつうの”)女性とは異なる身体的特徴をもっていた/もっているから」といった理由で、トイレの使用を新たに禁じようとしています。

 もしこれが、「HIV陽性の女性は女子トイレを使うべきでない」という主張だったらどうでしょうか。その差別性は一目瞭然です。トランスの女性についても、同じことが言えます。【前提3】を繰り返しますが、トランスの人たちの状況は多様です。公共の場で女性トイレを使用しつつ生きている人は、すでに山のようにいます。もし、その事実を知らなかったのであれば、それは単なる皆さんの無知です。そうして生きている少なからぬトランスの女性たちを、彼女たちがトランスジェンダーであるというたったそれだけの理由に基づいて、女性トイレから追い出せと主張しているのですから、これは恐ろしく現状改変的で、差別的な主張であるということができます。

 加えてこれは、それが求める結果が現実離れしているという点でも、ほとんど取り合うに値しない主張です。この主張の支持者は、公共の場の女性トイレを使っている女性たちの中から、出生時の割り当てが「女性」ではない人についてのみ、そのトイレの使用を禁止しようと言っているようですが、いったい何を目指しているのでしょうか? トイレの入り口で全員の下着を下ろしますか?染色体の検査結果の証明書の携帯を全ての人に義務付けますか?まったく現実的ではなく、意味の分からない世界、少なくともわたしにとっては、現実世界よりもはるかにディストピアです。

 私たちの社会には、いまだにHIVポジティブ(陽性)の人への差別が存在しますが、かつては「HIV陽性者と同じトイレを使いたくない」という意見が、さも「真っ当な」主張であるかのように語られていたことがありました。しかし、私たちはそれが真っ当な主張でないことを知っています。トランスジェンダーの女性たちについても、事情は同じです。すでに多くのトランスの女性が、女性として生きており、皆さんの気づかない仕方で、あるいは周囲の人たちの理解も得ながら、自然に男女別トイレを利用しつつ生きています。彼女たちがトランスジェンダーであるという理由のみに基づいて、彼女たちを公共の場から排除しようとする意見には、はっきりなんの正当性もありません。

 この記事では、【大原則】として「誰も排除されてはならない」ということを示しています。もしあなたが、この原則に賛同できないなら、わたしはあなたを説得する手立てを持ちません。しかし、もしこの大原則に賛同できるなら、このようにわざわざトランスの女性たちを市民社会から排除しようとする主張には、一緒に「NO」を言ってください。

問われているのは、排除

 ここまで読んで、もしかすると混乱している人もいるかもしれません。後半のパートについて、簡単に整理しておきます。

T1:ジェンダー不問トイレを増設しなければならない

T2:その女性がトランスジェンダーであるという理由のみに基づいて、その女性の女性トイレの使用を禁じることは許されない

 T1【結論の応用】と同じです。もちろんこれは、今までのような男女別トイレを全廃しろ、という主張ではありません。当たり前ですね。他方でT2は、先の【問題のある主張】が差別的であるという確認です。いずれも、誰も社会から排除されてはならないという【大原則】から導かれます。T1は構造的な排除をなくすことを主張しており、T2は積極的な差別を禁じています。そして、当たり前ですが両者は両立します。なぜなら【前提3】で見たように、トランスジェンダーの状況は多様だからです。

 もしかすると、トランスコミュニティが求めることとして、次のようなことを想定している人もいるかもしれません。

T3:トランスジェンダーの人は、そのジェンダーアイデンティティ性自認)に沿った仕方で全員が既存の男女別トイレを使えばよく、ジェンダー不問トイレの増設など必要ない

わたしは、この主張に賛同しません。なぜなら、既存の男女別トイレの設置と、その運用方法は、シスジェンダーの人々を「デフォルト」として生み出されてきたものであり、そもそもがトランス排除的なものだからです。

 現在の公共的な場のトイレの運用は、先にみたように「典型的な男性の見た目」や「典型的な女性の見た目」に近い人ほど利用が容易であるという、(シスジェンダーの健常者前提の)ジェンダー規範に基づいてなされています。だからこそ、本人の性自認のみに沿うだけでは既存の性別別スペースを利用することができないことを、トランスの人たちは知っています。誰よりも、知っています。ですから結局のところ、「アイデンティティ性自認)に沿ったトイレを使えばよいだけだ」というT3の主張は、トランスの人たちが今まさに公共空間で感じさせられている視線の不安(凝視)や暴力の危険を無視した、現実離れした主張になっています。

 また、先に挙げた男子大学生を思い出してほしいのですが、トランスの人が現状の社会でどのように男女別のトイレを使っているのかを理解するとき、「性自認」がそれ単独で意味を持つことはありません。重みをもっているのは、(その場において)その人がどのような性別であるかということです(※ただし、今は省略しますが性別は複雑な現象です)。そして、これからもそれはそうでしょう。そのため、建物としてのトイレの構造については全く変えないまま、「性自認」を新たなトイレ利用のファクターとして重視しさえすればトランスの人たちの困りごとがなくなるはずだ、というT3のビジョンは、トランスの人たちに対する構造的な排除を減らし、社会を変えるための青写真としては、現実と上手く接続しません。実際、トランスコミュニティのニーズをまともに考えたことのある人で、そうしたビジョンを示してきた人は殆どいないはずです。

 【小括1】から継続的に確認してきたように、トランスの人たちは現時点ですでに、社会からの排除の対象となっています。「デフォルト」ではないからです。ですから、社会におけるジェンダー規範が何ら変わらないまま、T3の主張に沿って公共の場で何らかのトラブルになったりした場合、圧倒的に多くのケースにおいて、嫌な目に遭うのはトランスの人です。警察も警備員もトランスの人たちに優しくはありません。繰り返しますが、 T3の主張はトランスの人たちが今現実に払わされている「コスト」を無視した主張になっており、多くのトランスの当事者たちによっても支持されていません。当たり前ですが、周囲と継続的に摩擦を起こすことを望んでいる人などいません。現在の社会のジェンダー規範が大きく変わることのないまま、「性自認」だけを空間利用の準拠点にすることは、トランスの人たちを絶えざる摩擦に投げこむ結果にしかならず、社会からの排除をなくすための現実的なビジョンになり得ないのです。

 加えてT3の主張は、現状の男女別のトイレを使用することに著しい抵抗を感じている、ノンバイナリーやジェンダークィアの人たちの存在を無視しています(※もちろん、全てのノンバイナリーやジェンダークィアの人がそのように抵抗を感じているわけではありません)。既存の男女別トイレの設計から、そうしたトランスの人たちが無視されてきた以上、現状のトイレの環境を見直すことは、コミュニティにとって重要な課題となるはずです。

 以上のようにわたしは、シスジェンダー基準で作られてきた公共スペース(公共の場のトイレ含む)に、いわば”無理やり”すべてのトランスの人を押し込めることがコミュニティにとっての目標となるべきだ、とは考えていません。もちろん、社会から排除されて当然だ、というのでもありません。そうではなく、シスジェンダー基準で作られてきた設備や制度、ルールそのものを、1つ1つ地道に変えていく必要があると考えています。なによりもまず、構造的な排除を減らさなければならない。そして、トランスの人々に対する排除を社会の責任として減らしていくためには、「性自認」や「心の性」を云々するよりも、建物の構造を変えたり、制服の選択肢を増やしたり、制服をなくしたり、書類の性別欄をなくしたりといった、もっとドライな改変が必要なのです。

 言うまでもなく、わたしのこうしたスタンスは T2と矛盾しません。誰かがトランスジェンダーであるという、たったそれだけの理由で、誰かを特定の場所から排除しようとする、そうした現実改変的な排除の主張には、わたしは反対します。そして例えば、「トランスジェンダー女性は全員が多目的(ジェンダー不問)トイレだけを使用せよ」というのは、そうした現状改変的な排除の一例であり、支持され得ません。すでに成立している社会の仕組み・あり方に適合的なトランスの人は、これまでも、これからも存在し続けるでしょう。周囲の理解を得つつ生きている人も、すでにたくさんいます。そうした人たちは、それはそれで、生きていけばよい。そうしたトランスの人たちをわざわざ狙い撃ちにして「排除せよ」と主張するのは、許されないことです。

 まとめておきます。わたしはT1T2を主張し、擁護しましたが、T3については賛同しません。そしてわたしは、トランスジェンダー当事者の人たちも含めて、多くの読者たちと、この立場を共有できると信じています。

 これで、わたしの議論は終わりです。

 

 …ただ、後半のトイレのことについては、紙幅の都合と議論の単純化のために、いくつも大切なことに触れずに終えてしまいました。例えば、以下のようなことです。

・公共の場のトイレと言っても、駅・公園・商業施設・会社・大学・学校などで、周囲の人との関係(知り合いの有無やカミングアウトの有無)、周囲の人の認識は変わり得る。それゆえ「公共の場のトイレ」と一括りにはできない。今回は、周囲に誰も知り合いがいない駅や商業施設のトイレを念頭に議論したが、見知った人たちと空間を共有することのあるトイレについては、個々人の状況や周囲の人との人間関係に依存する面が大きいため、原則的な議論をすることは不可能。

・公共の場のトイレから排除されてきたのは、トランスジェンダーの人たちだけではない(その代表は、障害のある人や子どもたち)。今回は「ジェンダー不問トイレ」の増設という積極的な改変の必要を提示したが、これから作られるトイレは、そうして排除されてきた他の集団にとっても、当然よりアクセシブルでなければならない。むしろ、そうした排除を経験している人たちで共に知恵を出し合うことによってしか、よりよい公共のトイレのデザインを考えることはできない。

・「典型的に女性的な見た目の人間でなければ女性トイレを使ってはならない」という主張を掲げている人がいるが、そのようにジェンダー規範を強化するような主張には(フェミニスト的に)賛同できない。

 これらについては、また今度時間があれば文章を書きます。ここまで長い記事をお読みくださりありがとうございました。この記事が、皆さんの思考を整理し、ともにトランスジェンダーの人たちへの排除をなくすための取り組みに加わっていただくきっかけになることを願っています。今回は(やむを得ず)トイレについて後半では扱いましたが、トランスの人たちに対する構造的な障壁は多岐にわたっています。そのことはどうか忘れないでください。