問われているのは、排除
記事を開いてくださりありがとうございます。この記事は、トランスジェンダーに対する差別や排除って、そもそもどういうこと?どうすれば差別や排除をなくしていける?と疑問に思っている方のために書きました。この記事を書いているわたし(高井ゆと里)は、昨年『トランスジェンダー問題』という本を翻訳し、今年は『トランスジェンダー入門』という新書を出す予定です。後者は周司あきらさんとの共著で7月の発売です。
これからいくつかのステップに分けて、トランスの人たちが生きやすくなる社会のあり方について、議論をします。とはいえ、わたしはトランスジェンダーのコミュニティの代表ではありません。当事者の方たちにも色々な考えがあり得るでしょう。ですから、これはあくまでわたしが皆さんと共有したいと思っている議論に過ぎません。しかし、できるだけ多くの人と共有できる前提から話を進めたつもりです。ですから、読み進めていくうちに???が湧いたときは、記事の前半で紹介した前提に立ち戻ってみてください。わたしはあなたとこの議論を共有できると信じています。
記事は2つのパートに分かれています。前半では「そもそも社会にトランスジェンダー排除が存在するとは?」という話をします。後半は、そうした排除の一例、そして排除がなくなる社会のあり方を考察する一例として、公衆トイレの例を挙げます。
社会に排除があるとはどういうことか
はじめに2つの前提を示します。これは、最低限みなさんと共有したいことです。
前提1:トランスジェンダーの人たちは存在している
前提2:社会はシスジェンダー向けにできている
【前提1】は、とてもシンプルなことを言っています。トランスジェンダーの人たちは、この社会に存在しています。現在だけでなく、歴史的にも、トランスの人たちは存在し続けてきました。興味のある方は各種のデータを参照してください。だいたい人口の0.4~0.7%くらいが、トランスジェンダーの人たちです。つまり、生まれたときに「あなたはこちらの性別の人間として生き、そして死んでください」という社会からの期待・命令に応えることができず、そうでない性別として自分のアイデンティティを持ったり、またそうでない性別の人間としての人生を自分のものとしていく人たちです。1%未満ですから確かに少数ですが、しかし確実に存在しています。もし、この事実を受け入れない人がいるのなら、わたしはあなたを説得する術を持ちません、あなたはきっと、現実を受け入れることよりも自分の偏見やイデオロギーに固執したいのでしょうから、申し訳ないですがお引き取りください。この記事は(空想ではなく)現実の社会のあり方を考えるために、書かれているからです。
他方で【前提2】は、ちょっとイメージが湧きづらいかもしれません。そこで、例えば就労における女性差別のことを考えてみてください。その昔、日本の企業では性別によって定年(退職する年齢)を分けているところが沢山ありました。よくあったのが「女性25歳定年」です。なぜ25歳かというと、どうせ結婚して退職するだろうと思われていたからです。信じられませんよね?でも、それが当然だと思われていた社会だったのです。
現在でも、世の中には厳然とした性差別が存在します。雇用における女性差別も、存在し続けています。そうした差別の現れ方は多岐にわたりますが、例えば今挙げた性別別定年制の背後にはっきり見られるのは、職場という場所がそもそも「男性社員」しか想定していないという「デフォルト」の偏りです。デフォルトが「男性」であるため、妊娠や出産・子育てといったライフイベントを経験することのある人たち――つまり「女性」――は、会社にいないことになっているのです。
性別に応じて任せる仕事を変えるという慣行も、そうした「デフォルト」の偏りに由来します。男性の若手社員には、責任ある仕事をする上司の近くで経験を積ませる一方で、若手の女性社員にはお茶くみやコピーとりしか任せない。これは紛れもないハラスメントであり差別ですが、未だにそうした慣行のある会社はあるでしょう。そのとき上司は「女性は結婚したり出産したりで、退職するかもしれないから、責任ある仕事は任せられない」などと言うかもしれません。これも「デフォルト」の問題です。結局、そうして「デフォルト」の会社員像から外れているとされた女性たちは、経験や実績を積む機会を奪われ、気づけば「実力と実績で”客観的に比較して”」男性に後れをとることになります。この会社でどちらの性別の人が昇進するかは明らかでしょう。
この「デフォルト」の発想を、トランスジェンダーの人たちに適用してみます。すぐに分かると思いますが、今の社会は、トランスジェンダーではない人たち、つまりシスジェンダーの人たちを「デフォルト」としています。生まれたときに、その子どもの外性器の見た目に基づいて割り振った性別(女or男)で、死ぬまで生きていくのが当然だとされています。「男の子」や「女の子」として育てられたり、学校でそうして扱われたりすることによって、自分の存在やアイデンティティが著しく否定される。そうした子どもの存在は、多くの場所で想定されていません。住民票や戸籍に登録された性別とは異なる実態を生きている人がいることは、大学でも、就職活動でも、企業でも、まだまだ想定されていません。社会全体の「デフォルト」がシスジェンダーだからです。
こうした社会のあり方は「シスジェンダー向けに設計されている」と言うこともできます。社会の 0.4~0.7% の人は、本当はトランスジェンダーなのですが、にもかかわらず、世の中の「デフォルト」がシスジェンダーであるため、多くの施設や、人々の価値観は、シスジェンダーにとって都合がよいようにもっぱらデザインされています。
こうした「デフォルト」の意味が理解できるようになると、次のことが分かるようになります。男性社員をデフォルトとする会社(男性社員のために設計された会社)で、女性社員が差別を受けるように。健常者をデフォルトとする学校(健常者のために設計された学校)で、障害のある児童・生徒たちが差別を受けるように。シスジェンダーをデフォルトとする社会で、トランスの人たちは構造的に排除を経験しています。【小括】としてまとめておきましょう。
小括1:トランスジェンダーの人たちは構造的に社会から排除されている
これは【前提1】と【前提2】から導かれることです。排除が「構造的」であるというのは、特定の個人による悪意や攻撃とは別の次元で、そもそも「いないこと」にされており、そのせいで不当に色々なものを奪われている、ということです。
例えば、施設・制度のバリアフリー化が進みつつあるとはいえ、現在の社会の多くのスペースは、いまだに特定の身体や心の機能、かたち・見た目の人を「デフォルト」としています。そのせいで、自治体からの避難情報がろう者の人に届かなかったり、車いすユーザーの人が公共交通機関を利用するのに多大な不便を強いられたり、見た目が多数派と違う人が攻撃的な視線を浴びたり、認知機能に障害のある人が投票権を行使できなかったりしています(代筆の不可など)。こうした機会の剥奪や不便益は、特定の個人の悪意や攻撃によるものではありません。社会の「デフォルト」に初めから偏りがあるために、わざわざ追い出そうとしなくても、障害のある人たちは社会から自然と排除されがちなのです。
トランスジェンダーの人たちの排除が「構造的」であることも、同じように理解できます。そもそも「デフォルト」の市民像と違っているために、つまりは社会に偏りがあるために、トランスの人たちは社会から排除されがちなのです。
とはいえ、ここで1つ大切なことを確認しておきましょう。3つ目の前提です。
前提3:トランスジェンダーの状況は多様である
トランスの人たちは社会から構造的に排除されている。そのように述べました。しかし、トランスジェンダーの人たちの中には、丸っきりシスジェンダーの人と同じように生活している人も沢山います。いわば「埋没」している人たちです。
トランスの人の中には、生まれたときの割り振りとは異なる性別の方へと自分の人生を寄せていく(つまり性別移行をする)人たちがおり、そうした人のなかには、反対側の性別ですっかりシスジェンダーに埋もれて生きている人がいます。この事実は、絶対に忘れてはいけません。
もちろん、全てのトランスの人が「反対側の性別へと」性別移行を望むわけではありませんし、そうした移行を望むすべての人が、首尾よく「埋没」できるわけでもありません。そういうわけで、トランスの人たちの状況は、多種多様です。例えば、同じトランス女性という集団ひとつとっても、女性としてすっかり社会に埋もれている人もいれば、(本人にとっては本意ではないが)周囲から男性として見なされたり、扱われたりしている状況の人もいます。そして当然ながら、性別移行のプロセスを進んでいる途中の人も、たくさんいます。色んな状況の人がいるのですね。
この【前提3】と、先ほどの【小括1】を組み合わせると、次のように推論を進めることができます。
【小括2】程度の差はあれ、トランスの人たちに生活上のコストがのしかかっている
例えば、戸籍上の性別表記も書き換えて、周囲からの認識としてもすっかり移行後の性別に馴染んでいるトランスの人たちがいます。そうした人たちも依然として、自分の過去を管理・秘匿するというコストを払う必要はあります。とはいえ、トランスジェンダーという集団の中では、そうした人たちは構造的な排除を経験する「度合」が相対的に低いと言うことができます。
他方で、性別移行の途中であったり、あるいは「デフォルトの女性像」や「デフォルトの男性像」からの距離があると見なされるようなトランスジェンダーの人たちは、そうした構造的な排除を受ける「度合」が強まります。じろじろ見られたり、侮辱的な質問をぶつけられたり、採用拒否にあったり、ハラスメントを受けたり、使えるトイレがなくて大学に通えなくなったりします。残念ながら、よくある現実です。
【小括1】で見たように、トランスの人たちは社会から構造的に排除されがちです。その身体の特徴や、ぱっと見の外見、過去の来歴などが「デフォルト」の人たちとしばしば異なっているからです。もちろん、トランスの人の状況は多様ですから、そうした排除を受けにくい状況の人もいます。しかし依然として多くのトランスの人たちは、自分たちの存在をそもそも想定していない排除的な社会のなかで、生きざるを得ません。
だからこそ、多くの「コスト」をトランスの人たちは払い続けています。心を押し殺して、「男装」や「女装」をして職場に行きます。いじめを受けることを恐れて、学校を去ります。外出中ずっと多目的トイレのある場所を計算しながら移動します。性別移行のために、退職します。法の求めに応じて手術をするために、百万円以上かけて見たこともない子宮や卵巣をとります。個々人が、コストを払い続けるはめになっているのです。そのコストは、社会の「デフォルト」であるシスジェンダーならば払わなくてよかったはずのコストであり、人生の中で積もりに積もっていきます。
これが、トランスの人たちを苦しめる「差別」や「排除」です。トランスの人たちの貧困率は一般集団の3倍弱です。失業率はだいたいどこの国でも3倍です。深刻な心理的苦痛を感じている人の割合は、シスの異性愛男性の2~3倍もいます。トランス女性の3割はうつ病です。どこの国でも、4割くらいのトランスの人に自殺未遂の経験があります。私たちの社会は、トランスジェンダーの人たちに対してそもそも排除的であり、そもそも差別的です。これは、構造的な問題なのです(以上のデータの出典を拾いたい人は、わたしのブログの過去の記事を読んでください)。
とはいえ、忘れてはいけないこともあります。それは、トランスの人たちへの排除が構造的であるとしても、現状の社会で払わされているコストの「程度」の大小や、コストが背負わされる仕方は、その人の(トランスであること以外の)属性や状況によって、大きく異なっているということです。例えば、非定型発達であることによって定型発達者中心の職場から排除され、結果として経済的に余裕がなく、望む仕方での性別移行を進められない…、といった人がいます。トランスジェンダーであることに加えて、障害がある、病と共に生きている、民族的・人種的マイノリティである…、といった状況にあることで、その人が「トランスジェンダーとして」払わされるコストは加速度的に増大することがあるのです。そうした意味でも、トランスの人たちの状況は、まさしく多様なのです。
誰も排除されてはならない
当たり前のことを言います。誰も排除されてはなりません。これは大原則です。公共空間が女性に対して排除的ならば、その空間は変わらなければなりません。学校や公共交通機関が障害者にとって排除的ならば、それらの空間は変わらなければなりません。社会の「デフォルト」と違っているという理由で、そうでなければ背負わなくてもよかったはずのコストをマイノリティ集団の個々人に押し付けるのは、間違っています。そのコストを取り除くために、社会が変わらなければならないのです。
エレベーターの無い駅。足で歩く健脚の利用者だけが「デフォルト」である駅。多くの人が排除されています。例えば車いす生活者の人は、駅の階段を運んでもらうために、何日も、何時間も前に鉄道会社に連絡し、介助者に頭を下げる必要があるかもしれません。そのコストは、その人個人に押し付けてよいはずのものでは本来ありません。もちろんエレベーターを設置するにはコストがかかります。でも、そのコストは社会全体で払わなければならない。誰かが構造的に排除される社会のあり方は、間違っているからです。
トランスの人たちの状況も、同じです。今の社会は、多くの場所で、多くの文脈で、まだまだトランスの人たちを排除するようにできています。【小括1】で述べた通りです。だからこそ、次のように言わなければなりません。
結論:トランス排除的な社会のあり方は変わらなければならない
ここまでの議論をふり返っておきましょう。トランスジェンダーの人たちは、確かに存在しています【前提1】。しかし社会の「デフォルト」はシスジェンダーであり、社会はシスジェンダー向けに作られています【前提2】。その結果、この社会は構造として、トランスジェンダーの人たちを色々な場所から排除するよう機能しています【小括1】。もちろんトランスの人たちの状況は多様であり、移行後の性別ですっかり埋もれている人から、移行前の性別としての生活を続けている人まで、様々な人がいます。もちろん、性別移行が自分とは無縁だと感じている(ノンバイナリーの)人もいます【前提3】。ですから、排除を経験する「度合」や「仕方」は様々です。とはいえ社会全体がシスジェンダー向けにできている以上、程度の差こそあれ、トランスの人たちは生きていくうえで不断に「コスト」を払い続けています【小括2】。でも、そのコストは本来はトランスの人たち個々人に押し付けてよいものではありません。社会から排除されてよい人などいません【大原則】。トランス排除的な社会のあり方は、変わるべきなのです【結論】。
トイレに応用する
以上で、わたしの原則的な議論は終わりです。ここからは、少なくない人が関心を持っている(持ってしまっている)トイレの話をします。トランスジェンダーの人たちの困りごとは何ですかと聞かれて、わたしはいつも「貧困です」と答えています。そして貧困は、就職差別やメンタルヘルスの悪化とも密接に関わっています、とも。ですからトランスジェンダーに対する差別や排除をなくすという文脈で、トイレの話ばかりされるのは、わたしとしてはとても腹立たしいことです。しかし、せっかく原則的な議論を確認してきたばかりですので、トイレに話を応用して、目指していくべき社会の姿の一例を皆さんと共有できればと思います。ただし、公共の場所にあるトイレといっても、その性格は千差万別です。自分の事情を話せるような職場や学校のトイレなのか。駅や商業ビルのような、出会う人誰もが赤の他人でしかない場所のトイレなのか。話はまったく変わってきます。そこで、以下では「公共の場所のトイレ」として思い浮かべる人が多いと思われる、後者の状況に話の焦点を絞ります。つまり、そのトイレですれ違う人、誰もが赤の他人であるような場所のトイレです。
トランスの人たちはどうしているのか?
さて、そもそも公衆トイレとは何をする場所でしょうか。トイレは、排せつをしたり、生理用品を代えたり、肌着を代えたり、子のおむつを替えたり、身なりを整えたり、一息ついたりする場所です。特に、排せつや生理は生きていくうえで避けて通れないものであり、そのため、もし学校や職場、商業施設や公共施設に「トイレが無い」となると、私たちの生活は一気に「詰んで」しまいます。「公共の場のトイレが無い/使えない」というのは、ようするに「その場所に行けない」ことを意味します。公共の場のトイレからの排除は、ですから、社会のかなりの多くの場所からの排除に直結します。
そんななか、トランスの人たちはどのように公共の場のトイレを利用しているでしょうか。先ほど【前提3】で確認したように、トランスの人の状況は多様です。なかにはすっかり反対側の性別で生きている人がおり、そうした人たちは、当たり前ですが学校や駅のトイレ、職場や商業施設のトイレなども、移行後の性別のそれを利用しています。ここには、いわゆる「埋没」と言わないまでも、移行後の性別のトイレを自然に使っている人が含まれます。例えば、在学中に男性へと性別を変えて、以降は男性として男子トイレを使用する大学生がいます。彼がトランス男性であることを、友人の何人かは知っているかもしれませんが、問題なく性別別のトイレを使用できるケースです。ただし、ここで重要なのは、彼が学生生活において男子トイレを使っているのは、彼の「性自認が男性だから」ではなく、彼が「男性だから」です。つまり、シスジェンダーの人たちと同じです。このように、すでに男性や女性として生き、男女別のトイレを使っているトランスの人たちの現状を理解するとき、いちいち「性自認」に言及する必要などないのですね。
トランスの人には、他にも、本当は性別移行をしたいけれども、望みどおりには色々なプロセスが進んでいないと感じ、生まれたときに指定されて以来の性別用のトイレを多くの機会に使っているという人もいます。また、性別移行の進み具合とはべつに、やはり自分がそうでない性別用のトイレを使うのは安全ではない/著しい抵抗感があるといった理由で、公共の場では性別を問わない(ジェンダー不問)トイレのみを使って生きているという人もいます。そこには、少なくないノンバイナリーの人が含まれます。
注意すべきは、公共の場に「女性トイレ」と「男性トイレ」の2つがあったとして、そもそも選択肢は存在しないということです。すっかり女性として生きていたり、女性として自然に認識される状態のトランスの人にとって、大学や会社の女性トイレを使う以外に、この場合選択肢はありません。それは、シスジェンダーの女性にとって選択肢がないのと同じです。
ジェンダー不問トイレだけを使っている人にとっても、同じです。とくに性別移行に踏み出したトランスの人たちや、男女の性別で分けられたトイレを安全に使えないと感じているノンバイナリー・ジェンダークィアの人たちにとって、旧来の「男:女」別トイレは、そのどちらについても使用が難しくなることがよくあります。その場合「ジェンダー不問トイレ」だけが唯一の選択肢となり、出先にそうしたトイレが無く、「女性トイレ/男性トイレ」しかないとすると、実質的には選択肢が「無い」ことになります。いずれにせよ、状況はどうあれ、トランスの人たちにトイレの選択肢は存在していません。そしてそれは、繰り返しますがシスジェンダーの人たちに選択肢が無いのと同じです。
トイレからの構造的な排除
とりわけ、最後のような状況にある人たちの抱えている困難が、ここでは重要です。移行後の性別で自然に馴染んでいる人たちにとって、既存の「男:女」別トイレの存在は、べつに生活の障壁にはなりませんが、そうもいかない人が、トランスジェンダーの人には多くいるからです。
ここで【小括1】を思い出してください。この社会のデフォルトはシスジェンダーであり、トランスの人たちは構造的な排除を受けているのでした。そうした排除は、ことトイレについて言えば、男女別トイレばかりが量産されるという、設備の問題という形で現れます。こうした設備は現在のところ、「ふつうの男性の見た目」と「ふつうの女性の見た目」についての私たちの共通認識(ジェンダー規範)を用いて、運用・利用されています。なんとなく標準的な男性な見た目の人であれば、男性トイレを使いやすく、標準的な女性の見た目の人であれば、女性トイレを使いやすい、ということです。こうした規範も、つまるところ、トランスの人たちをトイレから排除するように機能しています。もちろん、このような運用法において本質的な、性別に典型的な見た目についてのジェンダー規範が、これから緩められるべきことは言うまでもありません。
こうした「デフォルト」の社会のあり方は、しばしばそのように典型的・標準的だとされる男・女の見た目や振る舞い方と適合しないこともある、トランスジェンダーの人たちを困らせています。何人かのトランスの知り合いがいれば、すぐに気づかされるでしょう。多くの人が、公共の場に作られた既存のトイレの仕組みによって社会参加を妨げられています。アクセシブルな「ジェンダー不問トイレ」がないために、大学に通えない。旅行先にジェンダー不問トイレを備えたコンビニがあるかどうか不安で、友人からの誘いを最終的に断った。そういった人たちがいます。思い出してください。公共の場におけるトイレからの排除は、社会の多くの場所からの排除につながってしまうのでした。学びの機会を奪われ、仕事の機会を奪われ、遊びの機会を奪われ、図書館を使う機会を奪われ…。排除は構造的に出現します。
トランスの人がトイレから排除されてはならない
このように、男女別トイレばかりを設置することによって、少なくないトランスの人たちへの構造的な排除が成立してしまっている以上、私たちが社会全体で求めていくべきことは明らかです。先に見た【結論】を、トイレに応用してみましょう。
結論:トランス排除的な社会のあり方は変わらなければならない
結論の応用:ジェンダー不問トイレの設置を進める必要がある
社会はシスジェンダー向けにできています。あなたの通っている高校や大学に、男女別トイレはいくつありますか。街に遊びに出かけて、半径500mの範囲に、男女別トイレはいくつありますか。考えてみてください。いま仮に、その半径500mに、すでに100個の男女別トイレがあったとして、その2つがこれからジェンダー不問トイレになるとします。そのことによって、あなた(ここでは男女別トイレの使用で困っていない人を想定しています)はどれくらい困りますか? 100個あった選択肢は、依然として100個のままです。仮に、ジェンダー不問トイレをどうしても使いたくないというのであれば、選択肢は98個に減りますが、それはほとんど誤差の範囲です。しかし、ジェンダー不問トイレを日常的に必要としている人にとっては、違います。その半径500mのエリアに、これまでは1つか2つしか「ジェンダー不問トイレ」がなかったとします。ここに、新たに2つのジェンダー不問トイレができる。そうするとこれは、ジェンダー不問トイレを日常的に必要とする人にとっての選択肢が2倍、3倍になることを意味します。排除されていた人を、街に迎え入れることができる。(話は逸れますが、駅や商業施設の女性用トイレはたいてい混み過ぎですから、もっと数を増やすべきです)
もちろん、トイレの作り方を変えていくのには、コストがかかります。改築にはコストがかかります。新たにデザインを検討しなければならなくなることもあるでしょう。コストがかかります。「作ったけれども誰も使わない誰でもトイレ」にならないようにするためには、利用者が他者からの望まない注目を浴びたり、スティグマを負わされたりしないよう、配慮する必要があります。そして、安全な場所であることも大切です。丁寧に丁寧に、利用者のニーズを聞き取りつつ、トイレの建て方を考える必要があります。とてもコストのかかるプロセスです。しかし【小括2】を思い出してください。これまでは、社会から構造的に排除されてきた人たちが、個々人で、恒常的にコストを払い続けてきたのです。そのコストは、今度は社会が代わりに払うべきではありませんか。社会から排除されてよい人などいません。
車いす生活者の人が駅を利用できるようにするためには、エレベーターの設置というコストがかかりました。しかしそのコストは、車いす生活者の人以外も人も含む、社会全体で負担すべきです。誰も排除されてよい人などいないからです。トイレも同じです。既存のトイレが、「デフォルト」ではない誰かにとって排除的であったのなら、その構造的排除はなくならなければならない。そして、その排除をなくすためのコストは、社会全体で背負うべきなのです。
トランスの人をトイレから排除してはならない
これまで、トランスの人たちの排除をなくすための方策として、応用的にジェンダー不問トイレの増設を説いてきました。しかし【前提3】で述べたように、トランスの人の状況は多様です。そして、現実にすでに多くのトランスの人が、移行後の性別の人として生き、公共の場でも同様に、そちらの性別用トイレを使って生きています。
SNS上などでは、トランスジェンダーの人たちを、トランスジェンダーであるという理由のみに基づいて、社会から排除しようとする意見が見られます。それは、こと公共の場のトイレについては、トランスジェンダーの女性を引き合いに出して、次のような主張の形をとっています。
問題のある主張:トランスジェンダーの女性は、トランスジェンダーであることのみを理由として、公共の場の女性トイレの使用を禁じられるべきである
これは、悪質な差別的主張です。少なくないトランスの女性が、すでに公共の場の女性トイレを使用しつつ生活していますし、これからもそうするでしょう。にもかかわらずこの主張は、そうした女性たちに対し、「あなたたちは出生時の割り当てが女性ではないから」とか「多くの(”ふつうの”)女性とは異なる身体的特徴をもっていた/もっているから」といった理由で、トイレの使用を新たに禁じようとしています。
もしこれが、「HIV陽性の女性は女子トイレを使うべきでない」という主張だったらどうでしょうか。その差別性は一目瞭然です。トランスの女性についても、同じことが言えます。【前提3】を繰り返しますが、トランスの人たちの状況は多様です。公共の場で女性トイレを使用しつつ生きている人は、すでに山のようにいます。もし、その事実を知らなかったのであれば、それは単なる皆さんの無知です。そうして生きている少なからぬトランスの女性たちを、彼女たちがトランスジェンダーであるというたったそれだけの理由に基づいて、女性トイレから追い出せと主張しているのですから、これは恐ろしく現状改変的で、差別的な主張であるということができます。
加えてこれは、それが求める結果が現実離れしているという点でも、ほとんど取り合うに値しない主張です。この主張の支持者は、公共の場の女性トイレを使っている女性たちの中から、出生時の割り当てが「女性」ではない人についてのみ、そのトイレの使用を禁止しようと言っているようですが、いったい何を目指しているのでしょうか? トイレの入り口で全員の下着を下ろしますか?染色体の検査結果の証明書の携帯を全ての人に義務付けますか?まったく現実的ではなく、意味の分からない世界、少なくともわたしにとっては、現実世界よりもはるかにディストピアです。
私たちの社会には、いまだにHIVポジティブ(陽性)の人への差別が存在しますが、かつては「HIV陽性者と同じトイレを使いたくない」という意見が、さも「真っ当な」主張であるかのように語られていたことがありました。しかし、私たちはそれが真っ当な主張でないことを知っています。トランスジェンダーの女性たちについても、事情は同じです。すでに多くのトランスの女性が、女性として生きており、皆さんの気づかない仕方で、あるいは周囲の人たちの理解も得ながら、自然に男女別トイレを利用しつつ生きています。彼女たちがトランスジェンダーであるという理由のみに基づいて、彼女たちを公共の場から排除しようとする意見には、はっきりなんの正当性もありません。
この記事では、【大原則】として「誰も排除されてはならない」ということを示しています。もしあなたが、この原則に賛同できないなら、わたしはあなたを説得する手立てを持ちません。しかし、もしこの大原則に賛同できるなら、このようにわざわざトランスの女性たちを市民社会から排除しようとする主張には、一緒に「NO」を言ってください。
問われているのは、排除
ここまで読んで、もしかすると混乱している人もいるかもしれません。後半のパートについて、簡単に整理しておきます。
T1:ジェンダー不問トイレを増設しなければならない
T2:その女性がトランスジェンダーであるという理由のみに基づいて、その女性の女性トイレの使用を禁じることは許されない
T1は【結論の応用】と同じです。もちろんこれは、今までのような男女別トイレを全廃しろ、という主張ではありません。当たり前ですね。他方でT2は、先の【問題のある主張】が差別的であるという確認です。いずれも、誰も社会から排除されてはならないという【大原則】から導かれます。T1は構造的な排除をなくすことを主張しており、T2は積極的な差別を禁じています。そして、当たり前ですが両者は両立します。なぜなら【前提3】で見たように、トランスジェンダーの状況は多様だからです。
もしかすると、トランスコミュニティが求めることとして、次のようなことを想定している人もいるかもしれません。
T3:トランスジェンダーの人は、そのジェンダーアイデンティティ(性自認)に沿った仕方で全員が既存の男女別トイレを使えばよく、ジェンダー不問トイレの増設など必要ない
わたしは、この主張に賛同しません。なぜなら、既存の男女別トイレの設置と、その運用方法は、シスジェンダーの人々を「デフォルト」として生み出されてきたものであり、そもそもがトランス排除的なものだからです。
現在の公共的な場のトイレの運用は、先にみたように「典型的な男性の見た目」や「典型的な女性の見た目」に近い人ほど利用が容易であるという、(シスジェンダーの健常者前提の)ジェンダー規範に基づいてなされています。だからこそ、本人の性自認のみに沿うだけでは既存の性別別スペースを利用することができないことを、トランスの人たちは知っています。誰よりも、知っています。ですから結局のところ、「アイデンティティ(性自認)に沿ったトイレを使えばよいだけだ」というT3の主張は、トランスの人たちが今まさに公共空間で感じさせられている視線の不安(凝視)や暴力の危険を無視した、現実離れした主張になっています。
また、先に挙げた男子大学生を思い出してほしいのですが、トランスの人が現状の社会でどのように男女別のトイレを使っているのかを理解するとき、「性自認」がそれ単独で意味を持つことはありません。重みをもっているのは、(その場において)その人がどのような性別であるかということです(※ただし、今は省略しますが性別は複雑な現象です)。そして、これからもそれはそうでしょう。そのため、建物としてのトイレの構造については全く変えないまま、「性自認」を新たなトイレ利用のファクターとして重視しさえすればトランスの人たちの困りごとがなくなるはずだ、というT3のビジョンは、トランスの人たちに対する構造的な排除を減らし、社会を変えるための青写真としては、現実と上手く接続しません。実際、トランスコミュニティのニーズをまともに考えたことのある人で、そうしたビジョンを示してきた人は殆どいないはずです。
【小括1】から継続的に確認してきたように、トランスの人たちは現時点ですでに、社会からの排除の対象となっています。「デフォルト」ではないからです。ですから、社会におけるジェンダー規範が何ら変わらないまま、T3の主張に沿って公共の場で何らかのトラブルになったりした場合、圧倒的に多くのケースにおいて、嫌な目に遭うのはトランスの人です。警察も警備員もトランスの人たちに優しくはありません。繰り返しますが、 T3の主張はトランスの人たちが今現実に払わされている「コスト」を無視した主張になっており、多くのトランスの当事者たちによっても支持されていません。当たり前ですが、周囲と継続的に摩擦を起こすことを望んでいる人などいません。現在の社会のジェンダー規範が大きく変わることのないまま、「性自認」だけを空間利用の準拠点にすることは、トランスの人たちを絶えざる摩擦に投げこむ結果にしかならず、社会からの排除をなくすための現実的なビジョンになり得ないのです。
加えてT3の主張は、現状の男女別のトイレを使用することに著しい抵抗を感じている、ノンバイナリーやジェンダークィアの人たちの存在を無視しています(※もちろん、全てのノンバイナリーやジェンダークィアの人がそのように抵抗を感じているわけではありません)。既存の男女別トイレの設計から、そうしたトランスの人たちが無視されてきた以上、現状のトイレの環境を見直すことは、コミュニティにとって重要な課題となるはずです。
以上のようにわたしは、シスジェンダー基準で作られてきた公共スペース(公共の場のトイレ含む)に、いわば”無理やり”すべてのトランスの人を押し込めることがコミュニティにとっての目標となるべきだ、とは考えていません。もちろん、社会から排除されて当然だ、というのでもありません。そうではなく、シスジェンダー基準で作られてきた設備や制度、ルールそのものを、1つ1つ地道に変えていく必要があると考えています。なによりもまず、構造的な排除を減らさなければならない。そして、トランスの人々に対する排除を社会の責任として減らしていくためには、「性自認」や「心の性」を云々するよりも、建物の構造を変えたり、制服の選択肢を増やしたり、制服をなくしたり、書類の性別欄をなくしたりといった、もっとドライな改変が必要なのです。
言うまでもなく、わたしのこうしたスタンスは T2と矛盾しません。誰かがトランスジェンダーであるという、たったそれだけの理由で、誰かを特定の場所から排除しようとする、そうした現実改変的な排除の主張には、わたしは反対します。そして例えば、「トランスジェンダー女性は全員が多目的(ジェンダー不問)トイレだけを使用せよ」というのは、そうした現状改変的な排除の一例であり、支持され得ません。すでに成立している社会の仕組み・あり方に適合的なトランスの人は、これまでも、これからも存在し続けるでしょう。周囲の理解を得つつ生きている人も、すでにたくさんいます。そうした人たちは、それはそれで、生きていけばよい。そうしたトランスの人たちをわざわざ狙い撃ちにして「排除せよ」と主張するのは、許されないことです。
まとめておきます。わたしはT1とT2を主張し、擁護しましたが、T3については賛同しません。そしてわたしは、トランスジェンダー当事者の人たちも含めて、多くの読者たちと、この立場を共有できると信じています。
これで、わたしの議論は終わりです。
…ただ、後半のトイレのことについては、紙幅の都合と議論の単純化のために、いくつも大切なことに触れずに終えてしまいました。例えば、以下のようなことです。
・公共の場のトイレと言っても、駅・公園・商業施設・会社・大学・学校などで、周囲の人との関係(知り合いの有無やカミングアウトの有無)、周囲の人の認識は変わり得る。それゆえ「公共の場のトイレ」と一括りにはできない。今回は、周囲に誰も知り合いがいない駅や商業施設のトイレを念頭に議論したが、見知った人たちと空間を共有することのあるトイレについては、個々人の状況や周囲の人との人間関係に依存する面が大きいため、原則的な議論をすることは不可能。
・公共の場のトイレから排除されてきたのは、トランスジェンダーの人たちだけではない(その代表は、障害のある人や子どもたち)。今回は「ジェンダー不問トイレ」の増設という積極的な改変の必要を提示したが、これから作られるトイレは、そうして排除されてきた他の集団にとっても、当然よりアクセシブルでなければならない。むしろ、そうした排除を経験している人たちで共に知恵を出し合うことによってしか、よりよい公共のトイレのデザインを考えることはできない。
・「典型的に女性的な見た目の人間でなければ女性トイレを使ってはならない」という主張を掲げている人がいるが、そのようにジェンダー規範を強化するような主張には(フェミニスト的に)賛同できない。
これらについては、また今度時間があれば文章を書きます。ここまで長い記事をお読みくださりありがとうございました。この記事が、皆さんの思考を整理し、ともにトランスジェンダーの人たちへの排除をなくすための取り組みに加わっていただくきっかけになることを願っています。今回は(やむを得ず)トイレについて後半では扱いましたが、トランスの人たちに対する構造的な障壁は多岐にわたっています。そのことはどうか忘れないでください。