ゆと里スペース

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社会の混乱を生んできたのは~宇賀裁判官の反対意見が示唆すること~

 この記事では、昨年の性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)最高裁判決に付された、宇賀裁判官の反対意見を少しだけ紹介します。(※以下、「宇賀さん」と表記します)
 とはいえ、特例法についてここで詳しく解説することはしません。この法律に関心のある方には、以下のブックレットをおすすめします。わたしの編著です。

www.iwanami.co.jp

1.昨年の最高裁判決

 これから扱う宇賀さんの反対意見は、2023年10月25日に大法廷で下された判決に対する反対意見です。この裁判では、トランス女性の原告が、自身の法的な登録(戸籍の性別)を「男」から「女」に変更することを求めていました。そのプロセスで、最高裁は特例法の4号(不妊化)要件に違憲判断を下したのですが、しかし最高裁は、原告の訴えそのものは斥けました。つまり原告の女性は、戸籍の変更が認められませんでした。なぜなら、原告の女性の戸籍変更を阻んでいるもう1つの要件、すなわち5号の外観要件については、高裁できちんと審理されておらず、そのため最高裁ではすぐに判断ができないとされたからです。結果として、原告の戸籍変更の訴えも、ひとまず持ち越し(=広島高裁に差し戻し)となりました。
 この5号要件については、まもなく高裁で違憲判断が下ることが自明視されています。ことの詳細については以下のブログに書いたので、そちらを参照してください。

yutorispace.hatenablog.com

 この判決に付されたのが、これから紹介する宇賀裁判官の反対意見です。

2.宇賀裁判官の反対意見

 宇賀さんは、このときの最高裁大法廷の多数派意見に与していません。そのため個別意見として、反対を述べています。しかし宇賀さんは、特例法の4号要件が違憲ではないとか、そのような反対意見を述べているわけではありません。実態としてはむしろ逆です。宇賀さんは、4号要件だけでなく、5号要件も憲法に違反するのだから、高裁に差し戻すことなどせず、すみやかに原告の戸籍の登録を「女性」に修正すべきだと、多数派意見に反対したのです。
 そうした宇賀さんの個別意見は、5号要件の違憲性のみならず、リプロダクティブ・ライツや「性自認に従った法的扱いを受ける権利」を日本の憲法に位置づけようと試みる、果敢な論理となっているように思います。
 今日わたしが注目したいのは、その宇賀さんの個別意見のなかに一瞬だけ現われた重要な指摘です。それは、直接的には5号要件ではなく4号要件について述べた、次のパラグラフにあります。

そもそも、性同一性障害者は、法的性別の変更によって、突然、自認する性別による生活を開始するわけではなく、ホルモン療法等によって外見上の性別が変化し、さらに家庭裁判所の許可を得て名の変更を行い、外見も名も自認する性別に合致した生活をしているのが一般的であると考えられる。したがって、外見や名からうかがわれる性別と法的性別が不一致であることの方が、社会的混乱を招くことが少なくないように思われる。

 この宇賀さんの指摘は、重要な示唆を与えているとわたしは思います。鍵を握るのは「社会的混乱」の概念です。
 このパラグラフの直前で、宇賀さんは4号(不妊化)要件が特例法に設けられた理由を整理しています。それすなわち「生殖能力を残存させたまま法的性別の変更を認めた場合、女である父、男である母が生じ得ることとなって、社会的混乱が生ずること」。そうした社会的混乱を防ぐために、4号要件は設けられた。それが宇賀さんの整理です。
 しかし、「男である母」や「女である父」が出現して15年以上たつにもかかわらず、実際にはなんの混乱も起きていないことから、こうした「混乱」への懸念は4号(不妊化)要件を正当化する理屈にはなりえない。宇賀さんはそうまとめています。
 そのあとに続くのが、上のパラグラフです。そして、このパラグラフで提起された指摘をわたしなりに整理するなら、次のようになります。
―――社会的混乱を防ぐために4号要件は存置されてきたけれど、むしろ4号要件の方が、社会的混乱を招いてきたのではないか

3.生活する性別

 この宇賀さんの指摘は、本質的なポイントを突いているように思います。
 そもそも、特例法によって戸籍の性別登録を変更するというニーズは、生活上の性別移行の結果として生じるものです。つまり、トランスジェンダーに該当する人が、生きていく性別を変えた結果、戸籍に書かれた性別表記によって「身分を保証されない」自体が生じてしまい、それが生活上の著しい不利益を生んでしまうから、トランスの人たちは戸籍を修正するのです。より詳しくは、以下の記事を読んでください。

yutorispace.hatenablog.com

  この記事のなかから、1つ図を載せておきます。

 これが、特例法によって戸籍変更のニーズをもつ人たちです。大部分の「生活する性別」が「戸籍の性別」と食い違うことで、①~③のような状態に置かれ、不利益が発生しているために、特例法が必要なのです。
 別の言い方をするなら、特例法によって戸籍を変えるくらいの状態にある人たちは、生活するうえでの性別をほとんど移行してしまっています。そうして、社会的に「女性」や「男性」になっているにもかかわらず、戸籍だけが「男性」や「女性」のままだから、不利益が生じ、特例法による戸籍訂正のニーズが生まれるのです。
 先ほどの宇賀さんの個別意見には、「外見や名からうかがわれる性別」という表現が出てきます。少々舌足らずではありますが、これは「生活する性別」とわたしが呼ぶものと、おおむね同じものを指すと考えられます。
 そのうえで、もう1度先ほどのパラグラフを見てみましょう。

そもそも、性同一性障害者は、法的性別の変更によって、突然、自認する性別による生活を開始するわけではなく、ホルモン療法等によって外見上の性別が変化し、さらに家庭裁判所の許可を得て名の変更を行い、外見も名も自認する性別に合致した生活をしているのが一般的であると考えられる。したがって、外見や名からうかがわれる性別と法的性別が不一致であることの方が、社会的混乱を招くことが少なくないように思われる。

 宇賀さんは「よく分かっている」と思います。トランスの人たちは、戸籍の性別を変えることによって「突然」性別移行をするわけではなく、むしろ逆であると、宇賀さんは分かっています。名前を変え、外見を変え、生活を変えた後になって――すなわち「外見や名からうかがわれる性別」を移行した後になって――戸籍の性別表記を訂正するニーズが発生します。宇賀さんはよく分かっています。

4.社会的混乱

 そのうえで宇賀さんは、興味深い結論を導きだします。――そうだとしたら、4号要件(手術要件)のような要件によって必要以上に戸籍訂正を難しくされていることの方が、社会的混乱を招いているのではないか
 宇賀さんはよく分かっています。「生活する性別」をシフトするプロセスに、生殖腺の有無が関係ないことを理解しています。「生活する性別」は移行してしまったけれど、生来の生殖腺を保持したままである。そういうトランスの人たちが生きていることを理解しています。にもかかわらず、4号(不妊化)要件があるせいで、そうしたトランスの人たちが戸籍を訂正できない状態に置かれてきたことを、理解しています。そして、鍵になるワード。「社会的混乱」。
 宇賀さんがすでに整理したように、4号(不妊化)要件は「社会的混乱を防ぐ」という目的のために挿入されていました。しかし、事態はむしろ逆ではなかったか。それが、このパラグラフで宇賀さんが示唆することです。4号要件があるせいで、「生活する性別」と「戸籍の性別」が食い違う状態の人がたくさん生まれてしまった。それがむしろ、社会的混乱の原因になっているのではないか。宇賀さんはそのように示唆しています。そして、明示されてはいないものの明確に含意されているのは、次の結論です―――。トランスの人たちの戸籍の性別登録によって生じる「社会的混乱」を防ぎたいのならば、「生活する性別」に則してさっさと戸籍を訂正できる環境を作った方が、生じる「混乱」は少なくなるだろう。

5.誰がための特例法

 特例法は、トランスジェンダーにあたる人たちの法的な性別登録を修正することを可能にしています。かつては「性同一性障害」という(今はなき)病理概念が支配的でしたが、現代の概念に置きかえるなら、特例法はトランスの人たちのために存在すると、そのように理解できます。
 しかし、そうして「トランスジェンダーの利益のため」という側面ばかり見ていると、特例法が持っている重要な役目を見失うことにもなります。それは、特例法による戸籍の訂正が、社会の混乱を減らすのに役立っているという役目です。
 かつてより、トランスジェンダー性同一性障害者は「社会に混乱を招く存在」として枠づけられてきました。だからこそ、特例法の立法者たちは、今から見れば非人道的な要件をたくさん盛り込んで、「混乱」を抑えようとしました。戸籍変更によって、トランスの人たちに利益を与えることは許すけれども、社会に混乱を招くのは許さない、という思考法です。
 しかし、特例法による性別表記の訂正で利益を得るのは、トランスの人たちだけではありません。例えば、生活する性別と戸籍の性別が食い違う状態の人がいて、その人がトランスであることを周囲にカミングアウトしていないとき、その人を雇用する企業は、知る必要のない、極めてセンシティブな秘密を握ってしまうことになります。特例法に手術要件がなければ、その企業はそんな秘密を抱え込まなくて済んだかもしれません。これも一種の「社会的混乱」です。
 ほかにも、保険証の性別と生活する性別が食い違う患者さんが来院したことで、病院やクリニックのスタッフが混乱してしまうというのも、よくある事態です。健康の相談を要するドクターに対しては、自身がトランスであることをカミングアウトする必要があるかもしれませんが、受付や会計のスタッフたちにまで保険証の性別を知られることに、ほとんど意味はありません。むしろここでは、保険証の性別と生活する性別が食い違うことによって、病院やクリニックのなかに「社会的混乱」が生じています。もし、そうした「食いちがい」が生じている理由が、特例法に存在し続けてきた(憲法違反の)過酷な要件なのだとしたら。この「混乱」を生んでいる原因は、他でもない特例法だとすら言えるかもしれません。
 宇賀さんの個別意見が示唆する知見を、もう一度を繰り返しておきましょう。社会的混乱を少なくしたいのなら、生活する性別を移行してしまったトランスの人たちが、なるべくスムーズに戸籍を訂正できる環境を作った方がベターです。その方が、生活する性別と戸籍の性別の齟齬という、社会的混乱の原因を除去できるからです
 実際のところ、(いくつもの過酷な要件を含みつつ)2003年に特例法が成立したことは、そうした混乱の解消に一役買ってきました。約12000人もの人が、これまで戸籍を訂正してきました。特例法がなければ、これらの人たちの戸籍の表記は、多くの「社会的混乱」を生む原因となり続けていたでしょう。
 しかしその特例法は、社会の混乱を防ぐためとして、実際にはいくつもの非人道的な要件を備え、維持してもきました。もし、それらの要件がもっと緩やかで、人権侵害的なものでなかったとしたら。もっともっと社会的混乱は減っていたのかもしれません。宇賀さんの反対意見は、私たちにそう示唆しています。

6.終わりに

 いま、特例法の手術要件がなくなろうとしています。しかし、その代わりにと、不合理に厳しい条件を入れようとする政治家がいます。でも、それで社会の混乱は減りますか?宇賀さんの反対意見から示唆される答えは、むしろ逆です。戸籍訂正の要件を厳しくすればするほど、生活する性別と戸籍の性別が食い違う人の数は増えていき、それに合わせて社会的混乱も増えていくでしょう。
 そして同時に、私たちは改めて考える必要があります。トランスの人たちを「混乱を招く存在」として枠づけ、混乱を防ぐためにと厳しい要件を設ける。そうした転倒した発想を、私たちはいつまで続けるのでしょうか。社会の混乱を本当に減らしたいと願うのなら、混乱を招く誤った情報に流されることなく、私たちは(宇賀さんのように)現実に即した議論を一歩ずつ進めるべきです。