ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

特例法を必要とするのは誰か?

 この記事では、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)について、この法律を必要としている状況にある人とはどんな人たちなのか、わたしなりに説明したいと思います。昨年には特例法の一部に違憲判決が下り、大きなニュースになっていましたが、今年も同様の違憲判決が予想されており、法改正の議論がこれから加速していきます。そんなとき、「そもそもこの法律って誰のためのものなの?」と疑問に思う人は増えることが予想されます。ですから書きました。
 最初に自己紹介をしておくと、わたしは『トランスジェンダー問題』(明石書店)の訳者で、『トランスジェンダー入門』(集英社)の共著者です。また、まもなく『トランスジェンダーQ&A』(青弓社)という書籍が発売になるほか、先月ちょうど、この特例法について扱った『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店)という書籍を出版しました(編著者として)。特例法について考えたい方には、まずは『トランスジェンダーと性別変更』をおすすめします。ブックレットなので読みやすいです。

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1.戸籍の性別がおかしい

 特例法を必要としているのはどのような人たちでしょうか?この問いに答えるにあたり、ひとつ一緒に考えて欲しいことがあります。
 突然ですが、あるとき自分の身分証の性別欄が書き換わってしまったと仮定しましょう。例えばあなたがシスジェンダーの女性だとして、あなたは女性として生きているのに、気づいたら保険証やマイナンバーカードの性別欄が「男」になっていたと、そう仮定します。怖くて調べてみたら、どうやら住民票も戸籍も「男」になっているようです。逆でもかまいません、あなたが男性で、男性として生きているのに、保険証や住民票、戸籍には「女」と書かれてしまっています。
 そんなこと、大したことではないと思うかもしれません。確かにそうですね。日常生活を送っていて、他の人に住民票や戸籍謄本を見られる機会なんてありませんから、生活にすぐに不便が生まれることはないように見えます。
 でも、これから就職・転職をする、というタイミングであればどうでしょうか。履歴書の性別欄にはなんと書けばよいでしょう? そもそも自分は女だし、女として生きているし、女として働くつもりなのだから、当然「女」と書くに決まっている。そう思うと思います。でも、あなたがそうして「女」と書くと、採用内定までもらった後に、「嘘をついていた」という理由で内定を取り消されるかもしれません。勤め先の共済に加入する手つづきをしている途中で、あなたの住民票の性別が「男」になっていることがバレてしまって、虚偽申告をしたから採用できない、というのです。
 だったら仕方ない。履歴書には「男」と書いて、面接で説明すればいい。そう思うかもしれません。しかし、履歴書に「男」と書いていたはずの候補者が、どう見ても女性であり、本人も女性として働くつもりだと聞かされて、会社の人事担当は困ってしまうかもしれません。なぜこんなことに?どうして住民票が「男」なんですか?――そんな質問に答えているあいだに、あなたは面接時間を使い切ってしまいます。他の候補者ならば、自己アピールに使えたかもしれない時間を、あなたは書類の性別に対する弁明で使い切ってしまうのです。
 ほかにも、病院にいくときはどうでしょう。例えば、コンタクトを新調するために眼科に行くとします。しかし受付で保険証を提示したところ、スタッフさんはぎょっとしてじろじろ自分を見てきます。場合によっては、「ご本人でないと処方箋は書けません」と突き返されたり。
 投票所でも同じです。一部の自治体では投票所入場券に性別欄がありますから、地域の投票所の入り口で、あなたは自分の生きている性別とは違う入場券を差し出さなければならないかもしれません。近所に住む町内会の人が受付をしていますが、あなたの入場券を見た人たちは、裏でひそひそ話をしているようです。
 なぜ、こんな面倒なことになってしまったのでしょうか。
 それは、あなたが生きている性別と、あなたの公的書類の性別欄(の表記)のあいだに、食い違いがあるからです。あなたは女性として、あるいは男性として生きているのに、書類に「男性」とか「女性」とか、おかしな性別が書かれているからです。そのせいで、あなたは深刻な困難を経験します。就職や通院、投票など、生きていくなかで大事なタイミングで、あなたの書類が、あなたの人生を阻みます。身分証に身分を保証されないからです。そしてあなたが異性愛者なら、あなたは結婚ができないことにもなるでしょう。―――戸籍の性別が生活の現実とずれてしまっているせいです。
 生きている性別とは違う性別が、公的書類に書かれてしまっている状況。少しだけ想像してもらいました。突飛な思考実験だと思われるかもしれません。でも、それが面倒な事態であることは、すぐに分かると思います。

2.生活する性別

 生きている性別と、公的書類に書かれた性別が食い違うこと。それは大きな困難を帰結します。先ほどはシスの人を想定したうえで、ある種の思考実験として、急に住民票や保険証の記載がおかしくなってしまった!という状況を考えました。しかし、もうお気づきの通り、このような「食いちがい」が生じている状況というのは、一部のトランスジェンダーの人たちが置かれている状況にほかなりません。
 トランスの人のなかには、生きていく性別を変えていく人たちがいます。生まれた時に法的に登録されてしまった性別とは異なる性別へと、生活をシフトさせていくということです。このような性別移行を理解するには、「生活する性別」という概念を持っておく必要があります。詳しくは、以下の記事に書いたので、まずは読んでください。

yutorispace.hatenablog.com

 現実問題として、生活する性別と法的登録が「食い違う」人たちが存在しています。その人がトランスジェンダーで、比較的バイナリーな(男女二元的な)性別としての生活実態を自分のものとしていくタイプの人だとすると、そのような「食いちがい」が起きることがあります。
 ただ、注意してほしいことがあります。いま、トランスジェンダーについての標準的な理解としては、「出生時に割り当てられた(=法的に登録された)性別と、性自認(=性同一性/ジェンダーアイデンティティ)が食い違っている」という説明が一般的となっています。ただ、わたしがいま考えたいのは、この「食いちがい」ではありません(!)。いま考えたいのは、生活する性別と法的登録の食いちがいであって、性自認と法的登録の食いちがいではありません。このことに注意してください。

   
 さて、特例法は法的に登録された性別を変更するための法律です。なぜそのような法律ができたのでしょうか?それは、先ほど皆さんに想像してもらったように、生活する性別が法的な登録と食い違っていると、看過できないほどの著しい不利益が発生してしまうからです。その不利益を解消し、就活や通院、転居や投票、場合によっては婚姻にあたってトランスの人たちが差別を受けないようにすること。加えてまた、性別移行後の生活を安定的に送っているトランスの人たちが、書類の表記によって意に反して自分のプライバシーを暴かれないようにすること。それが、特例法の目的です。
 このような特例法の目的を理解するために必要なのは、ですから(性自認ではなく)「生活する性別」という概念ないし発想です。そして、わたしが「生活する性別」について記事を書いてきたのは、この特例法の意義を説くためにほかなりません。

3.特例法を必要とするのはどのような人か?

 特例法を必要とするのはどのような人たちでしょうか。それを説くのが、この記事の目的でした。その答えは、これまでの議論を踏まえれば次のようになります。

特例法を必要とする状況の人

法律上登録された性別と大部分の生活上の性別が食い違っており、そのことによって重要な生活上の領域における安全が損なわれたり、生活上重要性の高い活動に支障が生まれたりしている、もしくは今後そのような状況になる可能性が高い状態の人

 分かりにくいので図にしておきます。

 このうち緑で囲ってある部分が、前提です。生活する性別(生活上の性別)についてこの記事では詳しく説明しませんが、ようするに生活実態として生きている性別のことです。トランスの人のなかには、生まれた時の登録とは異なる性別で学校に通ったり、会社で働いたり、出かけたり、遊んだり、家族と過ごしたりしている人がいます。全員ではありません。でも、現実にいます。それは否定しようのない事実です。そのような人たちは、男性や女性として、生活をしているのです。もちろん、生活上の性別をほとんど移行できたとしても、実家の両親だけには拒絶されるとか、昔の同級生だけは過去の性別で扱ってくるとか、そういうことはあります。ですので、ここでは「大部分の生活上の性別」という表現を使用しました。
 そのようにして、基本的な生活実態が法的登録と異なっていることは、多くの不利益を生みます。例えば、男性として企業で務めているのに、法的登録が「女」になっているせいで、一部の人事関係の人だけにはトランスジェンダーであることを知られてしまっている、といったケース(この記事のトランス男性①ハルトなど)。こういう状況にある人は、絶えず会社でのアウティングに怯えなければならず、働く上での安全を著しく損なわれています。あるいは、法的登録は「男」だが、女性として大学に通っている学生のケース(わたしのこれまでの大学の教え子にも複数人いました)。彼女の法的登録が「男」であることを、ほとんどの同級生が知らない一方で、男女比を調整する語学のクラス分けや、健康診断の通知の宛名などによって、彼女はアウティングされてしまうかもしれません。これらのケースにおける、会社(勤め先)や大学が、上の説明における①重要な生活上の領域に相当します。働いたり、学んだりするにあたって、法的登録が生活上の性別と「食い違う」ことが、大きな困難になっています。
 他方で②生活上重要性の高い活動としては、就職活動や通院、投票、入国審査、あるいは結婚などを念頭に置いています。生活上の性別と法的登録が食い違っていると、そうした大事な場面で、たいへんな困難を経験してしまうことがあります。
 ③今後そのような状況になる可能性が高いというのは、いま現在は①②のような困難を経験していないが、これから経験する可能性が高い、という意味です。例えば、いまの会社ではトランスであることをオープンにしつつ働いているけれども、これから転職する可能性がある(&できれば埋没したい)とか、いますぐに結婚したい相手はいないけれども、将来的に(異性と)結婚する可能性があるとか、そのような状況を考えています。なお、わたしは大学の教員でもありますので、一番は学生のことを念頭に置いています。いまの大学生には、大学入学時点ですでに生活上の性別を移行している方も多く、そうした学生は、就職活動が始まる3年次~4年次には①②のような困難を経験することが多いです。結果としてそうした学生は、1~2年次の時点で特例法によって法的登録を変更するニーズをもつことになります(結果として③に該当)。

4.法的登録を変える

 以上で、特例法を必要とするのは誰か?という問いには答えが与えられたことになります。最後に、いくつか注釈も添えておきます。
 まず、特例法によって法的に登録された性別を変更するということを、性自認の観点から理解することには意味がありません。わたしは少なくともそう考えています。なぜなら、生活上の性別移行が進んでいないにもかかわらず、法的な登録だけを(性自認に合わせて)書き換えたところで、本人にはなんのメリットもないからです。例えば生活の大部分を女性として過ごしている(過ごすほかない)トランス男性が、戸籍の性別だけを(性自認に合わせて)男性に書き換えたところで、彼にとって新たに利益が発生することはありません。むしろ、それこそ「身分証に身分を保証されない」状況が新たに出現することになり、この記事の冒頭で考えてもらったような不利益状態に陥ると考えられます。もちろんこれは、トランス女性でも同じです。
 ですので、特例法の話は性自認の話とは独立に考える必要があります。特例法を必要とするのは、法的に登録された性別を変更することによって、生活上の危険性や障壁の経験、およびその可能性が取り除ける状態にある人であり、まさにそのような危険や障壁を除去する国家の責任から、特例法は制定されたのでした。特例法が性自認を書き込むためのものではないということは、よく理解しておく必要があります。
 第二に、法的に登録された性別を変えることは、文字通りに理解される必要があります。戸籍の性別が変わっても、本人の身体の特徴は変わりません。見た目も変わりません。過去も変わりません。振る舞い方も変わりません。身分証を見せない限り、戸籍の性別を変えたことを他者に気づかれもしません。特例法とは、そういうものです。これは『トランスジェンダーと性別変更』のなかで野宮亜紀さん(※特例法制定に尽力された当事者の活動家です)も繰り返し書いていることですが、トランスの人たちは、戸籍を訂正することによって性別を移行しているのではありません。逆です。性別移行をして、生きている性別が変わった結果として、上で書いた①~③のような状況に置かれてしまうから、戸籍を訂正するのです。つまり、戸籍を変えるくらいのニーズを抱いている人は、もうすでに性別移行を終わらせてしまっています。あるいは「最後の一手」として戸籍を訂正しさえすれば、「男性」や「女性」としての生活の安定と安全が得られる見込みが高い、そのような人たちです。そうでない状況の人が、戸籍だけを(性自認に合わせて)書き換えても、本人にはほとんど利益はなく、おそらく不利益が増えるだけです。このことを理解していないと、特例法について誤った「懸念」を抱いてしまう結果にもなります。法的な登録を変えることのニーズが、トランスの人の性別移行のプロセスのどの時点に生じるものなのか、私たちはよく理解しておく必要があります。(もちろん、性自認に沿った生活が得られないのは苦しいことです。しかし戸籍の表記を変えられることで動かせる生活の範囲は、そんなに広くありません。それは知っておく必要があります。戸籍は魔法ではないからです。むしろ、性自認に沿った生活が得られないことによる困難については、生活上の性別を形づくる要素(自身の状態や周囲の理解)を動かしていくことによって解決する部分の方がはるかに大きいはずです。)
 ちなみに、手術要件の話に絡めて、SRS(性別適合手術)と戸籍変更の前後関係について議論されることも多いですが、戸籍の性別を生活実態にあわせてから働くことができれば、安全に手術費用を貯めやすくなるので、合理的に考えれば、SRSよりも先に戸籍変更ができる世界の方が、SRSへのハードルは低くなるはずです。すぐにでもSRSを受けたいのに、戸籍の表記が生活と食い違っているために安全に働くことができず、そのせいでSRSのための資金が貯まらない… それなのに、戸籍変更にあたって実質的にSRSが義務付けられている…(絶望)というのは、SRSや戸籍変更を視野に入れたことのある人にとってはおなじみの「負のスパイラル」ですが、このような酷い状況は早く変わる必要があり、実際にもうすぐ終わります。
 繰り返しますが、SRSに先立って戸籍変更ができる状態になっていた方が、SRSをするためのハードルは下がります。(※ここまで説明しても理解できないという人は、おそらく「生活する性別」という概念を理解していない(つまりは性別移行についてよく分かっていない)からだと思いますので、繰り返しますがこちらの記事を読んでください。私たちは服を着て生きているので、外性器周辺の身体の状態と、生活する性別は必然的に連動していません。そしてSRSや戸籍変更を経験する当事者の多くは、それらが規範的な(シス的な)組み合わせとは異なる、という状態を経由しています。)

5.おわりに

 特例法については、これまでずっと「要件」の話ばかりされてきました。つまり、どんな人ならば戸籍の訂正を認めてもよいか、という条件の話です。しかし、特例法を必要としているのはどのような状況の人なのかが明らかになっていないかぎり、そのような「要件」論には何の意味もないとわたしは思います。だから、この記事ではトランスの人たちの生活の現実になるべく即した形で、「そもそも戸籍訂正を必要とする状態にあるとはどういうことか」を考えました。「誰の戸籍変更を認めるのか」という、国家の視点あるいはマジョリティの視点だけではなく、トランスの人たちのニーズから、特例法の議論は出発するべきだとわたしは思います。そしてそのような議論が、この国にはまだまだ圧倒的に不足しています。
 この記事が、わたしのそうした思いを共有してくださる方の理解の助けになることを願っています。冒頭でも書きましたが、これから特例法について日本社会は大きな議論の波を迎えることになるでしょう。そんなとき、トランスの人たちの存在を議論の「材料」に貶めるのではなく、生活と人生をもつ生身の人間として、いつも考えられる人が増えて欲しいと思います。岩波ブックレットトランスジェンダーと性別変更』も、参考にしてもらえれば幸いです。
 なお、今回はトランスの当事者のニーズに焦点を当てましたが、実際には戸籍の性別表記が生活実態と食い違う人が存在することによってトラブルを経験するのは、当事者に限られません。企業や学校は従業員や学生の重大な秘密を抱えてしまうことになりますし、投票所やクリニックの受付スタッフにとってもそれは同じです。だから特例法による性別変更は、実際にはトランスの人の周囲にいる人たちに大きな利益をもたらす制度であることも、覚えておいてください。

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