ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

『埋没した世界』刊行記念対談(6/30)に登壇します

 今週の金曜日(30日)に、三鷹の本屋さんであるUnité(ユニテ)さんにて、『埋没した世界 トランスジェンダ―ふたりの往復書簡』の刊行記念イベントに登壇します。対談のお相手は、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』(2021)や『『男がつらい!――資本主義社会の「弱者男性」論』(2022)などの著作がある、杉田俊介さんです。来店の参加は完売してしまいましたが、オンラインでの参加はまだ申し込みができます。(以下より)

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 『埋没した世界』は、五月あかりさんと周司あきらさんが交わした書簡を書籍化したものです。ふたりとも埋没系のトランスジェンダーであるため、著者さんたちがイベントで前に出て話す、ということは不可能です。そのため、このイベントと、次回のWezzyさんのイベント(三木那由他さん×水上文さん)などでは、読者である登壇者たちが、この本をどのように読んだか、そしてこの本の言葉を切り口にどのような議論ができるか、皆さんと分かち合う時間になると思います。

wezz-y.com

 杉田さんと当日お話ししたいのは、ずばり「男性」についてです。

 『埋没した世界』の著者である五月あかりさんは、かつて「男性」として割り当てを受け、そして「男性」として生きようと必死に自分の身を膨らませ、また魂を削っていたと言います。そうでありえたはずの「無性」の自分を押し殺し、身を守るために「無性」としての自分を封印することで、「男性」へと性別を移行したのだ――そのようにあかりさんは語ります。あかりさんはその後、「女性」へと性別を移行しますが、あかりさんにとっては、思春期に経験した「男性化」こそが、第一の性別移行だったということです。

 『埋没した世界』では、あかりさんがそうして「男性」へと移行するなかで、どのようなものを失わされてきたのか、恐ろしいまでの解像度で描かれています。そして、あかりさんは言います。「女性」へと性別を移行したことで、自分はもともとそうであったはずの身体を取り戻したのだと。失ってしまった世界とのかかわり方、他者たちとのかかわり方を、取り戻したのだと。あかりさんはこうして、「男性」として存在することや、「男性」としての身体を生きることを、「異質な経験」として相対化していきます。それは、「男性であること」があたかも「デフォルト」とされてきた事実をフェミニズムが暴いてきたのとはまた異なる、「男性の有徴化」です。

 他方の周司あきらさんは、男性としての自己の身体をこよなく愛しています。そして、「男性でなくなること」によって自分の身体を人生を取り戻していったあかりさんとは対照的に、あきらさんは「男性になること」によって、自分の性別について何も考えなくて済むような、自然な在りようを取り戻したのだと言います。前著『トランス男性による トランスジェンダ―男性学』でもそうであったように、あきらさんは「男性であること」をポジティブな生存状態として理解しています。そして、男らしさが辛い、男性特権を反省しなければ、といった仕方で、右を向いても左を向いてもマイナス志向ばかりの男性学に、あきらさんは不満げです。なぜだ、せっかく自分は男性になることができたのに。

 杉田さんとの対談では、こうしたトランスジェンダーふたりの特異なパースペクティブから見えてくる、「男性である」という経験・状態について、掘り下げて語っていきたいと思っています。先日の打ち合わせで大きなテーマに挙がっていたのは、男性の身体が粗末に扱われることを社会が許しているという、「男性・雑問題」です。この、男性の身体を大切にするという規範が希薄であるという現在のジェンダーの仕組みは、トランスの女性やトランスの男性に対して、不可解なまでの困難を与えると同時に、シスの男性たちにも、構造的なミサンドリーを相互に植え付けているかもしれません。なぜなら、自分自身が「雑」に扱われることで、男性や、男性を生きさせられている男性以外の人たちは、自分の身体を尊重することを学ぶ機会を奪われ、それは必然的に、他の男性たちの身体や、ひいては男性以外の人たちの身体を大切にしない人間を世界に生み出すことにもなるからです。(ここでわたしは、あかりさんが『埋没した世界』の初めの方に書いていた、男子であることは、身体を風船のように・ラグビーボールのように膨らませることなのだという、印象的な比喩を思い出します。)

 さらに、そうした構造的な「男子・雑問題」は、男性たちの常軌を逸した長時間労働の常態化や、徴兵といった、より精度化されたミサンドリー(この名称はここでは仮の名称です)ともつながっているでしょう。

 杉田さんとの対談では、ぜひこうした「男性の身体が大切にされない世界」の不可思議さと、それを補完するような「ミサンドリー」について、語っていきたいと思っています。しかし、それだけではなく。とりわけ周司あきらさんが期待しているのは、「男性を生きること」をどのようにしてポジティブな実存の様態として語りなおせるか、ということでしょう。この点については、「マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か」という問いを徹底した杉田さんの胸を、わたしが借りることになるでしょう。ひとは男性に生まれるのではない、男性に「なる」のです。だとすれば、そうして「なる」過程で失ったものを、あかりさんが二度目の性別移行を通して取り戻したように、未来に取り返すことはできないのでしょうか。

 すみません、、イベントで話したいことがあまりにも多くて、書きすぎてしまいました。ご興味のある方は、ぜひオンラインにてご参加ください。

 なお、主催のユニテさんにもお願い・相談をしたのですが、今回のイベントでは、リアルタイムの字幕提供はありません。できるだけ多くの方に参加していただきたいと思っているのですが、本当に申し訳ありません。(映像配信に使っているプラットフォームと、字幕生成アプリの連携がうまくできないそうです)

 それでは、30日にお会いしましょう。あるいは、配信後1カ月はアーカイブが視聴できますので、アーカイブにて、お会いしましょう。