ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

トランス差別の現状(3)アメリカにおける犯罪被害

 トランスジェンダーの人びとが集団として置かれている状況を理解するために、色々なデータを紹介しています。「トランス差別」は、誰かに酷いことを言うとか、そういった狭い範囲の現象として理解できるものではないからです。
 最初に紹介したのは、英国学校調査の概要でした。

yutorispace.hatenablog.com

 次に、全米大規模調査(2015)の概要を紹介しました。

yutorispace.hatenablog.com

 今日は、前回と同じくアメリカの調査に基づいていますが、トランスジェンダーの人びとが犯罪被害(Criminal Victimization)に遭う確率についてのデータを紹介します。

 

1.報告書について
 これから紹介するデータは、以下の調査報告に依拠しています。というよりは、この報告書の抄訳(実質的には全訳)だと思ってください。

“Gender Identity Disparities in Criminal Victimization: National Crime Victimization Survey, 2017–2018” , in the American Journal of Public Health
 co-authored by Andrew R. Flores, Ph.D., Ilan Meyer, Ph.D., and Lynn L. Langton, Ph.D., and Jody L. Herman, Ph.D. ※ここから読めます。

https://escholarship.org/content/qt7c3704zg/qt7c3704zg_noSplash_bdcad281b67fab6fb166297adfc6b4a8.pdf?t=qqfomk

 

2.結果
 忙しい人もいると思うので、主たる結果のみ最初に記載します。

トランスジェンダーの人びとは、1000人あたり86.2人が暴力被害に遭っていましたが、その割合は、シスジェンダーの人びとでは1000人あたり21.7人でした。
トランスジェンダーの人が1人でも暮らしている世帯では、1000世帯あたり214.1世帯が財産・所有物に関する被害(窃盗、器物損壊など)に遭っていましたが、これはシスジェンダーの人しかいない世帯の被害の確率(1000世帯あたり108世帯)よりも高いものでした。
・自身の受けた被害をヘイトクライムとして受け止めている人の割合は、シスジェンダーの人に比べて、トランスジェンダーの人びとの方が高いことが分かりました。
・警察や当局に被害を通報した人の割合は、トランスとシスでそれほど差異はありませんでした。どちらも、半分くらいの犯罪被害は通報されていません。

 まとめると、トランスの人びとはシスの人びとよりもかなり暴力被害に遭いやすく、財産・所有物に対する被害にも遭いやすいことが分かります。また、自身が受けた暴力被害などがヘイトに動機づけられている、と認識している人も多く、トランスジェンダーに対する社会の憎悪が、こうした犯罪被害の高さを生んでいると考えられます。

 主たる結果も紹介したので、ここからは今回の調査報告について背景も含めて紹介していきます。

 

3・調査の背景
 まず調査の背景です。トランスの人びとの犯罪被害については、事例データやサンプル数が少ない研究では、すでにその被害のリスクの高さが知られていました。なおここで犯罪被害とは、法律を犯した他者の行為によって、ある人自身もしくはその人の財産が棄損され・傷つけられることを言います。
 しかしヘイトクライムの調査を除けば、こうした問題に取り組む全米規模でのデータには、限られたものしか存在しませんでした。そんな折、致死的ではないタイプの犯罪被害の統計をとるために2016年に開始された全米犯罪被害調査(NCVS)において、調査回答者の性的指向性自認が記録されることになりました。LGBTの人たちの犯罪被害の実態を、統計的に知ることができることになったということです。
 調査開始1年後、2017年時点のデータでは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、そしてトランスジェンダー(つまりLGBT)の人びとと、シスジェンダー異性愛者とで、被害に遭う確率がかなり違っていることが明らかになりました。とはいえ、サンプルサイズが小さかったために、LGBTの中のサブグループ(例えばバイセクシュアルの女性や、トランスの人びと)に関する分析に制約が残りました。
 そこで、データをさらに集め2年分収集したところ、USにおけるトランスの成人における、全米規模での犯罪被害の実態を推計するための最初の知見を得ることができました。今回の報告書(論文)は、その成果を記したものになります。

4.調査の方法
  以上のように、この調査報告は、全米犯罪被害者調査(NCVS)より、2017~2018の2年間にかけて集積された犯罪被害のデータを分析した結果をまとめたものです。部分的に繰り返しますが、NCVSとは、合衆国に世帯をもつ12歳以上の人びとを登録した全米規模の調査で、警察に通報されたものも、通報されなかったものも含めて、犯罪被害のデータを集積しています。今回の調査で使用されたデータは、2017年と2018年の2年分のデータであり、そこには296,563の世帯と482,469の個人が含まれています。
 今回の調査では、出生時に割り当てられた性別とは異なるジェンダーアイデンティティを現在有する人、および(出生時の割り当ての回答を拒否したとしても)調査に対して「トランスジェンダーである」と回答した人が「トランスジェンダー」に分類されています。
 その分類基準によれば、2016-2017年のサンプルのうち、全体の0.1%(n=420)の回答者がトランスジェンダーであり、99.9%がシスジェンダーでした(n = 435 061)。うち、トランスジェンダー男性が181人、トランスジェンダー女性が188人、そして最後に、出生時の性別割り当ての回答は拒否したものの「トランスジェンダー」であると回答した人が51人いました。以上のように、今回の調査では「ジェンダー・ノンバイナリー」の人びとの状況を独立に評価することはできていません。


5.分析にあたって
 全サンプルをシスジェンダートランスジェンダーで分けた後に、更に現在のジェンダーアイデンティティに沿って区分し、分析しています。①:1000人当たりの対人の暴力被害(傷害など)の割合、②:1000世帯当たりの財産・所有物に関する被害(窃盗など)の割合、③:被害を警察に通報したか否かの割合、そして④:その被害をヘイトクライムとして自分が見なしているか否かの割合、の4点が分析対象です。
 なお世帯については、その世帯に最低1人でもトランスジェンダーの個人がいる世帯が「トランスジェンダーの世帯」として分類され、他方で、1人もトランスジェンダーの人がいない世帯が「シスジェンダーの世帯」として分類されています。


6.結果 主な結果です。

【集団としての傾向】
 シスジェンダーの人びとと、トランスジェンダーの人びとで、人種、エスニシティ、教育などの状況にあまり差異はありませんでした。ただ、トランスの集団には若い人が多く、結婚したことのない人の割合も高率でした。
 また、シスに比べてトランスの人は郊外に住む人が多く、また世帯としても、収入が低い傾向にありました。

暴力被害】
 暴力被害に遭う確率は、シスの人びとでは1000人あたり21.7人でしたが、トランスの人びとでは1000人あたり86.2人でした(odds ratio [OR] =4.24; 90% confidence interval [CI] = 1.49, 7.00)。
 男性でも女性でも、同様の傾向にありました。
 トランスジェンダーの女性が暴力の被害に遭う確率は1000人中86.1人、トランスジェンダーの男性では107.5人でした。これはシスジェンダーの女性(1000人中23.7人; OR= 3.88; 90% CI = 0, 8.55)や、シスジェンダーの男性 (1000人中19.8人; OR= 5.98, 90% CI = 2.09, 9.87)と比べても、高い確率ということになります。
 ただし、トランスジェンダーの男性と、トランスジェンダーの女性のあいだには、有意味な違いはありませんでした(Δ = 21.4; SE = 68.7; P= .76)。 

【財産・所有物への被害】
 トランスジェンダーの人がいる世帯は、財産・所有物に対する被害に遭う確率がシスジェンダーのみの世帯よりも高いことが分かりました。前者では、1000世帯中214.1世帯、後者では1000世帯中108世帯という確率になります(OR = 2.25; 90% CI = 1.19, 3.31)。なおこれは、ジェンダーを問わず同じ傾向でした。

ヘイトクライムとの認識】
 自身が受けた暴力被害をヘイトクライムとして認識しているかどうかについても、トランスジェンダーとシスジェンダーでは大きな違いがありました。
 暴力被害に遭った人のうち、それをヘイトクライムとして認識しているケースは、シスジェンダーの人では9%でしたが、トランスジェンダーでは19%でした(19% vs 9%; Δ = 9.8; SE = 6.2; P = .12)。
 トランスジェンダーの女性と、シスジェンダーの女性のあいだにも、大きな違いが観られました。自身の被った暴力被害がヘイトに基づくものであると認識している人の割合は、それぞれ28%と9%でした (28% vs 9%; Δ = 18.4; SE = 7.7; P = .02)。
 財産・所有物に対する被害がヘイトに動機づけられていると認識している世帯の割合にも、トランスジェンダーとシスジェンダーで4%対1%という差がみられましたが、しかしこれについては標準誤差のばらつきが大きいです。

【警察への通報】
 被害を警察に通報した人の割合は、トランスジェンダーでもシスジェンダーでも、いずれも約半数ほどであり、違いはありませんでした。

 

7.報告書のまとめより
 今回の調査は、アメリカ合衆国の成人のトランスジェンダーにおける犯罪被害を国家規模で分析した、最初の研究だと考えられます。
 ここで示した結果は、トランスジェンダーの人びとがシスジェンダーの人びとに比べて犯罪被害に遭いやすい事実を示しています。
 犯罪被害に遭う確率は、トランスジェンダーの男性と女性で、大きな違いはありませんでした。警察への通報はシスジェンダーと同様に低いですが、これは2015年のトランスジェンダー対象の大規模調査の結果と同じです。(※ここで言う大規模調査とは、この記事の冒頭に紹介した調査を指します)
 これまで、有色のトランス女性が殺害されるような事件にはメディアの注目が集まってきましたが、ここで報告されているようなタイプの犯罪被害の実態には、注目が集まりにくく、トランスジェンダーの女性と男性が同様に被害に遭っているという事実も、知られていませんでした。
 暴力被害に遭ったトランス女性の4人に1人が、それをヘイトクライムとして認識していると言うことも今回明らかになりました。
 ただ、サンプルサイズが依然として小さく、サブグループで細かい分析ができていない点は、この研究の限界です。特に、ジェンダーアイデンティティと人種、エスニシティ、年齢、などの交差を評価することができていません。
 ここで調査した犯罪被害は、自殺率などとも密接にかかわるため、トランスジェンダーの人びとがこうした特異なリスクにさらされていることを認識することは、公衆衛生の向上のためにとても重要だと言うことができます。

8.終わりに
 以上で、報告書の紹介は終わりです。最後まで読んでくださりありがとうございました。トランスジェンダーに限らず、マイノリティ集団はしばしば「社会に危険をもたらす存在」としてイメージされています。そのため、何らかのマイノリティ集団に属する個人が犯した犯罪が、一挙にマイノリティ集団全体へと拡張され、集団全体が「危険な」存在としてフレーミングされる、といったことがおきがちです。
 しかし実際には、言うまでもなく、社会で相対的に力を奪われがちなマイノリティ集団は、犯罪の加害者になる確率よりも、圧倒的に高い割合で、犯罪の被害者になっています。今回紹介したアメリカのデータは、トランスジェンダーという集団について、そのことをはっきりと示しています。
 端的に言います。トランスジェンダーの人は、シスジェンダーの人よりも、4倍もの高い確率で暴力被害に遭っています。そして間違いなく、その暴力の大半は、シスジェンダーの加害者によるものです。ですから、トランスの人びとの特殊な加害性を言い立てる言説は、端的に事実に反したヘイト言説であると言うほかありません。
 このような、無知と偏見の生みだす「危険な存在への恐怖」は、マイノリティ集団を社会からより一層排除するための理屈として用いられます。しかし私たちは知っておく必要があります。トランスジェンダーの人びとは、シスの人びとよりもはるかに暴力の被害に遭っていて、だから必然的に、シスの人たちよりもずっとずっと、トランスの人たちは自分が暴力を受けることを恐れながら生きているということです。

トランス差別の現状(2)全米大規模調査(①概要)

【前書き】

 トランスジェンダーの人たちが置かれている状況を理解するには、様々な方法があります。当事者によるエッセイや自伝を読んだり、ブログを読んだり、Youtubeで動画を検索したり、それ以外にもSNSを除いてみたり、トランスジェンダーの人たちが出てくる映画を観たり、ノンフィクションを読んだり、無数にあります。そんな中で、調査データを参照するというのも、大切な一つの手段です。
 概して、トランスジェンダーの抱える困難は個人化されがちです。「身体の違和感に悩んでいる」という違和の経験を通して、その存在が社会的に認知・可視化されてきた側面も歴史的にはあり、なかば仕方のないことかもしれません。しかし、ことトランスジェンダーに対する「差別」を理解しようとするなら、トランスの人たちが集団として置かれている状況を、幅広く理解する必要があります。
 日本には包括的差別禁止法が存在せず、LGBT理解増進法すら政権与党が制定をしぶっています。LGBTQ+の人びとに対する差別は、存在します。社会が、シスジェンダー異性愛の(健常な・日本人の・男性の…)人たち向けに、初めからデザインされているからです。当然、トランスジェンダーに対する差別も存在します。しかし、その「差別」の実態を理解するには、個々人の語りや、いくつかの特徴的な事例を知っているだけでは十分ではありません。だから昨年から、トランスジェンダーの人たちが集団として置かれている構造的な不正義・差別の現状を知るための手がかりとして、調査データの紹介を個人的に始めました。

 初回は、英国の学校調査を簡単に紹介しました。本当は詳細な項目解説についても紹介したいのですが、時間がなくてすみません。本当はこの記事ももっと早く書きたかったのですが…。

yutorispace.hatenablog.com

 2回目の今回は「全米トランスジェンダー平等センター(National Center for Transgender Equality:NCTE)」による、トランスジェンダーの人びとを対象とした大規模調査の結果を紹介します。NCTEは、トランスの人びとに対する差別と暴力の今月のために作られた、社会正義のための運動体です。トランスの平等を前進させるための政策的変革が喫緊に必要であるという認識のもと、トランスの活動家たちによって2003年に創られました。

transequality.org

  今回紹介するのは、2015年に実施され、2016年に公表された調査の報告書です。トランスジェンダーの人びとの自殺未遂経験率が4割に上る、約半数の人が性暴力被害者である、といった数字を皆さん見たことがあるかもしれませんが、それらの数字の元となっているデータの1つが、この調査です。

※報告書の文献情報は以下の通りです。James, S. E., Herman, J. L., Rankin, S., Keisling, M., Mottet, L., & Anafi, M. (2016). The Report of the 2015 U.S. Transgender Survey. Washington, DC: National Center for Transgender Equality.) オリジナルの報告書はここからダウンロードできます。

www.ustranssurvey.org

 ちなみに、つい最近もNCTEによる7年ぶりの調査が行われていましたが、今から紹介するような報告書が出るのは、おそらく来年だと思います。今回紹介する2015年の前回調査以降、USではトランスジェンダーに対する政治的迫害が急速に深刻化しているため、状況の変化が気になります。
 さて、上記の報告書ですが、300ページ以上あります。そのためこの記事では、報告書の冒頭の冒頭部分に位置する「エグゼクティブ・サマリー(Executive Summary:とりあえずこれだけは読んで!の意味)」を抄訳することにしました。この部分は、「主たる結果(Key Findings)」よりもさらに大まかな調査報告の概要になりますが、これだけですでに4ページ分あります。


【調査について】

・最終的な回答者数は 27,715人。
・匿名のオンライン調査。
・調査対象年齢は18歳以上。
・教育、雇用、家族生活、健康、刑事司法制度との関りについて調査。
・仕事を探す、住居を探す、ヘルスケアにアクセスする、教育を受けるといった、生活のなかでも最も基本的な領域にはびこるトランスジェンダーへの差別の実態を明らかにすることを目的としています。

 それでは、各項目に沿ってサマリーをほぼ全訳していきます。

【虐待と暴力】
 生活のあらゆる領域で、高い確率でトランスジェンダーが虐待やハラスメント、暴力の被害に遭っていることが明らかになった。
 カミングアウトしているトランスジェンダーの10人に1人は、自分がトランスであるという理由で自分に対して暴力的である家族がいると回答している。8%はトランスジェンダーであることを理由に家を追い出されたことがある。
 学校でトランスジェンダーであるとカミングアウトしていた、あるいはトランスジェンダーであると周囲から見なされていた人の大多数は、何らかの虐待的扱いを経験していた。トランスジェンダーであることを理由とした、言葉によるハラスメント(54%)、身体的(物理的)な攻撃(24%)、性犯罪・性暴力(13%)などである。なお回答者の 17%は、深刻な虐待を受けたことが理由で最終的に退学している。
 調査前年に限っても、仕事を持っていた回答者の30%が、仕事の解雇、昇進の拒否、ジェンダーアイデンティティ(=性自認)やジェンダー表現を理由とした虐待などを経験していた。最後の虐待については、言葉によるハラスメント、身体的暴力だけでなく、職場での性暴力・性犯罪などもあった。調査前年に限っても、46%の回答者が、トランスジェンダーであることを理由として言葉でのハラスメントを受け、9%が物理的・身体的攻撃を受けている。調査前年に限っても回答者の10%が性暴力・性犯罪の被害に遭っていた。人生のいずれかの時点で性暴力・性犯罪の被害に遭った人は約半数(47%)に上る。

 

【貧困と住まい】
 USのトランスジェンダーは深刻な経済的苦境のなかにある。回答者の約3分の1(29%)の回答者が貧困を生きているが、これは US一般人口では12%である。貧困の主な理由は、15%にも上る失業率。同時期のUSの一般人口の失業率は5%のため、3倍ほどである。
 持ち家(homeownership)のある人も少なく、USの一般人口63%に比してたった16%である。10人に3人の回答者が、人生のどこかの時点でホームレス状態を経験していた。調査前年に限っても、12%の回答者が、自分がトランスジェンダーであることを理由にホームレス状態を経験している。

 

【身体の健康・メンタルヘルス
 調査回答の直近1カ月のあいだでも、39%の回答者が深刻な心理的苦痛を経験していた。これはUSの一般人口では5%であり、およそ8倍の高さである。
 40%の回答者に自殺未遂の経験があった。USの一般人口では4.6%。
 ヘルスケアを受ける際に、虐待的扱いを受ける確率も高い。調査前年でも3人に1人(33%)の回答者が、トランスジェンダーであることに関係した(性自認ジェンダー表現を理由とした)言葉でのハラスメントや治療拒否などの否定的扱いを医療関係者(=ヘルスケア提供者)から受けている。
 調査前年に限っても、4分の1近く(23%)の回答者が、トランスジェンダーであることを理由に虐待的扱いを受けることを恐れて、必要なはずの医療措置(health care)を受けないことを選択した。経済的な理由で、必要な医療機関に行けなかった人も33%いた。

 

【困難を加速させる要因】
 人種とエスニシティによる経験の違いも大きかった。
 有色(有色人種)のトランスジェンダーは、白人のトランスジェンダーよりもより深刻で広範にわたる差別を経験している。調査対象全体では、トランスジェンダー貧困率はUS一般人口(12%)の2倍だが、有色のトランスたちは、一般人口の3倍から4倍の高確率で貧困状態を生きている。ラティーノ/ラティーナ(Latino/a)43%、アメリカ先住民 (American Indian)41%、マルチレィシャル(multiracial)40%、ブラック(Black)38%、といった数字である。
 有色のトランスの失業率は20%に上る。これは一般人口の4倍。
 健康状態も深刻である。USの一般人口において、HIVと共に生きている人は0.3%だが、有色のトランスジェンダーでは5%に上る。中でもブラック(Black)の回答者が6.7%で特に高く、ブラックのトランスジェンダー女性に限れば、19%という驚くべき数字である。
 市民としての公的証明書のない回答者(undocumented respondents)も、顕著な困難を経験している。調査前年に限っても、約4人に1人(24%)が身体的・物理的暴力を受け、半数の回答者(50%)がホームレス状態を経験し、68%が親密なパートナーから暴力を受けていた。
 障害の有無も異なる経験をもたらす。障害のあるトランスジェンダーの回答者のうち、24%が失業状態にあり、45%が貧困状態のなかを生きている。障害のあるトランスジェンダーのうち、調査回答時点で深刻な心理的苦痛のうちにある回答者が59%おり、自殺未遂の経験のある人も54%いた。医療関係者から虐待的扱いを受けたことのある人も43%に上っていた。

 

【可視化と受容】
 深刻な差別や生活実態が明らかになった一方で、USにおけるトランスジェンダーの可視化と受容(acceptance)の増大によるポジティブな影響もいくらか見られた。その一例は、回答者数である。今回の調査の回答者数は約28,000人だが、これは08-09年調査の約4倍であった。自分たちの声を届けようとするトランスジェンダー当事者の意識の高まりがみられる。
 可視化の高まりは、トランスの男性や女性だけでなく、ノンバイナリーの人びとにも及んでいる。ノンバイナリーには、ジェンダーを持たない(having no gender)、男性でも女性でもないジェンダーである(a gender other than male or female)、1つ以上のジェンダーを有する(more than one gender)などの人びとが含まれる。ノンバイナリーの回答者が、今回の調査の3分の1を占めていた。トランスコミュニティの実態を適切に捉える必要がこれまで以上に増している。
 家族や同僚、同級生などからの受容(acceptance)も増していること分かった。直近の家族にカムアウトしているトランスジェンダーの半数以上(60%)には、トランスジェンダーとしての自分にサポーティブな家族がいる。同僚たちにカムアウトしている回答者の3分の2近く(68%)は、同僚たちがサポーティブであると回答。クラスメイトにカムアウトしている学生の半数以上(56%)は、クラスメイトたちはトランスジェンダーとしての自分をサポートしてくれていると回答している。

 

【まとめ】
 調査からは、トランスの人びとが経験している日々の困難や障壁が明らかになった。トランスの人びとには乗り越えなければならない困難があり、生き延びるためには簡単ではないシステムをどうにかやりくりしなければならない。インクルーシブな社会のなかで、トランスの人びとが満ち足りた生活を送れるようにするためには、公的機関も私的期間も、こうした困難に対処しなければならない。
 そうした対処には、高すぎず、かつ良質な医療を受けるにあたっての障壁をなくすこと、学校や職場、あるいはその他の公的領域での差別を終わらせること、国家や州のレベルで、トランスの人びとのニーズを満たし、困難を減らすための支援体制を作ること等がある。自殺未遂や貧困、失業、暴力被害などの比率の高さは、すぐでも行動を起こす必要性を訴えている。それらをなくすことが絶対に必要。
 2015年までの数年で政策的取組は前進したが、トランスの人びとが差別や暴力のない世界を生きられるようにするには、もっと多くの取り組みが必要であることが明白である。

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 報告書の紹介は以上です。
 余裕があれば、これから「主たる結果(Key Findings)」の方も順に紹介していければと思いますが、もしかしたら欧州の方の大規模調査の結果を先に紹介するかもしれません。この記事が何かの役に立つことを願っています。

出版記念イベントについて

 『トランスジェンダー問題』(拙訳)が出版されて約5カ月が経った。その間、同書の刊行記念イベントとして、いくつものイベントに登壇した。多くの書店さんなどが本書に興味を持ってくださり、企画が次々と立ち上がったのは、本当にありがたいことだった。ただ、そうしてイベントに登壇するなかで、気になることがいくつかあった。以下では、そのなかから書き残しておくべきだと思われることについて書く。

0.はじめに
 社会生活上の行動制限が徐々になくなりつつあるとはいえ、コロナ禍で書店に足を運ぶお客さんが激減したことは、出版界全体にとって大きな変化だっただろうと思う。そうしたなかで、これまで対面が中心だった出版記念イベントのオンライン化が急速に後押しされ、また以前までそうしたイベントを行ったことのない主体(書店等)が、Zoomなどを使って新たに参入するといったことも起きた。
 わたしは、基本的にこの変化を好ましいものだと思っている。東京や大阪に住んでいる人にしかそうしたイベントにアクセスできなかったという、地理的条件がほぼ除かれたのだから、純粋に多くの人たちに機会が開かれる結果になったはずだ。
 加えて、コロナ禍による(実店舗での書籍)売り上げの減少や、昨今の物価高による損失が、そうしたイベントの参加費収入によって少しでも補填されることがあるのなら、これからも書店や出版社が継続的に営業・活動を続けるために、そうしたイベントが活発化することはよいことだと思う。
 そのうえで、やはり――その範囲は明示しないが――業界全体として仕組みを改善できる点があると思われる。以下にわたしが書くことは、以上のような現状認識に立ったうえでのものである。

1.連絡の不透明性について
 この手のイベントは、書店さんなどイベントを主催する機関(以下「主催機関」)から、出版社を経由して、著者・訳者に依頼がくるケースが多い。しかし、イベントの打ち合わせの日程や、当日の段取り、配信環境の説明など、何から何まで出版社があいだに入るかたちで連絡をしなければならないのは、必要以上に手間がかかるプロセスであり、合理性を欠いているように思う。最初の登壇依頼はともかく、それ以降は、主催機関の担当者と、イベントの登壇者で、なるべく直接やりとりできた方が絶対に話が早い。必要に応じて出版社の担当をCCに入れればよいだけの話だ。
 なかには、主催機関の担当者から登壇者まで直接メールを送るのは失礼ではないかと考える人もいるようだが(実際にいた)、なにからなにまで出版社(の担当編集者や営業担当者)をいちいち介して連絡するのは中継する出版社さんにも大きな負担になるうえ、登壇者サイドからすると、やり取りしているはずの主催機関の担当者がいつまでも「見えない」状況に置かれるため、信頼感を醸成しにくく、むしろ連絡に不透明さがつきまとう。主催機関は、主催機関として責任をもって対応してほしい。もちろんこれは主催する各個機関と出版社の力関係の問題でもあるのだが、出版社の編集・営業さんにイベントの連絡と調整を丸投げして、主催機関はZoomの設定だけ行う、といったスタンスはさすがに無責任だと思う。

2.謝礼について
 上記の問題と関連することもあるが、登壇にあたっての謝礼が明示されない仕事の依頼がときどきある。0円なら0円でもいい。絶対に、最初に、明示してほしい。そして、この手の出版記念イベントは当日 90~120分(+事前打ち合わせ1時間)で1万円くらいが相場だ。この価格が適正かどうかも、改めて考えて欲しい。
 例えば、わたしは現在群馬県内に住んでおり、都内の会場に出向くには電車賃だけでも往復1万円弱かかる。この時点で謝礼はほぼ消える。加えて、イベントは夜の時間帯が多いため、登壇のために上京すればほぼ確実に泊まりになる。もちろん、そうした上京の機会に紐づけて、他の出版社さんと打合せをしたり、研究者の知り合いのところを訪れたり、といったことをしているので、純粋にイベントのためだけに交通費・宿泊費を支出しているわけではない。しかし、わたしの赤字を前提としたイベント企画が自明視されているのはいったいどういうことなのだろう、と思うことはある。
 今回いくつものイベントに登壇した。もちろんそれぞれ主催機関の性格は異なっており、Webメディアや書店が主催するものだけでなく、大学主催のトークイベントや、NHK文化センターの「講座」もあった。あまりお金の話はしたくないが、これらのイベントのなかに1つだけ歩合制の仕事があり、そこからは10万円くらいもらった。他方で、当初の謝礼金額が0円のものもあった(※交渉して最終的には1万円もらった)。金額の開きが大きすぎる。
 今回わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者としてイベントに登壇していたが、どのイベントにも非常に多くの来場者があった。イベントごとに参加費(後述)が異なり、単純な人数比較はできないが、無料~1500円くらいの価格帯で毎回 200名~350名くらいの方が来てくれた。これは、この種のイベントでは例外的に数が多いことをわたしは知っているし、全てのイベントを歩合制にしろと言っているわけではもちろんない。しかし、ときにイベントチケットだけで30万円以上のお金が動くこともあるなか、出版社は(営業=販促という建前から)ほぼ手弁当に近く、登壇者もまた1万円で固定、という分配が放置されているのは持続性という観点から問題がある。
 もちろん、イベントが組まれることは訳者・著者としてとてもありがたい。多少の赤字が出たとしても、販促に協力したい気持ちはある。しかし繰り返すが、現状の環境はかなりのていど登壇者と出版社営業部・編集部の負担にただ乗りしている面があり、持続性の点から問題を含む。
 なかには、主催機関ではなく出版社から登壇者に謝礼が支払われるケースもある。登壇者への謝礼が「何に」対する対価であり、「誰が」それを支払うのか、参加費収益のうち、主催機関と出版社での取り分は適正なのか、そのつど考えたうえでイベントを進めてほしい。主催機関がイベントを「出版社による宣伝の機会」としか捉えておらず、そのため登壇者への謝礼も払おうとしないケースが少なからずあるが、わたしにはそれが適正なバランスであるようには思えない。

3.参加費について
 現在、この手の(書店主催の)イベントでは参加費1500円がスタンダードになりつつある。しかし、正直言って高い。一般書が1冊あたり1000~2000円(場合によっては3000円くらい)なのに、出版記念イベントがそれとほぼ同額というのは、少し立ち止まって考えるべきことだと思う。
 とはいえ、わたしが登壇したものに関して言えば、1500円のイベントでも200~250人くらいの参加者が集まっており、その意味で「適正価格」だと言えばそうなのかもしれない。しかし、それは需要と供給のバランスという点からの「適正さ」であって、民主的なしかたで「知」を分配するという観点からは、あまり「適正」ではない。お金がある人しか参加できないからだ。
 加えて、これは素人考えになってしまうが、いまの価格設定は「登壇者に強い興味がある(熱心な)参加者を50人集める」ことでイベントを黒字にしようとするモデルに依拠しているように思う。しかし、やはり「知」を広く分配するという観点からは、そうした「熱心な50人」をターゲットにした企画はあまり望ましくない。
 もちろん、主催機関が営利を求める組織である場合、利潤を求めるのは当然だ。そして、イベントの収益が主催機関の存続ならびに活動に生かされるなら、単発で黒字がでること自体は良いことだと思う。しかしわたしの感覚からすると、1500円はやはり高すぎるし、1500円払っても聞きに来てくれる「熱心な50人」の外側にいるはずの潜在的な参加者へのアプローチ機会として出版記念イベントが機能した方が、結果として書籍はよく流通するのではないかと思う。実際、「800円くらいなら聞いてみたかった…」という理由でイベントを見送った経験がわたしには無数にある。今後、参加費についても各主催機関に再考を願いたい。

4.参加者の安全について

 参加者間でチャットが自由に送付可能・閲覧可能な状態でZoomイベントを開催しようとしている主催機関がいくつもあった。本当にやめてほしい。
 コロナ禍に入って3年になるが、オンライン上のこうしたイベントの、誰でも見られるチャット欄に、トランスジェンダーに対して攻撃的・差別的な書き込みが投下されるのを幾度も目にしてきた。だからわたしは、チャット欄がオープンになっているイベントについては、全て閉じるようお願いした。それは、第一にはとりわけトランスの当事者の人たちが不安を感じないようにするためであり、第二には、誰でも見られる場所に投下された攻撃的・差別的または不適切な表現を含むチャット投稿に対するフォローアップを行うコストを省くことで、わたしがイベントに集中するためでもある。
 ただ、いくつものイベントに登壇して、改めて感じたことがある。たいていの主催機関の人たちは、いまトランスの人たちがオンライン上でどれだけ危険な言葉に暴露され続けているのか、知らないのだ。そんなことも知らずに『トランスジェンダー問題』の刊行記念イベントをしようとしているのかと思うと、正直ばかみたいだと感じることもあった。
 チャット欄を閉鎖するというのは、一時的な措置に過ぎない。そんなことをしても、世の中から差別言説がなくなるわけではない。しかし、せっかく高いお金を払ってリアルタイムで参加してくださっている方たちが、その場で傷ついたり、あるいは傷つく可能性を恐れて集中してイベントに参加できないといったことは、絶対に避けたい。

5.環境について
 
「連絡の不透明性について」で書いたこととも関連するが、イベント直前まで、どのような配信環境なのか不明なことがある。最も困るのは、イベント中に寄せられた質問をどのように登壇者が確認するのか不明、というケースだ。しかし残念ながらそのようなケースは多い。登壇者がリアルの会場で話しつつ、オンラインでも同時配信する場合、登壇者の手もとの端末でZoomの「Q&A」等を閲覧できなければ質問を確認できない。しかし、このレベルの確認すらできないままイベント当日を迎えることがままある。
 ときに、参加者から寄せられた質問は(PC端末を操作する)スタッフが読みあげる、という提案されることもあったが、内容によっては非常に危険な・攻撃的な・差別的な文章がそのまま読みあげられる可能性もあるうえ、質問の回答順序に裁量がきかなくなるため、そうした提案は断った(これは「参加者の安全性について」で書いたこととも重なる問題である)。デフォルトでどのような配信環境なのか、そしてそれによって登壇者と参加者の安全は守られるのか、事前に明確にしたうえで可能ならば登壇者と相談する機会を設けて欲しい。

6.情報保障について
 主催機関には、原則として、ろうの参加者・耳の聞こえない参加者への情報保障を行うことを求める。今回わたしが登壇した一連のイベントのうち、そうした情報保障が適切に遂行できたのは1つだけだった。
 情報保障の手段は、いくつもある。専門の業者に依頼してリアルタイムで字幕を付けることもできれば、登壇者の発言を「UDトーク」等のアプリを経由して字幕化させたうえで、スタッフで漢字の誤変換などを修正し、それを配信することもできる。あるいは人員が少ないようであれば、「UDトーク」による字幕化をそのまま配信することもできる(ただし漢字の誤変換などはそのままである)。場合によっては、リアルタイムでの字幕提供を諦めて、書き起こしスクリプトを提供することもできる。また、コストがかかるとはいえ、録画した動画に都度の字幕を挿入することも事後的に可能である。
 ここで重要なのは、そうした情報保障を「行う」ことに対する特別な理由を探すことではなく、むしろ「なぜ行わないのか」、という問いを立てることである。実際のところ、そのように「行わない」ことはそれだけで特定の人たちをイベントから排除することを意味しているのだから、本来正当化が必要なのは「行う」方ではなく「行わない」方の選択である。
 もちろん、主催機関にもさまざまな制約がある。予算や人員など、すぐには増やせないこともある。しかし「ろうの・耳の聞こえない参加者などいるはずがない」という前提でイベントを続けるのは、いいかげんやめてほしい。現状よりもインクルーシブなかたちに情報提供の手段の拡張することは、確かにコストがかかることがある。しかし繰り返すが、いま問われるべきはそれが「特別なコスト」に感じられる現在の文化・環境が、どのような排除を自明視したうえで成り立っているのか、ということである。

7.書き手と話し手について
 コロナ禍とは無関係に生じていた変化として、SNSにフォロワーを多く持つ人ほど本を出しやすいという、少しだけ困った環境が生まれつつある。編集者さんたちも、いまやSNSを追いかけて「書ける」人間と「売れる」人間を品定めしている。加えて、この「出版記念イベントブーム」により、「書ける」だけでなく「話せる」書き手さんに、今後ますます仕事が集中していくことが懸念される。
 確かに、イベントに多くの人を集められるような、魅力的な話ができる人がいるのは素晴らしいことだ。そして、そうした話し手のおかげで、イベントが盛り上がり、出版社・書店さん・書き手さん・参加者さんが広く利益を受けることがあるのなら、それもまた素晴らしいことだ。しかし、今後そのように「話せる」書き手のところに出版企画が集中するようなことがあれば、出版業界はますます多様性を失うだろう。話をするのが上手くない人、苦手な人にだって、優れた書き手は絶対にいる。
 加えて、マイノリティの人権にまつわることについて書いたり、表現したりする人たちは、しばしばそのマイノリティ性と共に生きていることが多いため、そのようなイベントへの登壇は、そうした人に対して大きな負担・リスクを生み出す。そのこともぜひ覚えておいて欲しい。何が言いたいかというと、この種のイベントで「話せる」書き手であること自体が、一種の特権だということだ。
 ここでは特に、顔や声をさらすことが生活に大きなリスクを生み出すという、少なからぬトランスの人たちの状況を想像してみて欲しい。そのうえで、そのような心配を抱かずにイベントに登壇できる(シスジェンダーの)人たちがどれだけ恵まれた環境にいるのかについても、どうか想像を巡らせてほしい。

8.今後について
 『トランスジェンダー問題』が刊行されてから約5カ月、継続的にイベントに登壇する機会があった。本当にありがたいことだと思う。しかし、今後わたしと同じような属性の書き手さんが増えたとき、あるいは今回のわたしと同様にトランスのトピックについて積極的に表に出てイベントに登壇する機会のある人が生まれたとき、そうした人たちが不当に搾取されたり、危険にさらされたりする環境をわたしは残したくない。今回この記事を書いた最大の動機は、その点にある。
 わたし個人については、それほど問題はない。わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者印税をすべて献本に回すような人間だし、イベントの謝礼の多寡が生活に直結するといったこともない。だからこそわたしは、出版記念イベントをめぐる環境がきちんと整えられることを強く願う。わたしのように様々な余裕のある人間が適当に身銭を切って販売促進に協力して、これまで書いてきたような色々なことがうやむやにされたまま、よくない慣行が放置され、登壇者と参加者の安全が損なわれるような状況が放置される限り、とりわけ差別や人権にまつわる出版の環境はよくはならない。
 わたしは気まぐれでこの翻訳を引き受けたわけではない。わたしは、『トランスジェンダー問題』のあとにつづく本のために、この本の翻訳を引き受けた。いま、LGBTトランスジェンダーにまつわるトピックには、著しい「知の需要」がある。その需要に応えるべき出版社や書店さんたちが、少しでもよいかたちで出版記念イベントを継続できるように、わたしが気づいたことをいくつか書き残した。数年後、なんでもないひとりのお客さんとして、わたしは誰かの出版記念イベントに安心して参加したいのだ。

ジュンク堂池袋店:『布団の中から蜂起せよ』高島鈴さんとトークイベントします

 今週土曜日(18日)19時半~21時、ジュンク堂池袋本店さんの主催するイベントで、『布団の中から蜂起せよ』著者の高島鈴さんとお話しする機会をいただきました。同書ならびに拙訳『トランスジェンダー問題』の刊行記念イベントになります。

2/18『トランスジェンダー問題』『布団の中から蜂起せよ』発刊記念 高井ゆと里×高島鈴トークイベントonline.maruzenjunkudo.co.jp

(Webあかしのこちらの窓口の方が見やすいかもしれません。)

webmedia.akashi.co.jp

 今日打合せをしてきました。毎度のことながら、たのしくなりそう!です。

 『トランスジェンダー問題』と『布団の中から蜂起せよ』。もしかすると、発売後興味を持ってくださった方の読者層は重なっている部分が大きかったかもしれません。実際のところ、反資本主義、フェミニズム、反国家暴力といった基本的な視角を2冊は共有してもいます。しかし、訳者と著者である私たちは、両者がどれほど「似ていないか」を知っています。

 まずは文体。『布団の中から蜂起せよ』を読んだ方は、まず何よりもその文体に圧倒されたでしょう。アジ文と言えば、そう。ただ、前提と理由づけをひとつひとつ詰めていくのではない、高島さんの言葉は、そうでなければ届かなかったところへと私たちの想像力を引っ張っていきます。そうした文体は、『トランスジェンダー問題』とは正反対です。なぜそのような差異が生まれたのか。そしてその差異が、単に言葉づかいや叙述のスタイルを超えて、どのように2冊の内容を支え、また制約しているのか。イベントではその辺をお話しできそうです。

 加えて『トランスジェンダー問題』は翻訳です。著者であるフェイさんの英語と、わたしの翻訳による日本語には、文体のレベルで大きな違いがあります。原書を読んでいた方なら、気づいているでしょう。そこでのわたしの選択についても、お話しできればと思います。

 しまった。延々と書きそうなので、ここまでにします。文体の他にも、自己を語ることの意味とか、国家というシステムそのものとの向き合い方、フェミニズムルッキズムあるいは「見た目」との交渉(ネゴシエーション)について、等々についても話せたらいいですね、ということで今日の打ち合わせは終えました。
 また、私たちは共に研究者ですから、個人の能力を示すための「生産」に駆り立てられ、個人間競争の極みとしての様相を呈している現在のアカデミアの構造的問題についても、時間があれば話そうと思います。わたしは、大きな断絶を含みつつも、この異常な環境下に適応し、ここまで生きてきました。ただ、ここまできて思います。人がこんなにも切断され、負債を背負わされ、自己の能力と向き合い続け苦しみ続けなければならないシステムに社会の学知の再生産を委ねるのは、はっきり間違っていると。

 当日のジュンク堂池袋店には、わたしと高島さんだけが集まって、そこからオンライン配信(のみ)ですので、ご注意ください。また、配信視聴チケットと同じ権利で、イベント後1週間はアーカイブ動画が観られます。

 それでは、土曜日にお会いしましょう。(現時点で予定されている『トランスジェンダー問題』の刊行記念イベントは、これでいったん最後になります)

『ホワイト・フェミニズムを解体する』と『トランスジェンダー問題』合同イベントお知らせ

 明後日2月5日に Readin' Writin BOOK STORE さんの主催で、わたしの訳した『トランスジェンダー問題』と、カイラ・シュラーさん著『ホワイト・フェミニズムを解体する』の2冊をとりあげたイベントが開催されます。わたしと、後者の監訳者である飯野由里子さんのふたりで、2冊の魅力を語ったり、それらを日本でどのように読むべきか話し合ったりする予定です。先ほどイベントの打合せをしてきましたが、とっても楽しいイベントになりそうです。以下より申し込みができます。

https://readinwritin230205.peatix.com/

 ちなみにこれは、Readin' Writin BOOK STOREで展開中の「明石書店フェア」の一環とのことです。明石書店が果たしてきた役割の大きさを想いつつ、実店舗でのフェアを拝見するのも楽しみです。

 さて、『トランスジェンダー問題』の第7章はフェミニズムトランスジェンダーの関係について扱っており、『ホワイト・フェミニズムを解体する』も第6章で同じテーマに集中的に取り組んでいます。特に後者の方は、アメリカのフェミニズム史においてよく知られている、トランス女性サンディ・ストーンに対する暴力的な非難・攻撃と、逆にストーンと共に歩んだレズビアンフェミニストたちの歴史について、比較的詳しく扱っているので、関心がある方には非常にお勧めです。すでに日本語で読める情報源だと、山田さんの以下の記事で少し触れられています。

wezz-y.com

 イベント当日は、このフェミニズムトランスジェンダー(の存在・政治学)のあいだの歴史的な関係や、現在の状況について、2冊の本をベースに話すところから始めようと思います。その後、国家暴力や人種差別とフェミニズムについて、また医療アクセスや障害の政治についても、議論を進めていく予定です。

 対談相手の飯野さんは、わたしが大学に入学した初年度(09年)に、障害学のゼミでお世話になった教員のひとりです。平日の夜、東京大学駒場第Ⅱキャンパスまでキャンパス間を歩いて移動し、ピカピカの研究所でゼミに出ていました。昨日のことのように覚えています。「全盲ろうの東大教授」として有名になった福島智さんや、『障害とは何か』を出版したばかりの星加良司さんが集う、今振り返っても贅沢なゼミでした。

 わたしはその後すぐ、2年次のはじめには、駒場キャンパスを離れて本郷へと拠点を移し、哲学研究に本格的に打ち込んでしまうのですが、この障害学のゼミで学んだ「障害の社会モデル」の衝撃と、フェミニストである飯野さんとの出会いは、わたしの存在にその後も深いところで影響を与え続けていると感じます。

 上記の経緯により、ゼミで知り合った飯野さんとの個人的な親交はいちど10年近く途絶えたのですが、いろいろなきっかけにより数年前から再び繋がりを得ることができ、今回こうして2冊の本の「訳者として」イベントで相まみえることになりました。14年前のわたしに、言ってあげたい。よくそのゼミを選んだね、大正解だよって。

 飯野さんは、ふぇみ・ゼミの運営委員でもあります。インターセクショナル・フェミニズムを日本に具体化する、次の世代のフェミニストを育てる、妥協なくフェミニズムを実践する。わたしも寄付者としてに過ぎませんが、ここ数年ふぇみ・ゼミと関わりをもち、また学びを得ています。明後日のイベントでは、ふぇみ・ゼミのことも聞けたらいいな。

 ちなみに『ホワイト・フェミニズムを解体する』は発売して間もないですから、未読の方も多いと思います。詳しい内容紹介をする機会ではありませんが、どのような本なのか、なぜ重要なのか、まだお読みでない方にもイベントではお伝えできるよう頑張ります。なお、わたしなりの視点からになりますが、書籍紹介も書いています。

yutorispace.hatenablog.com

 最後に、残念なお知らせです。イベントでのUDトーク(字幕)配信をお願いしていましたが、諸事情により都合がつかず、今回のイベントは音声での会話・対談が聞き取れる方のみを対象としたものとなりました。優生思想についての議論も2冊に共通しているうえ、障害学を専門の一つとする飯野さんとのイベントなので、ぜひUDトークを入れていただきたかったのですが、こうした結果になり少し悲しいです。

 イベントの実施にあたり、誰かが負担を背負い過ぎたり、企画してくださる書店さんが赤字になったりすることはもちろん避けるべきなのですが、マイノリティの権利回復や社会正義を取り扱うこうしたイベントだからこそ、その「デフォルト」にすでに含まれた差別や偏りは、できるだけ減らしていけるよう、関係する皆さんとはこれからもできる範囲で交渉したいと思います。

 それでは、明後日にお会いしましょう。

フェミニズムはひとつではない:書籍紹介『ホワイト・フェミニズムを解体する』

 明石書店から発売されたばかりのカイラ・シュラー著『ホワイト・フェミニズムを解体する:インターセクショナル・フェミニズムによる対抗史』(飯野由里子 監訳;川副 智子 訳)がとても素晴らしかったので、紹介を書く。いま、フェミニズムを考え、実践するために、知っておくとよいことがたくさん書かれている。

1.フェミニズムはひとつではない

 フェミニズムが性差別をなくすための諸実践(理論、運動、思想、創作、発信、ケア etc...)の総体として定義できるのなら、フェミニズムはただひとつの本質的な特徴を持っている、と言えそうだ。しかし『ホワイト・フェミニズムを解体する』が私たちに突き付けるフェミニズムの歴史は、フェミニズムが決して「ひとつ」ではないことを教えている。
 そうしたフェミニズムの複数性は、本書ではなによりも、ホワイト・フェミニズム(White Feminism)と、それに対抗するインターセクショナル・フェミニズムというかたちで提示される。なぜ、そのようにフェミニズムを「分け」て、複数化させるのか。それは、前者のホワイト・フェミニズムが(女性であるという点以外の)様々なマイノリティ集団を積極的に抑圧し、結果としてマイノリティ女性たちを排除してきたからである。
 例えば、アメリカの女性参政権獲得運動で大きな役割を果たしたスタントンは、明らかにフェミニスト的な意識に基づきつつ次のように述べていた。

ですが、女性の教育と地位向上によって、アングロサクソン人種を奮い立たせ、今よりもっと高みにある崇高な生き方へ導く力を手に入れられます。そうすれば、引力の法則によって全人種をもっと水平な場所に載せることができるのです。(本書p.62)

 スタントンは白人の人種的優位を決して疑わず、白人女性が文明社会を導けば「その他の人種の人びと」にも良いことがあると力説した。そして彼女は、女性参政権よりも黒人(男性)の参政権が先に獲得される趨勢が明らかとなるや、「外から来た未開人」「不幸にも堕落した黒人人種」、「旧世界の不毛な文明」との戦いに自分は身を捧げたと述べ、「洗練された知性ある女性」である自分たちよりも黒人男性の方が上位に置かれていることに不平を漏らした。スタントンは、海運王ジョージ・フランシス・トレインのような、露骨な人種差別者とも手を組んでいる。
 もう一人の例を挙げる。産児調節運動の「顏」でもあるマーガレット・サンガーは、安価な避妊法の普及に努め、女性たちの生と生殖の健康と権利を守ることに生涯を捧げたフェミニストとして知られている。日本にも訪れたことがあり、国内でも肯定的な評価が定着しているように思う。しかしサンガーにとっての「避妊」には、単に女性が自らのセクシュアリティを自律的に生きられるようにする、ということ以上の目的が明確に存在していた。サンガーは、「不適格者」の人口を減らすための強力な手段として、バース・コントロールを理解していたのである。
 たとえば彼女は、「自然の摂理に背く」との産児調節運動への非難に対して、産児制限はむしろ「不適格者の排除と障害者または将来障害者になるであろう人々の誕生の阻止」によって、適格者の生存を後押し、そちらへと傾いた自然のながれに掉さすものであると考えていた(本書p.168)。
 同様の思想は、サンガーが立ち上げた産児調節連盟の声明文にも確認できる。

わたしたちは国家の健康で適格な構成員が不適格者という重荷を背負っているのを見ています。(…)わたしたちは不適格者や精神異常者のために、精神薄弱者のために――けっして生まれるべきではなかった人々のために――立派な住まいを建て、それらの人々の存在が次世代に引き継がれるのが許されていることについて、なにも語ってきませんでした。今こそ一丸となって、この根源的な不幸と無知と怠慢と犯罪のまえで立ち止まらなければなりません。これが産児制限運動のプログラムです。(本書p.179)

 避妊法を普及させようとするサンガーの運動は、保守的な性道徳への挑戦として受け止められ、全米で大きな反発を浴びていた。コムストック法で何度も逮捕されている。しかし、そうしたサンガーを支えた後ろ盾のひとりは、KKKクー・クラックス・クラン)にも所属する白人至上主義者であり、かつ、優生学推進論者でもあるロスロップ・ストッダードだった。アメリカの大半の州が優生学から手を引いていた1950年代になっても、サンガーは「不適格女性」の政策的な不妊化を支持していた。ようするに、ゴリゴリの優生思想家だったということだ。(ここで私たちは、日本の優生保護法が「優生条項」と「母体保護条項」の2つでできていたことを想起する。)
 このように、人種的マジョリティの、健常な、中流~上流階級の女性たちによって担われたフェミニズム――すなわち本書のいう「ホワイト・フェミニズム」――は、黒人の人びとや障害のある人々など、他のマイノリティ集団を積極的に抑圧することがあった。そしてそれは、そうした集団にもたくさん含まれるはずの、マイノリティ女性を「フェミニズム」から排除し続けるものでもあった。
 しかし、全てのフェミニストがそのように有害さを振るっていたわけではない。本書『ホワイト・フェミニズムを解体する』が力説するのは、そうしたマジョリティ女性中心のフェミニズム運動が盛り上がるたびごとに、その問題を指摘し、対峙し、また同時に別のフェミニズムを推し進めてきた、そうした「インターセクショナル・フェミニズム」が存在してきたという事実だ。
 先のスタントンと同時代には、フランシス・ハーパーがいた。ハーパーは「女性」というロジックが白人フェミニストに都合よく用いられていると指摘し、人種を些細な論点として脇へ追いやる当時のフェミニストたちを非難した(本書p.37)。ハーパーはそうした辛辣なホワイト・フェミニズム批判と並行して、その巧みな演説の技能を使って南部の女性たちを鼓舞し続けた。サンガーと同じ時代を生きたフェミニストにも、サンガーが「不適格者」としてひとまとめにした貧困層を生きる黒人女性の健康のために奔走したドクター・フェレビーがいた。
 フェミニズムは、ひとつではない。フェミニズムが具体的な人々の実践として、特定の時代・地域にあらわれるや、フェミニズムはその時代・地域において機能するさまざまな制度的不正義を内側にとりこんでしまうことがある。しかしそれに対抗し、新たな道を示してきたのもまた、フェミニズムだ。本書『ホワイト・フェミニズムを解体する』が私たちに教えるのは、そうした複数のフェミニズムが歴史の中に存在し続けてきたということである。

2.インターセクショナル・フェミニズムは新しくない

 こうした本書のスタンスは、近年の「フェミニズム史」で語られるひとつの認識に正面から異を唱えるものでもある。それは、「インターセクショナル・フェミニズムは第3波フェミニズムにおいて/第3波として生まれた」という認識である。
 こうした認識が、いつ、どこで生まれたのかは分からない。もしかすると、「インターセクショナリティ」という言葉をキンバレー・クレンショーが生み出したのが1989年だったという、それだけのことかもしれない。ともあれ、『ホワイト・フェミニズムを解体する』の著者カイラ・シュラーは、インターセクショナル・フェミニズムにたった30年と少しの歴史しか存在しないなどという、こうした認識をはっきり拒否する。
 むしろ、インターセクショナル・フェミニズムの歴史はフェミニズムの歴史と同じだけ長い。これが著者の認識である。フェミニズムが誰かによって具体化され、その社会で力をもつ女性たちがマイノリティ女性たちを抑圧し、害してきたそのたびごとに、インターセクショナルな視点をもったフェミニストは生まれてきた。それが『ホワイト・フェミニズムを解体する』の一貫した理解である。
 私たちは、考えるべきだ。白人の中産階級の女性たちが中心になっていたフェミニズムが、あるときマイノリティ女性から異議申し立てを受け、(90年代/第3波以降は)そうした反省を踏まえて「インターセクショナル・フェミニズム」へと「進化」してきたという歴史認識が依拠する枠組みに、はたして問題はないか。そうした認識枠組み自体が、その時代その時代にあったはずの様々な「インターセクショナル・フェミニズム」を不可視化する危険をもっているのではないか。私たちは考えるべきだ。

3.インターセクショナリティとは何か

 加えて、著者の「インターセクショナリティ」概念そのものとの向き合い方からも、学ぶべきことがある。ここで詳しく論じることはしないが、著者は「インターセクショナリティ」という概念は個人の経験やアイデンティティの記述のために用いるものではないと考えている。一か所引用する。

ひとりの人間がいるだけでは交差的にはなりえないし、ひとつの政治学のみでも交差的にはなりえない。周縁化された人々の経験はありとあらゆる形をとって権力の真の仕組みをむき出しにする。アイデンティティはインターセクショナリティの主要部分を成しているが、提供するのは標的ではなくレンズだ。筆者の盟友であるブリトニー・クーパーの言葉を借りるなら、インターセクショナリティは「アイデンティティの説明としてつくられたのではけっしてない。それは権力の構造がいかに相互に作用しあうかという説明であったはずだ」(本書p.20)

 インターセクショナリティは、権力の交差性を解き明かすための視座であり、ポリティクスの姿勢である。これが『ホワイト・フェミニズムを解体する』の一貫した概念理解であり、そうした理解に基づきつつ、著者はこの概念(インターセクショナリティ)が昨今骨抜きにされつつあることを懸念する。この概念をクレンショーが考案するにいたったブラック・フェミニズムの眼目を、これもまた誤解されることの多い「アイデンティティ・ポリティクス」という概念とともに、改めて考える必要があるだろう(本書p.355)。

4.ホワイト・フェミニズムは解体されるべき

 以上の「インターセクショナリティ」理解はまた、ホワイト・フェミニズムは解体されるべきだという筆者の断固たる立場にも通じている。
 筆者は、一部の恵まれた女性だけがフェミニズムを主導するあり方を変え、その「主流派フェミニズム」にマイノリティ女性たちを「包摂」すればよいのでは、というリベラルな発想を拒否する。なぜなら、そうした主流派フェミニズム――本書でいう「ホワイト・フェミニズム」――は、全ての女性は女性であるだけで同一の経験をしているという神話と、性差別以外の構造的不正義は性差別よりも重要ではないという、2つの誤った前提に立っているからである。
 以下は、トランス排除的フェミニズムを論じる第6章からの引用である。

レイモンドが描いたTERFの枠組みは、性別による抑圧が抑圧の最上位の形だとする聞き覚えのある前提に依拠している。モーガン、レイモンド、ヴォーゲル、その仲間たちは、この宇宙には不当かつ一方的に繁栄を妨げられてきた普遍的な女性の肉体と体験のようなものが存在するという例のファンタジーの長い政治的伝統を新たに反復・進展させたわけだ。TERFの世界観では、人種も資本主義も家族もすべて、疑いの余地なく補助的な要素であって、第一の要素は生物学的な性(…)である。(…)TERFポリティクスの中心には、生物学的にも同様のルーツをもつとされる偽の普遍的「女性」が置かれている。(本書p.277)

 たとえ性差別が普遍的に存在するとしても、全女性に共通の普遍的な性差別の経験があるわけではない。その事実を見誤り、性差だけを抑圧の最大決定項として同定することは、「男性=抑圧者」「女性=被害者」の固着した構図でなにもかも世界を理解するという短絡を許してしまう。それは第一に、資本主義や人種主義、健常主義などが生み出す不正義の存在を抹消し、そして第二に、それらの不正義がプリセットされた「社会」でできるだけ多くの女性が権力を手にすることがフェミニズムであるという、完全に誤った認識を可能にする。
 「男が女を抑圧しているのだから、男から女が権力を取り戻さなければならない」。まったく正しい主張に思う。しかし、そこでやり取りされる「権力」の源が、資本主義や健常主義、帝国主義に由来するものであるかぎり、そうして権威ある立場にたどり着けるのは一部の恵まれた女性だけだ。だから、上の主張に安易に賛同すべきではない。
 例えば、Twitterでもどこでも「ジェンダーギャップ指数」が好んで引用されるのを目にするが、そうした引用を常とするフェミニストたちは、あの数字を発表しているのが世界経済フォーラムである事実をどのように理解しているのだろうか。また、ときに「フェミニスト」を自認する人間が、女性天皇の誕生を望むとか、皇族の自由恋愛に女性の解放を見たとか述べていることがあるが、これらに関しては端的に反吐が出る。
 主流派フェミニズム(ホワイト・フェミニズム)は、修正されるのではなく解体されるべきだ。それは、性差だけを重視し、その他の不正義を容認し、過去の過ちから目をそらし、結局は多くの女性たちの状況をも悪いままにするからである。

 

5.この本を日本で読む

 本書『ホワイト・フェミニズムを解体する』には、監訳者である飯野由里子さんの手による「監訳者解説」が付記されている。ここに全文を引用したいくらい、本書が日本語に訳されたことの意義を高めているように思う。
 監訳者解説の核心は、この本を日本でどのように読むか、という点にある。『ホワイト・フェミニズムを解体する』はアメリカのフェミニズム史をたどった書籍だが、日本のフェミニズムの歴史にもまた、マジョリティ女性を中心化したフェミニズムや、それに対する対抗史が存在している。在日コリアンの女性、沖縄の女性、アイヌの女性、障害女性、クィア女性、トランス女性…。飯野さんが監訳者解題で挙げるこうしたマイノリティ女性たちの運動、フェミニズム史に、しかし私たちはどれほど敬意を払い、また自分たちのあり方を問うことをしてきたか。各人に問われるこの厳しい問いを抜きに本書で「勉強する」ことは、正しい本書の読みかたではないだろう。
 それはまた、単に日本のフェミニズムの歴史をどう理解するかということのみならず、今まさにフェミニズムの名の下に生み出されている暴力や抑圧への加担をどのように削り取り、またジェンダーの軸に限らず、社会正義を求めるさまざまな運動と「フェミニズムが」どのように向き合うべきかを考えることでもある。

もちろん、何世紀にもわたり再生産・強化されてきた差別と搾取と抑圧の構造にヒビを入れていくのは容易な作業ではない。だが、一部の女性の成功や地位の向上や特権の獲得のために、社会の中ですでに不利な状態に置かれている他の人びとを犠牲にしないフェミニズムを実践していこうと努力することは可能だ。もし、ジェンダー平等を求める闘いが、人種・エスニシティ、国籍、性的指向性自認、障害における平等を求めるさまざまな闘いと連携する機会を見過ごさず、積極的にコミットしていこうとするならば、私たちにはまだまだ希望がある。(本書p.370)

私たちに与えられた選択肢は「フェミニズムに賛成するか、否か」ではない。どのようにインターセクショナルなフェミニズムを実践するか、である。それはとても面倒で、苦しい問いだと思う。しかしフェミニズムがひとつではない以上、本当は私たちは一度だってこの問いを免れたことはないはずだ。そして、確かに希望はある。

 この翻訳を出版した明石書店に感謝する。ぜひ、広く読まれて欲しい一冊である。

ばらばらにされた1つの権利

 2023年の1月6日の朝日新聞オピニオン欄「無関心に向き合う」。石原燃(いしはら・ねん)さんの寄稿に胸を打たれたので、記録を書いている。(…ちなみに、新年のオピニオン欄は「「覚悟」の時代に」という統一的なテーマで寄稿やインタビューが掲載されていたが、この「覚悟」云々というテーマはいらなかったと思う。このテーマを掲げることの意図が、分からなかった。)

 石原さんの文章は、Twitterでもかなり広くシェアされていたと思う。

digital.asahi.com

 今回おそらく多くの人の支持や共感を集めたのは、マイノリティの人権が多数派の意志に左右されることや、人権が「思いやり」にすり替えられている日本の公的機関の空虚さと致命的誤解についての論点だったと思う。実際、紙面の大見出しも「理解なき多数者から軽んじられる人権 もううんざりだ」だし、デジタル版の見出しも「うんざりだ、人権を「多数決」で決める無関心な社会」だから、この論点は間違いなく文章の中心点だ。

 ただ、わたしはそれと少し違った点に感銘を受けていた。というか、日ごろから心の底で考えていたけれど、表に出るのをうっすら抑えていた思考を引きずり出された。 それは、ひとつひとつがバラバラであることを強いられる現実に対する葛藤だ。

 この文章では、生殖を取り巻く人権軽視の現実が、様々なケース事例をまじえつつ通覧される。2022年末の嬰児の遺棄事件、(まだ記憶に新しい)2019年の就活性の同様の遺棄事件、性教育の欠乏、中絶や避妊具へのアクセスの悪さ/高いハードル、一向に承認されない中絶薬…。産む/産まないをめぐる生殖の権利に注視する石原さんのまなざしは、この国の「健常な日本人の女性」以外の人々にも向かう。トランスジェンダー男性やノンバイナリーの人々、障害と共に生きる人もいれば、中絶や出産についての情報を必要としている人が日本人・日本民族の人とは限らない。短い紙面のなかで、そうした周縁化されがちな集団についても石原さんはそっとひとつずつ言葉を配る。触れないといけないから、とお飾りていどに触れるのではない。それぞれわずかずつしか文字を割けないことへの口惜しさが紙面からにじむ。

 しかしそうした通覧の作業に、わたしは著者のもどかしさを感じた。

 石原さんが「中絶薬」を使って中絶する人物をとりまく6人の「女性」たちの演劇を上演したときのこと。「中絶薬さえ承認されればいいというわけではないのに」といった感想が耳に入ったそうだ。もちろん、そんなことは石原さんも誰も考えていない。「中絶薬さえ承認されればいいなんて思っている人は、おそらくいない。」

 ただ、様々な社会課題が、こうしてバラバラに位置づけられて理解されてしまう状況は、なにもこの感想に限られない。存在するのは、「性と生殖に関する健康と権利(リプロダクティブ・ヘルスアンドライツ)」という、ただひとつの人権だ。

しかし日本では、妊娠する身体を持つ人の「性と生殖に関する健康と権利」を実現しなくてはならないという共通目標が掲げられていないので、さまざまな課題をつなぐものがなく、すべてが細ぎれにされてしまう。匿名出産などの「産む支援」は乳児の命を守るという文脈で議論され、不妊治療は少子化対策の文脈で推進される。そして、避妊や中絶派、病院の経営的観点や、「性が乱れる」という家父長的な価値観でハードルが設定される。

 すべてが、ばらばらにされる。本当は、生殖の権利というただひとつの権利が、すべての人に保障されるべきだ。それだけのことなのに。

 有名なカイロ行動計画の定義に結実していった生殖の権利という発想は、はじめから、産むか産まないかを決める権利、どのような間隔で/どれくらい産むかを決める権利、適切な健康情報や避妊手段にアクセスする権利、母子(出産する人とその子ども)が安全に時間を過ごす権利などを含んでいた。

 その権利の内実は、確かに多様だ。しかしそれは、生殖の権利が雑多な寄せ集めだということを意味しない。なぜなら、こうした内実の豊かさは、世界中の多種多様な状況に置かれた人々には多種多様な状況があるという、ただその事実を反映しているに過ぎないからだ。

 すこし雑なアナロジーになってしまうけれど、例えば日本とアメリカとイタリアと中国と、それぞれの国・地域において「表現の自由」として目下求められるものには差異がある。しかし、それぞれの国・地域において求められる「表現の自由」の内実が多様であるとしても、そこにあるのはただ1つの権利だ。それと同じように、「生殖の権利」として切実に求められるものの内実は、国・地域によって異なるだろうし、同じ国・地域のなかでも、人種的マジョリティか/マイノリティか、(その社会において)障害があるか/ないか、中流階級か/貧困を生きているか、等々によっても異なる。

 カイロ行動計画の「生殖の権利」の説明は、確かに複雑な政治的妥協の産物だし、冗長だ。それは否定できない。でもわたしは、「生殖の権利」という、もともとは非白人女性たちの権利運動から生まれ洗練されていったはずの概念が、このように多様な内実とともに理解されていることは必然だと思うし、また誠実だと思う。なぜなら、妊娠を経験する人たちが置かれた状況は一様ではないし、生殖をとりまくニーズは中絶薬1つや不妊治療のひとつで一挙に解消するようなものではないからだ。

 にもかかわらず、ばらばらにされる。中絶薬のこと、不妊治療の保険適用のこと、匿名出産のこと、妊娠した技能実習生の強制帰国のこと、外国人への医療情報の保障のこと、性別承認法(特例法)におけるトランスジェンダー不妊化要件のこと、障害者への優生上の理由に基づく不妊化のこと…。同じ1つの権利の問題、統一的な人権の問題のはずなのに、それぞれに次々とステークホルダーが用意され、ばらばらの壁が立ちはだかり、それぞれの場所で、ばらばらに闘うように強いられているように感じる。

 そして、それぞれのばらばらの現場で、マイノリティの権利はマジョリティによる多数決によって左右されてしまう。

マイノリティ―の人権は、マジョリティーの理解がどうあれ、実現されなくてはならないことなのに、人権ってなんかうさん臭いという偏見のなかで、多数決に勝つことを求められるのは、もううんざりだ。

 うんざりだ。全てがばらばらにされてしまう現実がうんざりだ。

 わたしの尊敬する女性運動家の大先輩が教えてくれた歴史がある。1996年まで日本にあった優生保護法は、2つのパートでできていた。1つ目は「母性保護条項」。今も母体保護法として残っているが、ここに含まれた「経済的理由」によって、日本では妊娠中絶が事実上は合法化されている(※堕胎罪があるので原則は違法)。もう1つのパートは「優生条項」――「不良な子孫の出生を防止」するために、障害者や貧しい人々、あるいは性的行動に「乱れ」を指摘された人々に対する、優生上の理由に基づく不妊化を国として支えていた。

 70年代初頭と80年代初頭、「経済的理由」による中絶を禁止し、日本での中絶を全面的に禁止しようとする政治的な動きがあった。今と変わらない、自民党はいつも生殖の権利を踏みにじろうとする。当時の女性運動・フェミニズム運動にとって、この経済的理由の死守は重要な政治課題となった。しかし優生保護法下での中絶の権利を求める女性たちと、同じ法律がお墨付きを与える優生思想によって生存と生活を脅かされていた障害者運動の男性たちが激しく衝突することも、あったようだ。この「衝突」についてはいろいろな媒体で様々に伝えられているのを読んだけれど、おそらくは文字通りの激しい、痛みのともなうものだったのだと思う。

 わたしは教えてもらった。そうして同じマイノリティとして「衝突」を強いられ、交渉と対話と、議論を積み重ねていった結果、SOSHIREN(旧称:82優生保護法改悪阻止連絡会)のような団体のなかでは次のような認識が生み出されていったのだと。

国家による人口の「量」と「質」の管理から、身体の自律性を取り戻すこと。

 リプロダクティブ・ライツ(生殖の権利)という言葉が流通するよりも前、おそらくは「リプロダクティブ・フリーダム」という言葉が運動の鍵を握っていた時代。しかし上の認識は、間違いなく「生殖の権利」に結実していく世界史的な流れをなぞっていた、あるいは先取りしていたと、わたしは浅学ながら思っている。

 敗戦後の日本で、人口調節を理由に解禁された中絶は、高度経済成長期が終わりにさしかかろうとする70年代には、再び人口調節を理由のひとつとして禁止されようとしていた。国家による「量」の管理。

 若干の断絶がありつつも、戦前の国民優生法の後継として国家ぐるみの優生思想を具現化した優生保護法不妊化という、信じられない身体侵襲への社会の抵抗感を減らし、立場の弱い人々の尊厳を踏みにじった。国家による「質」の管理。

 あらゆる社会インフラが民営化され続け、出産や子育てを経ながらキャリアを続けることが難しくされる社会は、生殖と子育ての可能性を貧困層から奪う。じわじわと、貧困のなかを生きる人々から生殖の選択肢が奪われる。これも一種の優生学的状況だ。

 障害のある子どもの子育てにポジティブなイメージを持てないよう、社会の想像力が制限されている。荒廃した福祉が、実際にそれを困難にしている面もある。国家の無策により出生前診断がなし崩し的に臨床に浸透し、妊娠の継続に対する選択肢が浮上させられる。

 北海道の「あすなろ福祉会」で、婚姻する知的障碍者カップルに不妊化が強いられていたのが明らかになったのはつい最近のことだ。あすなろ福祉会による人権侵害はとうてい許されないが、そうして生まれる子どもが施設サービスの対象から初めから外されているという制度上の欠陥は無視できない。

 誰の生殖を社会で規範化し、正しいものとして促進する一方、誰の生殖を排除し、誰の生殖を初めから想定しすらしないのか。国家はいつもその答えを用意している。人口の「量」と「質」に、国家はつねに興味を持っているからだ。少子高齢化を憂うこの国の政権与党が、「生産性」のない次世代の出生や、外国にルーツをもつ人々による生殖を歓迎しているはずがない。日本という国家にとって、殖えるべきは「生産性のある」労働力であり税収源であり、日本文化を継承する、人種的に”正当な”日本人だから。

 国家による「量」と「質」の管理が、ずっと続いている。生殖の権利をないがしろにする政治状況が、ずっと続いている。その権利侵害が、優生保護法の「優生条項」として、そして「経済的理由」を削除しようとする暴政として、性同一性障害特例法の不妊化要件の存置として、続いている。

 ここにあるのは、1つの現実だ。生殖の権利の侵害。

 国家による人口の「量」と「質」の管理に対する抵抗。わたしの尊敬する女性運動の先輩から受け継いだ知恵は、2023年の現在においてもあまりに新鮮(フレッシュ)で、あまりにもアクチュアルだ。

 いつも、ばらばらにされそうになる。対立させられることもある。うんざりだ。それぞれの状況に応じて、それぞれのニーズがある。それぞれの闘いがある。わたしにも、切実な問いがあり、闘いがある。いまも、トランスジェンダーの性別承認法における不妊化要件と優生思想の歴史を研究している。不妊化要件の廃絶を説く論文も今年には出す予定だ。ばらばらの私たちをばらばらにさせる力学に、抗っていたい。

 生殖の権利。大切な人権の1つだ。その同じ権利が、いろんな人たちからいろいろな仕方で奪われている。だから、それぞれの状況がそれぞれであることは大切にしつつ、でもつながりたい。誰かの生殖の権利がないがしろにされている限り、その社会・国家で生殖の権利が守られているとは言えない。誰かの生殖のニーズが、ある瞬間には満たされているとしても、それは生殖の権利が守られている状態とは言えない。なぜなら「生殖の権利」を求めるとは、誰かの生殖だけを「正当な」生殖として支持する一方で、誰かの生殖を妨害したり、禁止したり、無視したりする国家のあり方そのものに抵抗することだからだ。誰かの生殖のニーズがないがしろにされる状態が当然視されるかぎり、そこに生殖の権利はない。

 石原燃さんは、寄稿の最後でご自身に言い聞かせる。

私の身体は、私のものだ。

 私の身体を、すべての「私」が生きられるように。生殖の権利という、1つの権利を私たちから奪いさろうとする国家の力学が1つの論理に貫かれているのなら、その権利を求める私たちがばらばらでいるわけにはいかない。

東京都現代美術館:ショーン・フェイさんとのトーク(終わりました)

 先日8日、東京都現代美術館で開催中の「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフーー柔らかな舞台」展の企画の一環として、『トランスジェンダー問題』に関連したイベントがあり、参加してきた。NEON Book Clubさんがイベントの主催で、いつものブッククラブのような読書会に加えて、『トランスジェンダー問題』著者のショーン・フェイさん、訳者のわたし、そしてNEONのメンバーの方たちでのトークがあった。わたしは、読書会にもこっそり参加させていただき、それからトークで登壇した。

 結論からいうと、もっと長く話していたかった。読書会の方は、8人~10人ずつくらいの輪になって、『トランスジェンダー問題』を読んで考えたことなどを中心に、皆さんのいろいろな感想や関心が聞けた。もっともっと聞きたかった。わたしは訳者だからめちゃくちゃこの本を読んでいるけれど、どんな風に皆さんに読まれているのか、もっと知りたい。

 トークの方も、あっという間に終わってしまった。実は著者のショーン・フェイさんと話すのはこれが初めてだったので、もっといろいろ聞きたかったな。日本とUKの状況について、似ているところもあれば違うところもある。トランスの法的性別表記の変更のための法律(性別承認法)について言えば、UKは世界で最初に(2004年)不妊化要件を外した国である一方、日本の特例法は世界的には信じられないくらい遅れている。包括的差別禁止法に該当する平等法がUKにはあって、差別からの保護対象属性としてトランスであることもちゃんと含まれている。日本には、そうした差別禁止法が存在しない。

 対して、UKと日本のフェミニズムの状況はよく似ていて、女性学のメインストリームに位置する人たちがトランス差別的な論理への耐性を著しく欠いている。『トランスジェンダー問題』の分析に従うならば、帝国主義に対する反省も不十分なまま、「普遍的な女性の経験」を信じるフェミニズムが日本にもUKにもはびこっている。人種的・民族的マジョリティの異性愛の健常なシス女性の経験を中心化し、人種差別や健常主義などの力学が性差別とどのように関わり合っているのかという、差別の交差性に対する感度が極端に低いフェミニストが残念ながら(少なくともアカデミアでは)不必要に力を振るっている。わたしはこの人たちがいろいろなところで今やっているハラスメンシャルな行為を絶対に忘れない。

 吹き荒れるトランスバッシングの荒波と、コロナのパンデミックが共に生活を覆うなかで『トランスジェンダー問題』を執筆したフェイさんの話も、もっと聞きたかった。わたしの翻訳は孤独な作業ではなかったし、執筆のたいへんさには比べようもなかったけれど、わたしにも思うところはもちろんあった。

 もちろん、トークのなかでも貴重な話が聞けた。悲観的な気持ちのなか執筆を進めたけれども、本を書き終えて、多くの人に読まれ、いろいろな場所に呼ばれて話したりすることで、フェイさんは少しだけ世界に楽観的に・前向きになったそうだ。わたしも、翻訳した『トランスジェンダー問題』が書店員さんたちからの応援を受け、多種多様な媒体で書評が書かれているのを見るにつれ、小さな希望が少しだけ大きくなっていくのを感じた。まだまだ、これからだ。

 今後どこかの媒体で、フェイさんとの対談とか、したい。英国での『トランスジェンダー問題』の受容のされかた、左翼からの反応やトランスコミュニティからの反応など、もっともっと聞いてみたいことがある。これを読んでいるどこかの媒体のみなさん、よろしくお願いしますm(__)m

 それと同時に、今回のとくに読書会を通じて、わたしは『トランスジェンダー問題』がどんな風に読まれているのか、もっと知りたいと改めて感じた。今回わたしが『トランスジェンダー問題』の翻訳の機会を得たことには、それなりの必然性もあったかもしれない。しかしわたしは、というかだからこそわたしは、この本がどんな風に読まれるのか、読まれているのか、あまり知らない。本との距離が近すぎる。

 この数か月、わたしは前に出てたくさんしゃべったと思う。もちろん、今後もイベントの予定がいくつもあるし、仕事はきちんとする。というよりも、イベントで話すのはいつもとても楽しい。ただ、わたしが楽しかろうと、そしてお客さんがどれだけ来ようと、いつまでもわたしが色んなところに呼ばれて出ていって、『トランスジェンダー問題』について話したり、あるいは日本のトランスの状況について話しているのは、少しさみしくなってきた。ときどき、孤独を感じる。

 『トランスジェンダー問題』関連の仕事は、なるべく受けている。この本には売れてもらいたいし、実際にめちゃくちゃ良い本なので、少しでも多くの人のもとに届いて欲しい。それと同時に、日本の人たちがこの本をどんな風に受け止めているのか、もっと知りたい。わたしは、この本の訳者としてではなく、この本のいち読者として、この本についての話が聞きたいし、この本について話したかった。

 『トランスジェンダー問題』の翻訳者になったことの最大のデメリットは、この本の「いち読者」であることを許されなかったことにあると思う。わたしはこの数か月、この本の「宣伝隊長」として、つうじょう訳者に期待されない範囲の仕事すらしゃかりきに果たしてきたと自分では思っている。そうこうしているうちに、わたしは「いち読者」としてこの本と関わることができなくなってしまった。

 今回、著者のショーン・フェイさんとのトークの機会をいただけたことは、ほんとうにありがたいことだった。間違いなく、訳者だからこその特権だ。主催のNEON Book Clubの皆さんと、東京都現代美術館のキュレーターの方々、そして当日の会場で日英通訳と手話通訳を担ってくださった皆さんには、深く感謝を申し上げたい。ただ、ちょっとだけさみしかったかもしれない。訳者の肩書きのない状態で読書会に参加できなかったこと、Zoom画面のフェイさんの話を客席から聞けなかったこと、わたしではない誰かが『トランスジェンダー問題』やその内容についてフェイさんと話しているのを聞けなかったこと。

 なんだかよく分からない感想になってしまった。ともかく、人生で忘れられない一日になったことは確かだ。当日会場で話しかけてくださった皆さんも、ありがとうございました。色々な方と話すことができて、希望をもらうことができました。イベント後におしゃべり会をしたフェミニストの友だちたちからも、たくさんパワーをもらった。

 今年もがんばる。

2022年の振り返り

 年末までにどうしてもやらなければならないことが終わった。お正月までは、あと論文を直したりゲラを見たり本の最終校を直したりする程度に留めて、温かい服を買いに街にでかけたりしたい。

 2022年を振り返る。

 アウトプットだけみたら、結構いろいろ出した。2月には単著が出た。『ハイデガー 世界内存在を生きる』講談社)。あまり知られていない事実だが、わたしはハイデガー研究者で、ハイデガー研究で博士号をとっている。主著『存在と時間』をとにかく読めるようになりたい人向け、という限定的な読者層を想定した本だけど、2刷も出たし、結構よく読んでもらえているようで嬉しい。本の出版を機にNHK文化センターで特別講座を開いたりした。新しい人と繋がれた。

 10月には、チャプターを1つ書いただけだけど Integrity of Scientific Research: Fraud, Misconduct and Fake News in the Academic, Medical and Social Environment (Springer) という本も出た。研究倫理・研究公正まわりの人たちが世界中から集まって作った。これを出して新聞社さんから取材が来たりもした。

 同じく研究倫理の領域だと『相談事例から考える研究倫理コンサルテーション』(医歯薬出版)も今年の出版だった。コンサル事例も1つ担当したのと、研究倫理の重要概念や研究史についてのコラムも何個も書いた。研究倫理理論が日本語でほぼ全く読めない状況なので、数少ない日本語情報源に貢献できたと思っている。

 はじめての翻訳も出版した。2022年はほぼこの本に捧げた記憶しか残ってない。『トランスジェンダー問題』明石書店)。去年の10月末に翻訳の依頼が来てから、別の共訳書の原稿を仕上げて、査読論文を2本書いて、2月には本も出て、3月中旬に前職の大学から退却して群馬に転居したころにはまだ最初の下訳の10分の1くらいしか終わってなかった。引っ越してから、ろくに段ボールも開けずに翻訳にあけくれた。新年度が新大学で始まってからも、平日も土日もなく、翻訳に全てを捧げた。

 5月5日の誕生日に最初の下訳ができた。そこからもう1周原文と対照させて、脱稿して、ゲラの段階でもう1周原著と照らし合わせて、2校のゲラが終わったのが8月下旬。9月までずっと翻訳を見ていた。本が出てからも、いろいろあり本当に疲れた。

 数年前に、肺の手術をしたことがある。左肺の上部をばっさり手術で切った。手術後、患部の激しい痛みも引いたころ、身体が以前とは変わってしまった事実に気づいた。身体が自分の言うことを聞かない。肺が痛むわけではない。以前のような生活をしていると「くちゃっ」と全身が潰れてしまうようになった。身体を支えている芯に、いくつも急所ができてしまって、以前のように無理をしていると、その急所を押されて、くたっと身体の芯が抜けて、すっからかんの空洞になったように動かなくなるようになった。もちろん、そこから徐々にそういう身体に慣れて今にいたる。

 ぶっ潰れそうな圧力を自分にかけて翻訳を終えて、11月くらい。自分の身体が手術後のような状態になっていることに気づいた。なにか、どこかが痛いとかではなく、身体の芯にひびが入っているような状態。身体の深いところに、疲労が溜まっている。

 同じトランス関係だと、「ちくまweb」の「昨日、なによんだ?」にノンバイナリー関係の書籍の紹介を書かせてもらった。『文藝』の秋号にも、「私」についてのエッセイを寄稿した。どちらも数千字の原稿で、こういうコンパクトな原稿を頭の中でいじっている時間はわたしにとって快感だった。料理をしたり、スポーツジムで運動したりしながら、頭のなかに「下書き保存」してあるファイルを引っ張りだして、ちょっと修正して保存する、というのを繰り返す。論文の執筆でも同じことをするけれど、この手のエッセイでその作業をするのは楽しい。たぶん、庭をきれいにキープするのが好きな人と同じような楽しさだと思う。わたしの頭には書きかけのファイルがいっぱいある。

 あとは、多くの人が関わって作る仕事に少しだけ携わった仕事として『レヴィナス読本』にもちょっとだけ寄稿した。新世代のレヴィナス研究者が総力を結集した。わたしはその末席の末席くらいにいる人間だけれど、とてもよい本に携われて幸せ。

 雑誌の学術論文は、たぶん3つ?出た。2つは研究倫理の論文で、1つは限定するなら医療倫理の論文。わたしもすっかり生命倫理・研究倫理の研究者になってしまった。

 ハイデガー研究の論文をアウトプットできなかったのは残念だ。昨年から大学の常勤研究者になって、ドイツ語の原著をゆっくり読みながら哲学史研究をするペースをうまく作れずにいる。このままペースを取り戻せなくなるのではないか、不安。誤解されないといいが、生命倫理の研究にはそうした「静かな時間」が必要ない。たかだが15ページから40ページくらいの英語の論文を無限にダウンロードして読めば、そのトピックの先端的研究者になれてしまう。そこに流れているのは、とても流れの早い、消費のような時間だ。でもわたしは、ゆっくりとした時間も取り戻したい。

 来年には、ハイデガー研究で執筆した博士論文をベースにした書籍を出版する予定。出版社さんを何年も待たせてしまっている。身体がもつかどうかだけがとにかく不安だが、どうにか出したい。新書を書く話もあるし、ハイデガー研究はもっとちゃんと復帰させないといけない。ちなみに、フェミニズム現象学ハイデガー哲学についての論文は出ることが決まっている。

 学会発表は、いくつしたのかあまり覚えていない。どれを発表に数えればよいのかももう判断がつかなくなってきた。「呼ばれる」機会も増えてきたから。研究者としてはまだペーペーなのに、キャリアだけむやみに進んでしまって、大きな学会の評議員や査読委員を頼まれるようになった。本当はあと数年くらい若手研究者として自分の研究のことだけ考えていたかった。でも仕方ない。望んでここまで来たのだから。ただ、少し疲れている。

 いま、大学院時代から続けているハイデガー研究・レヴィナス研究と、研究倫理学の研究と、トランスジェンダー関係の仕事で、3つくらい掛け持ち状態になっている。研究倫理分野では大きな研究事業にいくつも加わっていて、洒落にならない生活のリソースを割いている。ハイデガー研究をやめたくもないし、やりかけの研究も無限にある。トランスジェンダー関係の仕事も、いまわたしが立ち止まるわけにはいかない。

 とはいえ、この状況をあと何年も続けるのはどう考えても無理だ。これまでは脳の回転数を上げて、メモリを開拓してしのいできたけれど、ここ1年くらいで物理的な限界が近付いている感覚がある。あとは生活の時間を抵当に入れて脳みその稼働時間を増やすしかないけれど、1日は24時間しかないし、結構これも限界が近づいている。

 トランスジェンダー関係の仕事を積極的にするようになってから、いろいろなものを失い、犠牲にした。時間や体力と健康と、オンラインでの安全くらいまでなら失ってもよかったけれど、残念ながら実生活上の安全すらも部分的に失った。ただ、わたしは大学の教員だし、わたしが刺されることはあっても、学生に危険が及ぶことだけは避けなければならない。あまりこういう判断をしたくはないけれど、学生を守るためにそうした判断を迫られる機会は近いのかもしれないとも思う。

 1年だけ過ごした石川県を離れて、群馬県に転居した。石川で友だちになった同僚の先生たち、事務のスタッフさんとも、継続的に連絡をもらったり、お歳暮をもらったりしていて、嬉しい。そういえば、石川の大学にも2回?行った。

 群馬は、石川みたいに雪が積もらないからいい。風は寒いけれど。スポーツジムに行ったりプールに行ったり、温泉に行ったりして、石川にいたときよりも活動的になった。研究と仕事で忙しいけれど、そうして自分の身体と向き合い、ケアする時間を意識的にとるようになったのは成長だと思う。

 群馬はいい。土地が広い。野菜が美味しい。東京にも月平均で3~4回くらい行っているけれど、人は多いし、土地が狭い。お金を払わなければ座って休むこともできない。野菜が高いし、鮮度が悪い。東京の「まいばすけっと」で、小さくて傷んだ野菜を高いお金で買っていた過去の生活には、もう戻れないとおもう。あと何年いまの大学にいるのかは正直わからない。前職は1年で辞めたし、その前の国立がん研究センターも任期をかなり残して1年半で辞めている。ただ、群馬大学に来ることができたのは、わたしにとってとてもよいことだったと思う。

 多くのものを失ったけれど、多くに人と新たにつながる機会を得た1年でもあった。来年からも、こうして繋がった人たちにいろいろなところでお世話になるのだろう。だから、とても疲れたけれど、未来につながるたくさんの繋がりを得た1年でもあった。

 多くのものをアウトプットしたけれど、自分の限界を知った1年でもあった。ただ、少し疲れたかな。

 

『トランスジェンダー問題』を翻訳するとき明石書店にお願いしたこと

 記録のために書いておく。わたしはショーン・フェイ著『トランスジェンダー問題』(The Transgender Issue)の訳者だ。今年の9月末に翻訳が刊行された。翻訳権を取得した明石書店から仕事の依頼が来たのは、去年の10月の下旬。イギリスで原著が出たのが去年の9月だから、約1年で翻訳を出すことができた。明石書店には無理をお願いした。

 最初に翻訳の依頼が来たとき、わたしは明石書店に2つのお願いをした。1つ目の願いが聞き入れられないなら、絶対に翻訳の仕事を受けないと言った。2つ目の願いは、わたしが明石書店に願うことであると同時に、わたしはその願いを叶えるためにできる限りのことをすると言った。

 1つ目の願い。「この本(『トランスジェンダー問題』)の後にトランスヘイト本を出さないこと」。もちろん、明石書店という歴史ある出版社の今後の出版方針を左右する権原などわたしにはない。そんなことできるはずがない。わたしはただ、トランスジェンダーを含めた様々なマイノリティ集団が置かれている不正義をただすための言論と、そうではない言論とを並べて、炎上商法的に出版物を売るような醜い行いには絶対に加担しないと言った。そうした商売にわたしが加担させられたと分かったときには、最大限の手段を使って怒りを表現すると言った。

 ただ、出版に向けて仕事をしていくにつれ、この1つ目の願いについて全く心配はいらないことが分かった。明石書店はこれまでも、(いずれも上田勢子さんの訳により)ジェマ・ヒッキー『第三の性「X」への道」(2020年)や、エリス・ヤング『ノンバイナリーがわかる本』(2021年)など、トランス/ノンバイナリーに関する良質な翻訳を出版してきた。また、いまだにトランスジェンダーに関する数少ない研究書である石井由香理『トランスジェンダー現代社会』(2018年)、また古くは山内俊雄『性転換手術は許されるのか』(1999年)などの書籍を世に問うてきた。時代の制約はあれ、いずれも重要な意義のある出版だと思う。ぜひ、明石書店のHPから歴史を知って欲しい。

www.akashi.co.jp

 そんな明石書店が、今後いきなりトランス差別的な本を出して金儲けを狙うような会社ではないことは、翻訳出版に向けていろいろコミュニケーションをとるにつれますます強い確信に変わった。担当の編集者さんだけでなく、営業さんたちや、社長さんとも会って話をする機会を得た。会社として、これまでもトランスのトピックに重きを置いてきたこと。『トランスジェンダー問題』の出版に、社として大きな意義を感じていること。教えていただいた。明石書店は、2022年のその大切な仕事を、専業翻訳家でもないわたしに任せてくれた。わたしはその期待に応えられたかどうかまだ分からない。しかしわたしは、明石書店と仕事ができたことを誇りに思っている。

 2つ目の願い。「この本(『トランスジェンダー問題』)を売ること」。わたしは明石書店に、この本を絶対に商業的に成功させてほしいとお願いした。もちろん、明石書店だって企業なのだから、本を売って利益を出すのは当然のことだ。しかしそれ以上に、この本が「売れる」ことを世の中に見せつけてほしいと、わたしはことあるごとに伝えた。

 トランスジェンダーの人口は少ない。緩やかな定義でも人口の0.6~0.7%くらいしかいない。実際に生きる性別を変えていく人は、おそらくその半分(0.3%)かそれ以下だろう。だから、本を買ってくれる「顧客」としてのトランスジェンダーの人口は、マーケットとして極めて極めて小さい。しかし2022年現在、トランスジェンダーの置かれている現状についての正しい知識や、トランスたちが政治的に求めていることを社会正義の視点から論じた文章を欲している人たちはとても多い。大半はシスの人たちだが、そこには間違いなく、大きな知へのニーズがある。

 2021年の10月にエミコヤマさんがTwitterで『トランスジェンダー問題』の原著の内容紹介をしたとき、小さな輪のなかとはいえ、大きな注目が集まった。2021年の12月、今からちょうど1年前には周司あきらさんの『トランス男性による トランスジェンダー男性学』が刊行された。わたしも著者と対談のイベントをする機会があったが、予想を遥かに上回る来場者数があった(https://bookandbeer.com/event/20220221_jw/)。2022年の1月からはジュリア・セラーノの『ウィッピング・ガール』(原題は Whipping Girl)の翻訳クラファンが始まり(https://greenfunding.jp/thousandsofbooks/projects/5658)、残り日数を大きく残して250万円が集まった。クラファンの応援イベントにもわたしは登壇したが(https://bookandbeer.com/event/20220221_jw/)、こちらも信じられないくらい人が来た。いま、トランスジェンダーの生存や差別の実態について正確な知識を欲している人たちが多くいることを、痛切に感じていた。

 だから、明石書店にはその需要に応えて見せてほしいと願った。そして、『トランスジェンダー問題』のように硬派に社会正義を論じた本でも、世の中にそれを必要としている人がいるという事実を可視化して欲しいと願った。この本は「売れる」のだから売ってほしい、この本が売れるさまを他の出版社に「見せつけて欲しい」と願った。

 これは担当編集者さんにも繰り返し伝えたことだが、わたしは『トランスジェンダー問題』の後につづく書籍のためにこそ、『トランスジェンダー問題』が出版されてよかったと考えている。わたしは本書の刊行の意義を、この本につづくまだ見ぬ書籍に見出している。

 元も子もないことを言えば、この社会はデフォルトでトランス差別的に設計されていて、多くの人にとってはトランスジェンダーなどどうでもいい存在なんだろう。だから、トランスの権利擁護やトランスの経験に根ざして正面から社会正義を訴えるような本がたくさん売れるなんて、誰も考えない。むしろ、トランスの存在を馬鹿にしたり、その政治的要求を「過激だ」と揶揄したりするような言説の方が、人々の受けが良いと考える人が出てくる方が自然だ。

 でも、待ってほしい。ヘイトや冷笑主義に魂を売る前に、出版社には踏みとどまってほしい。日本にはまだ、『トランスジェンダー問題』がきちんと売れる土壌がある。知的なニーズがある。もちろんこんな分厚い本が読めるような生活上の余裕がある人は限られているし、そうした余裕は社会からますます切り詰められている。それでも、まだこのが売れるだけの需要が、ちゃんとある。

 明石書店には、その事実を知らしめてほしいとお願いした。この本を売ってほしいという、訳者が言う必要のないことを何度も口にした。もっともっとトランスジェンダーのための本が日本語圏に増えるために、この本が売れるさまを見せてほしいと、お願いした。これが2つ目の願い。

 出版後、様々なメディアで『トランスジェンダー問題』の書評が掲載され、わたし自身いろいろなイベントに呼ばれた。取材も受けた。これまでトランスへの差別的言説に心を痛めてきたけれど、どのように発信すればいいか迷っていたという何人もの編集者さん、記者さんが、私たちにアプローチしてくれた。大丈夫。すべてのメディアが産経新聞や『WILL』と区別がつかなくなるような悲惨な世の中には、まだなっていない。メディア関係者には、現実をよく見て行動してほしいと願っている。

 『トランスジェンダー問題』には、まだまだ仕事が残っている。大小の書店さんからの応援もあり、この短期間ですでに相当な部数が売れていると聞いた。わたし自身も驚いている。しかし、まだまだ仕事が残っている。もっと遠くまでこの本を届けて、他の出版社にも重い腰を上げてもらう手伝いをしなければならない。醜いヘイト言説や冷笑主義に魂を売る必要はない。大丈夫だ、これだけ重厚な、硬派な社会正義の本でさえこれだけ売れるのだから―――各社の編集者さんが、会社の企画会議で胸を張ってそう言えるように、もっともっと『トランスジェンダー問題』には遠くまで行ってもらう必要がある。

 とはいえすでにもう、日本のトランスコミュニティにとってプラスになるような書籍の出版がいくつも決まっていることをわたしは知っている。先の『ウィッピング・ガール』に加えて、1冊はわたしの共著によるもの、そしてもう1冊は、これまで不可視化されてきたトランスジェンダーの語りが活字化したものだ。早くこれらが書店に並ぶ姿を見たい。どの本もきっと、たくさん注目されて、たくさん売れるだろう。なぜなら、日本社会にはトランスについてのまともな情報を欲してる人が多くいるから。

 それと同時に、これまで日本語圏で出版されてきたトランスジェンダー関連の書籍についても、十分な敬意をもって改めて注目が集まることを願っている。田中玲さんの『トランスジェンダーフェミニズム』(インパクト出版:2006年)や吉野靫さんの『誰かの理想を生きられはしない: とり残された者のためのトランスジェンダー史』(青土社:2020年)などが、訳書である『トランスジェンダー問題』よりも注目されないという事態があるのなら、それは同書の良質さを差し引いても少し異様な光景だ。今だからこそ、日本のトランスたちが何を語り、書き残してきたのかということに、丁寧な参照が与えられることを願う。

 以上、『トランスジェンダー問題』の翻訳を引き受けるにあたって明石書店にお願いしたこと2つを書き残した。繰り返すが、明石書店には本当に無理をお願いしたと思っている。特に担当編集者である辛島さんには、言葉では言い表せないほどの労力を割いていただいた。もっと多くの出版社さんがトランスを取り巻く政治的環境に関心をもち、いろいろな本が出版され、こうして辛島さんのような方の個人的な奮闘に依存しなくても済む世界が来ることを心から願っている。

トランス差別の現状(1)英国学校調査

【前がき】

 これから「トランス差別の現状」という題で、海外の調査結果などをいくつか紹介していきます。それらの調査結果はインターネットで誰でもアクセスできますが、英語で書かれているため、日本語圏の皆さんに少しでも内容を紹介したいというのが目的です。また、昨今「トランス差別」としてSNS上での言葉による侮辱を真っ先に思い浮かべる人が多いことにも、やや問題意識を持っています。もちろんそうした侮辱は許されるものではなく、とりわけマイノリティとしてのトランス当事者たちがSNSを安全に使えない環境はたいへん深刻な問題です。しかし、差別はSNSだけにあるものではありません。差別は社会の中にあり、制度や法律という形ととってマイノリティ集団から利益を奪い、メディアや教育、日々のコミュニケーションを通じて、人々のなかにその集団を軽んじてもよいという意識を植え付け、それが具体的な差別行為へと繋がっています。それらがマイノリティ当事者を苦しめる具体的な現れかたは、就労や教育の現場での虐待、警察からの暴力、住居の拒否や喪失、貧困、メンタルヘルスの悪化など、多岐にわたります。そのため、これから紹介していく調査データから、トランスの人々が置かれている差別の環境が総体的に理解されるようになることを願っています。

【この調査について】

 この記事で紹介するのは、英国の慈善団体ストーンウォール(Stonewall)が2017年に公開した「学校調査報告(School Report)」です。調査が行われたのは2016年の11月から2017年の2月まで。11-19歳までのLGBTの若者3,713人が調査に回答しました。そして調査は、LGBTの児童生徒が学校で/学校に関してどのような経験をしているのか/してきたのか、ということに焦点を当てたものです。

 調査はオンラインで実施されたため、その点について結果に偏りが生まれることについては注意が必要でしょう(――よく知られているのはオンライン調査では学歴が実態よりも高くなる傾向があることです――)が、同種の調査としては過去最大規模のものとして、この調査は世間の広い注目を集めました。とりわけ、2015年にストーンウォールがトランスジェンダーの権利擁護のために積極的に行動することを決めた直後の調査だったため、トランスの若者たちの状況を知るための情報源として、現在でもこの調査報告は活発に参照されています。

 以下では、LGBTの若者を対象としたこの調査の報告書から、トランス(T)に関わる結果のみを重点的に析出して、日本語で紹介していきます。調査報告の原本を参照したい場合は、以下のリンクから取得できます。

www.stonewall.org.uk

【調査結果の紹介】

 これから紹介するのは報告書に記載されたデータのうち、主要項目(key findings)およびいくつかの抜粋になります。また、これは11-19歳の回答者がそれまでの学校での経験について回答した調査のため、以下では回答者を「LGBTの子ども」や「トランスの子ども」という言葉で指すことにします。実際には「若者」と呼ぶべき年齢の人も回答者には含まれていますが、ご容赦ください。

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【いじめ】

 調査に回答したトランスの子どもの約半数(51%)が、トランスジェンダーであることを理由に学校でいじめられたことがありました。ただし、トランスの子どもは(ゲイやレズビアンなど)同性愛者と見なされて、それを理由にいじめを受けることもあります。そうした理由でいじめられた経験も合わせると、実にトランスの子どもの64%に、いじめの経験がありました。なお、こうしたいじめを経験した人の割合は、LGBT全体でも45%に上ります。

 以下、いじめを受けた場所についてのデータです。

*体育でのいじめ:LGBT全体の14%が経験。トランスに限ると29%が経験。
*更衣室でのいじめ:LGBT全体では19%、トランスに限ると25%。
*トイレでのいじめ:LGBT全体では10%、トランスに限ると20%。

 トランスの回答者の46%が、学校でトランスフォビックな言葉づかいを「頻繁に」あるいは「よく」耳にしています。また10人に1人のトランス(9%)が、学校で「殺す」と脅されたことがあります。いじめを受けたLGBTの子どものうち45%は、そのことを誰にも相談できませんでした。

 いじめられても誰にも言わない子どもが多いのは、虐められている事実が恥ずかしいことに加えて、自分の性的指向やトランスアイデンティティを他者に開示しなければならないからです。それは子どもたちにとって難しい経験になります。実際、アウティングを恐れていじめ被害を他者に相談できなかった子どもは59%に上りました。

 

【いじめの確率を上げる要因】
 いじめの経験とジェンダーの関係を見ると、次のようになります。LGBTの女子でいじめを経験したことがある人は35%でした。これはLGBTの男子では57%に上昇します。更に悪いことに、ノンバイナリーの子どもの57%にいじめの経験がありました。いずれも、自身がLGBTであることを理由とした学校でのいじめです。
 さらに、性のマイノリティであることに加えて障害がある、あるいは低所得者層の家庭の子どものための給食支援を受けているなどすると、いじめの確率は飛躍的に上がります(※障害では43→60%、給食支援だと44→57%)。

 

【教師からのサポート】

 これだけ虐めがあるにも拘らず、68%の回答者は、教師は学校で聞かれるホモフォビック・トランスフォビックな発言に対してほとんどなんの介入もしない、あるいは何も介入しないと答えています。また40%の回答者は、学校でLGBTについて全く教えられたことがなく、77%の回答者は、学校で一度もジェンダーアイデンティティトランスジェンダーの意味を教えられた経験がありませんでした。

 

【学校生活】
 3人に1人のトランスの子どもが、学校で自分の名前を使うことを許されず、58%のトランスの子どもは、快適なトイレを使うことができていませんでした。(ここで※confortableなトイレを使えないというのは、多くの場合、自分にとって危険を感じたり、著しく不愉快なトイレを使うよう強制されているということを意味します)

 44%のトランスの子どもは、学校のスタッフはそもそもトランスジェンダーという言葉の意味を知らないと回答しています。とはいえ61%の子どもは、学校のスタッフに自分がトランスであることを伝えています。しかし、そうして伝えたとしても、トランスの子どもの願いが聞かれることは少なく、自分の願いを尊重してくれたと回答したのはわずか19%でした。適切な団体の情報などについてアドバイスをくれるスタッフも、学校にはあまりいません。
 トランスの子どもの58%が快適なトイレを使えず、67%が快適な更衣室を使えていませんでした。64%が快適なスポーツチームに属しておらず、33%は望む名前を学校で使うことができず、20%ジェンダーアイデンティティに適合的な制服を着ることも許されていませんでした。

 

【幸福とメンタルヘルス

 LGBTであることを理由にいじめられた子どもの40%には、いじめが理由で学校を休んだことがありました。また、回答したトランスの子どもの84%自傷経験がありました。この数字はLGBでは61%です。さらに、45%のトランスの子どもに自殺未遂の経験がありました。同じ数字はLGBでは22%ですから、トランスの子どもたちがとくに困難な状況に置かれていることが分かります。
 回答者のほぼ全員が、インターネットを情報源にしていますが、やはりほぼ全員が、オンラインでホモフォビアやトランスフォビアに直面していました。

 

【暴力の被害】
 LGBTの子どもが身体的暴力を受ける確率は、男子と女子で3倍の開きがありました(男子12%:女子4%)。トランスの子どもは、トランスではないLGBの子どもの倍、身体的暴力のターゲットになります(13%:6%)。
 性暴力の経験も、LGBの子ども3%に対し、トランスでは6%です。学校で「殺す」という脅しを受けたことがある子どもは、LGBT全体だと4%、トランスに限ると9%でした。凶器を使った脅迫も、LGBT全体だと1%、トランスでは4%です。


【学校という居場所】
 回答者(LGBT)全体の19%、トランスに限ると33%の回答者が、学校を安全な場所だと感じていませんでした。57%のトランスの子どもは、学校でいじめを受けることを恐れています。また、いじめを受けたことのあるトランスの子どもの68%は、学校でいじめられたことが将来の進学プランに影響したと回答しました。52%のトランスの子どもにとって、学校は楽しい場所ではありません。学校が自分の居場所ではないと回答したトランスの子どもも、同じ割合だけいました。
 回答者全体の20%は、学校がサポーティブないという理由で転校を検討したことがあり、実際に6%が転校しています。なお、理由を限定せず、学校に行けなくなったことがある子ども割合をジェンダー比で見ると、男の子では47%、女の子では53%、ノンバイナリーの子どもでは60%になります。ここでも、ノンバイナリーの子どもの状況はあまりよくありません。

 

自傷・自殺未遂】

 84%のトランスの子どもに自傷経験がありました。同じ数字はトランスではないLGBだと61%です。なお、NHSの一般統計によれば同年代の若者の自傷経験率は10%ほどです。なお、いじめを受けたことのあるLGBTの子どもの自傷経験率は、そうでないLGBTの子どもよりも高くなっていました(75%:58%)。加えて、回答者全体のジェンダー比で見たとき、女子(71%)とノンバイナリー(84%)の自傷経験率が、男子(51%)よりも顕著に高いことが分かります。
 トランスの子どもの 92%が、自殺を考えたことがあると答えました。トランスではないLGBの回答者でも、この数字は70%に上ります。なお、ノンバイナリーの子どもで自殺を考えたことがある回答者は89%。これはやはり、女子(73%)や男子(71%)よりも高い割合でした。

 調査に回答したトランスの子どもの45%に、人生のどこかの時点で自殺を試みた経験がありました。この数字は、トランスではないLGBでは22%です。なお、NHSの一般統計では、13-24歳の少女で自殺を試みたことがある人の割合は13%、同じく少年では5%です。なお、LGBTの回答者全体でみたとき、自殺未遂を経験したことのある子どものジェンダー比は、ノンバイナリー35%、女子25%、男子24%となります。

 また、家庭の経済的事情により無料の給食の支給を受けているLGBTの子どもでは、自殺未遂経験率が40%であり、そうした支給を受けないLGBTの子ども(25%)よりも数字が明らかに悪くなっていました。

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【終わりに】

 調査報告からの抜粋は以上です。ここではトランスの子どもに関わるデータを重点的に抜き出しましたが、レポート自体は45ページあるので、興味がある方はその他のデータも参照してください。

 この報告書では、末尾に学校へのアドバイス・勧告も掲載されています。その内容は、LGBTインクルーシブな教育を行うこと、いじめを防ぐための決まりを作ること、適切な教育ができるスタッフを育てること、親や地域のLGBT組織と連携すること、子どもの話を聞くこと、などです。

 報告書はまた、冒頭から一貫して、トランスの子ども・若者の状況の悪さに繰り返し警鐘を鳴らしています。就学年齢の子どもたちにとって、学校は生活の大きな部分を占める場所です。そんな学校が子どもたちにとって危険な場所となることは、子どもたちにただただ自己否定を教える結果にしかならないでしょう。現にその否定の結果が、希死念慮の高まりや自傷不登校などに数字として表れています。

 この記事の冒頭で書いた通り、この社会は悲しいほどトランス差別的にできています。それは、シスジェンダーの人しか世界にいないことになっており、トランスの人々が制度的・体系的に不利益を受け続けるということです。この記事では、その差別の一側面として、トランスの子どもが「学校」という場所をどのように経験することになるか、という調査データを紹介しました。皆さんのお役に立てたら幸いです。

NHK文化センター講座:報告(楽しかった)

 先週の土曜日(3日)、NHK文化センターの講座「トランスジェンダーフェミニズム」が開催された。わたしが訳した『トランスジェンダー問題』の刊行記念イベントの一環でありつつ、清水さんとこのテーマについて自由に話す機会となった。

 イベントは先週終わったばかりだが、1週間この日のことを何度も思い出した。とにかく、楽しかった。イベントのアーカイブ動画もすでに3回(3周)観た。信じられないくらい、わたしは楽しそうに話していた。そうだ、楽しかったのだ。

 この1年、いくつものイベントに招いていただく機会があり、いろいろな人といろいろな話をした。その全てが、わたしにとって大切な経験だし、願わくばその全てが、参加してくださった方にとって有意義な時間を提供できるものだったことを願っている。

 ただ、今回の清水さんとのイベントは少し趣が違った。ただただ、楽しかった。清水さんと直接話すのはこれが人生で2度目(?)で、それも1度目はわたしがイベントのお客さんとして軽く挨拶しただけだったので、直接会ってまともに話すのは初めてだった。それでも、楽しかった。とても。

 イベントの最初に、わたしは1960年代後半から1970年代初めにかけての、アメリカのラディカルフェミニズムの思考をいくらか紹介した。第二波フェミニズムにおけるラディカルフェミニズムの特徴づけを示した後、ラディカルフェミニズムの内部で「女性役割」との関わり方をめぐって生まれた、対立する二つの立場を特徴づけた。プロウーマンラインと、分離主義。そこから、分離主義系の人たちが目指していった「男性の利害から定義される『女性』ではない存在へと女性たちが自己を解放していく運動・実践・理論」として、なかでも分離主義傾向の強い一部のラディカルフェミニズムを「無性であることへの解放」として特徴づけた。

 男性と女性という2つの性別のクラスは、男性にとって常に都合よく役割が配置された性差の二分法に由来しており、それゆえ常に性差別的である。だとすれば、女性が「女性」でなくなること以外に、つまりは女性が「無性」になること以外に、女性が解放される道はないのではないか。

 異性愛は、つねに男性に利益をもたらす性差別的な制度である。そして、そうした搾取としての性関係は、何ほどか男女の役割を反映する女性同性愛にも侵入し得る。だとすれば、あらゆる意味で「性的でなくなること=Asexuality」こそが女性の解放なのではないか(Asexual Manifesto 1972)。

 以上が「無性であることへの解放」としてのラディカルフェミニズムの基本ラインである。(言うまでもないが全てのラディカルフェミニストがこのような思考回路を辿ったわけではない)

 こうした思考の道筋は、ノンバイナリー・フェミニズムAセクシュアルフェミニズムを現代に展開するための、重要な思考の資源を私たちに与えているはずだ。「性別なんてなければよかったのに」。わたしが下を向いてそのように呟いたとき、地面から反響してきたのはラディカルフェミニズムだった。現代のAceやNon-binaryたちが学べることが、ラディフェミの歴史にはきっと沢山眠っていると信じている。(もちろん、そうした思考の採掘に励むひとはすでに存在する。ただ、わたしの知る限り誰よりもその困難な採掘に励んでいたひとは、1年半前にこの世を去ってしまった。わたしは幸いなことに比較的近くでその作業を目撃していたが、1年半の月日が経ってやっと、あのひとがやりたかっただろうことが見えてきた。)

 そうしたラディカルフェミニズムの思考の道筋に対して、清水さんからは「フェムであること」をめぐる重要な反対論が提起された。その応答は、とても心躍るもので、またそれは、ある意味でトランス的(≒トランス肯定的)なものだった。

 こうして対談の内容を想起していると、キーボードを打つ手が止まらなくなる。本当は、わたしはここで対談の詳細を書くよりも、アーカイブ動画の広告をすべきなのだろう(https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1267261.html)。でも、本当に楽しかった。オンラインでも3500円くらいする対談だったにもかかわらず、トータルで100名をはるかに上回る参加者があった。値段的に「買ってください」とは言いがたいのだが、それでも、おそらくここ以外のどこでもできない話ができたと思う。

 対談のはじまりは、上記のようなラディカルフェミニズムと、それに対する応答だった。しかしそこから時代も下り、最後はずっと(現代的な意味での)トランスジェンダーフェミニズムの話、あるいはノンバイナリーの話をしていた。

 登壇者双方の個人的な情報にもかかわるので詳細は伏せるが、清水さんとわたしがそれぞれ経験してきた「性別という制度との格闘」は、まったく違うものであると同時に、それぞれまったく違った仕方で、フェミニズムの歴史的資源に救われてきた。そのことが分かった。

 そして、これが大事なことなのだが、そうして全然ちがった仕方でフェミニズムと付き合ってきた私たちは、それでも互いの話を理解し、――この表現が誤解されないことを願うが――互いの経験を「面白がる」ことができた。ここで「面白がる」とは、「性別という制度」と交渉するそれぞれの経験を、互いに実感をもって同感することはできないとしても、互いに理解し、なるほどそうなるのねと、自分にない経験にそれでも共感することを指す。

 清水さんも、楽しかったらしい。わたしも楽しかった。そして、清水さんは言っていた。フェミニズムは、本当はこういう楽しさを与えてくれるものでもあるはずだと。フェミニストであることが常に楽しいことであるとは、誰も思っていない。現実はむしろ全く逆だろう(フェミニスト・キルジョイ)。しかしフェミニズムの歴史は、私たちの少しずつ異なる経験を語り、互いに理解し、性別という制度を多角的に捉え、それに楔を入れるためのキーポイントを一緒に探すことを助けてくれるものであるはずだ。その作業は、ほんとうは実に「楽しい」。

 トランス排除的なフェミニズムSNSで跋扈し始めてから、フェミニズムがどんどんつまらなくなっている。この社会に「女性」と「男性」がいるとき、その「女性」とはすなわち「XX染色体を持つ人という意味だ」なんて、そんなくだらない主張に賛同するのがフェミニズムだったことなんて(一部の極まった文化派フェミニズム以外に)あるはずがない。ましてやラディカルフェミニズムの歴史が教えるのは、生物学や精神分析学の大層な名前を借りて「女性」を定義する既存の知の体系それ自身が家父長制の手先だったということだ。「ジェンダーとは性差に関する知の総体である」と言われたら、ポスト構造主義的な視座を見てとりそうになるけれど、わたしはラディカルフェミニズム運動とその理論は、1960年代からずっと、その視点を持ち続けていたと思っている。(この講座の最後に、わたしはなぜか興奮気味に江原由美子さんを推していたが、江原さんの仕事を読んできた人なら、わたしの言いたいことはだいたい伝わると思う。)

 本当に、楽しい講座だったし、こういう楽しい話を、もっとふつうにできる世界にしたいと思う。シスとトランスの間にあまりにも高い壁が築き上げられているせいで、あまりにも多くの語りが喪失されているということを、清水さんとも話していた。失われているものを探すのは難しい。なぜなら、失われているという事実自体が、隠されてしまっているから。でも、少なくともこの日の対談では、なにかが失われているという事実を暴くことができた。

 もちろん、わたしの言葉は偏っている。だから、わたしには聞こえない言葉や、わたしの視野からは外れる言葉が、無数にある。訳書にせよ、なんにせよ、わたしの言葉が届くひとは極めて限られている。それでも、わたしはわたしのできるところから、性別という制度が消し去ってしまった語りを少しでも掘り出していきたいと思う。

「紀伊国屋じんぶん大賞」に投票しました

 紀伊国屋さんの「じんぶん大賞」の季節になりました。一応ランキングも発表されるので賞レース的な雰囲気もありますが、この1年で刊行された人文書をみんなで振り返る、振り返りイベント的な側面がわたしにとっては楽しく、今年も「どの本が選ばれるかな」「どの本に読者票を入れようかな」と悩ましい時間を過ごしました。

store.kinokuniya.co.jp

 ただ、例年と少し異なるのは、わたしが関わった書籍が「じんぶん大賞」にノミネートされる(され得る)ことになっている点です。1冊は著作で、『極限の思想:ハイデガー 世界内存在を生きる』(講談社:2月刊行)です。2冊目は訳書で、ショーン・フェイ著『トランスジェンダー問題』(明石書店:9月刊行)です。

 残念ながらフェイさんの『トランスジェンダー問題』は出版からあまり時間が経っていないので、まだ読了している方も少ないと思います。ただ、来年の「じんぶん大賞」の対象にはならないようですので、もし『トランスジェンダー問題』をお読みになって、いいなと思って下さる方がいらっしゃれば、今年ぶんの読者票で後押ししてあげてください。「じんぶん大賞」は書店員さんの思いと、読者の声で作り上げられる参加型イベントのようなものですから、順位自体には意味がないのですが、投票してくださった方の声(コメント)は一部が公開されるはずですので、皆さんの感想を楽しみにしています。

 ちなみにわたしは、以下の3冊に投票しました。

・周司あきら『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)

・メアリー・ホークスワース著(新井美佐子・左髙慎也・島袋海理・見崎恵子訳)『ジェンダーと政治理論――インターセクショナルなフェミニズム』(明石書店

・三木那由他『言葉の展望台』(講談社

 

 周司あきらさんの本は昨年12月の出版ですが、「じんぶん大賞」のノミネート的には今年の扱いなので、今回投票してきました。女性的な境遇から男性的な境遇に性別を移行してきた筆者による、男性社会への少し冷めた目線が印象的ですが、とはいえフェミニズムの傘に留まるわけにもいかず。そんなトランス男性の経験からはじまる男性学の幕開けです。

 ホークスワースさんの著作は、よくぞ翻訳が出たなと思います。大変な仕事だったと思いますので、訳者の皆さんには感謝しています。日本語で読めるフェミニズム理論の翻訳は白人中心的なフェミニズムであることが多く、こうしてインターセクショナリティを前面に押し出した硬派な理論書が読めるのは幸せなことです。わたしの周りではあまり話題になっていない気がするのですが、この本ほんとに良い本です…。

 三木那由他さんの『言葉の展望台』については、もう紹介は必要ありませんね。『群像』に連載されていた同名の連載を書籍化したものです。毎回かならず言語哲学やコミュニケーション理論のアイデアを1つ紹介しつつ、身近な世界のありようをちょっとだけクリアに、それも斜め下から覗き込むように解き明かしていく著作です。同書には三木さんがトランスジェンダーであることをカミングアウトしたときのチャプターも収録されており、個人的には涙なしには読めない、わたし個人にも思い出深い書籍です。

 「じんぶん大賞」の読者投票の締め切りは、本日(11/30)のようでした。1年を振り返るよい時間がありますように。

 

NHK文化センターで清水晶子さんと特別対談します:フェミニズムとトランスジェンダー

 イベントのお知らせです。

 今週末の12/3(土)NHKカルチャー青山(NHK文化センター青山教室)にて、『トランスジェンダー問題』に解説も書いてくださった清水晶子さんと特別対談「フェミニズムトランスジェンダー」をします。この講座は『トランスジェンダー問題』の翻訳出版をきっかけとしてはいますが、話す内容は書籍には縛られません。

 申し込みは、以下の「webあかし」のページから見に行くと分かりやすいと思います。対面の教室(青山)とオンラインと、2つの形態どちらでも参加できます。見逃し配信もあるようです。

webmedia.akashi.co.jp

 対談の内容ですが、2人でしたい話をします。

 わたしは、無性愛的フェミニズムの源流のひとつとして、60年代後半~70年代前半あたりのアメリカのラディカルフェミニズムの理論家の思想をとりあげ、そこから「ノンバイナリー・フェミニズム」の可能性を探っていくつもりです。

 トランスの権利に関心をもつ人には「ラディカルフェミニズム」に悪い印象を持っている方もいるかもしれませんが、『トランスジェンダー問題』の訳者解題に書いた通り、トランス親和的なラディカルフェミニズムはあり得るはずですし、むしろわたしは、昨今の「ジェンダー・クリティカル」を名乗る人々の方が、よほどラディカルフェミニズムの核心を逸していると考えています。「セックス・イズ・リアル」で「ジェンダー解体」というのがその方針のようですが、性役割(sex role)の強制によって男性優位体制(家父長制)下で構築された階級としての女性、という出発地点から始まる初期のラディカルフェミニズム理論は、そのような方針とは正反対の方向に向かっていたはずです(多くの人が指摘していることですが)。

 わたし自身がノンバイナリーなので、バイナリーなトランスの人たちの経験とは異なる視角から話を組むことになると思いますが、(セックスだろうとジェンダーだろうとどちらの意味であろうと)性差を創り出す社会の仕組みがある限り性差別はなくならないとしたラディカルフェミニズムから、ノンバイナリーたちが学べることは多いだろうと思っています。うん、楽しそう。

 対する清水さんからは、わたしがそうして掘り起こそうとする思想から零れ落ちてきた女性たちの経験にはじまるフェミニズム理論・運動をご紹介いただく予定です。鍵となる問いは、おそらく「フェムであることって悪いこと?」という問いに(近いもの)になるはずです。その問いは、わたしが先に紹介するラディカルフェミニズム的な発想に対する対抗軸であると同時に、トランス女性であるジュリア・セラーノが「女性性を取り戻す(Reclaiming Femininity)」という言葉でフェミニズムによる「女性性忌避」を問題化した地平にも通じるものとして、トランス的な人々にとっても重要性を持ち続けています。

 以上、だいたいこんな話を出発点に、二人で話していく予定です。お楽しみに。

 

★諸連絡:申し込みにあたって

 いくつか連絡事項です。

(1)性別の質問について

 この講座の申し込みにあたって、性別を訪ねる項目があります。募集開始当初は「男・女の選択肢のみ+回答必須」でしたが、システム改修を施してくださり、「男性・女性・回答しないの3択+回答は必須ではない」ものへ変更されました。最善とはいいがたいですが、性別欄には回答しなくても申し込みが可能になりましたので連絡します。

(2)講座の費用について

 クレジットカードがなければ講座の費用を払えないとの指摘をいただきました。トランスの人の中にはセックスワーカー(や広義の風俗業従事者)の方も少なくなく、そうした方たちはクレカ会社の審査に通らないことがあるため、カードが必須というのは好ましい状況ではありません。すぐには対応できないと思いますが、NHK文化センターの方と今後相談してみます。

(3)費用負担について

 受講費用が、安くは…ありません。オンライン参加で3,300円、教室参加だと4,500円くらいします。ご参加を検討してくださっているトランス・ノンバイナリーの方で、費用がハードルになっている方がいらっしゃいましたら、わたしの連絡先を調べたうえでご連絡ください。何名か、この講座によるわたしへの謝礼を使って、費用を負担させていただいています。

 それでは、土曜日は皆さんにお会いできることを楽しみにしています。

近くて遠いあなたと、フェミニズム

 この記事は、近藤銀河さんによる『トランスジェンダー問題』の書評を紹介するものです。銀河さんの書評が掲載されているのは「ちくまweb」という筑摩書房のサイト、「昨日、なに読んだ?」という書評リレーの1つがその書評です。以下で読めます。

www.webchikuma.jp

 ちなみにこのコーナーには、わたしも今年の5月に寄稿しています

 なお、こうした『トランスジェンダー問題』の「書評の書評」はこれで4本目になります。1本目は三木那由他さんのこちら。

yutorispace.hatenablog.com

2本目は周司あきらさんのこちら。

yutorispace.hatenablog.com

3本目は清水晶子さんのこちらです。

yutorispace.hatenablog.com

 わたしがこうして「書評の書評」を書いているのは、良い書籍に与えられた良い書評を記録し、また『トランスジェンダー問題』の読みかたの一例を知ってもらうためです。

 

1.フェミニズムによるトランス差別

 銀河さんは、フェミニストです。そして、昨今オンライン上で非常に活発に見られる、フェミニズムによるトランス排除に、恐怖と不安と、そして怒りを示します。

 わたしは『トランスジェンダー問題』という本の訳者です。そして、本書が日本で大きな注目を集め、幸いなことに売れている理由が、この「フェミニズムによるトランス排除」の昨今の興隆にあることを知っています。ジェンダーフェミニズムのトピックを積極的にSNSで追いかけていて、トランスジェンダーについての話題を全く目にしたことがないという方の方が、もはや少数派でしょう。

 しかし『トランスジェンダー問題』をお読みになった方の多くが気づいているように、そうしてSNS上で毎日話題に挙がっているようなトピックには、この本では紙幅が割かれていません。なぜなら、そこで「問題」視され、議論のネタにされていることは、トランスたちの生を形作る厳しい現実のほんの一側面にすぎず、もっと言えばトランスに対して敵対的な人が手前勝手に想定した「トランスジェンダー問題」に過ぎないからです。

 だから『トランスジェンダー問題』では、トランスたちを真に苦しめている問題の所在を、トランス自身の視点から、これでもかというくらいに書いています。そして、本書の訳者として様々に文章を書いたり、話したりする機会を与えられるとき、わたしも一貫して、著者であるフェイと同じそのスタンスやパースペクティブを意識するようにしています。

 それに対して銀河さんは、フェミニズムによるトランス排除の現実に、今一度『トランスジェンダー問題』を接続してくれました。わたしは、はっきり言ってこの話題について話したくありません。ただただ不毛だからです。それに、わたしは「やるべき話」をしたい。しかし銀河さんは、この話題から逃げることをしませんでした。それは、銀河さんがまぎれもなくフェミニストだからだとわたしは思います。

 

2.フェミニストであるということ

 しかし、銀河さんがフェミニストであるとはどのような意味においてでしょうか。書評のなかで、銀河さんは次のように語ります。

私自身、セクシュアルマイノリティで、病気を抱えていて、車椅子を普段は使っていたりと、色々な属性を持っている。私は女性だけど、その女性としての経験は、他の女性と完全に同じで、分かち合えるようなものではないと思う。そして、それら無数のラベルによって受ける差別や特権の付与は、私にとって固有の経験であると同時に、フェミニストとしての私を構成する経験でもある。

 銀河さんは女性です。しかし、銀河さんが女性であり、この性差別的な社会の在りように立ち向かっていることだけが、銀河さんをフェミニストにしているのではありません。銀河さんがフェミニストであるとき、そのフェミニズムの基礎にあるのは、「セクシュアルマイノリティ」で、「病気を抱えていて」、普段「車いすを使っている」ような「女性」としての経験です。

 ここに挙げられたのは、銀河さんも書いているように、個人を形作る無数のラベルの一部に過ぎません。そして、そうしたラベルが表すそれぞれの状況は、この社会を生きて行くうえで、無数の剥奪や、特権をもたらします。しかし、そうして銀河さんに固有にもたらされる差別や特権のすべてが流れ込む経験が、「フェミニストとしての銀河さん」を構成しています。

 少し、シンプルに書いてみましょう。ここに、障害のあるシスの女性と、障害のないトランスの女性がいたとします(※障害は個人に『ある』ものではありませが、この表現を使うことを許してください)。2人はともに女性ですから、「女性としての経験」をすることでしょう。このとき、私たちは「2人は『女性である』という点では共通点があるけど、シス/トランス、障害/健常の軸では、それぞれ違っている点もあるね」と考えます。そしてその発想を敷衍して、「2人には違う点もあるけれど、女性であるという点では『同じ経験』をするから、一緒にフェミニズムをやっていけるはず」と考えそうになります。

 しかし、それは銀河さんが考えていることとは少し違います。先ほどの、障害のあるシスの女性と、障害のないトランスの女性と、2人が「女性として」何らかの経験をするとき、その経験には否応なく、障害の有無やシス/トランスの別が影響を及ぼしています。社会の性差別が光のように降り注ぐ、その光の屈折率が違っているのです。

 だから、女性たちのあいだに単純な「共通性」を想定することは難しいものとなります。銀河さんが「無数のラベルによって受ける差別や特権の付与は、私にとって固有の経験であると同時に、フェミニストとしての私を構成する経験でもある」と書くとき、銀河さんは単に「女性」という性差のみをもって、フェミニズムを支える「共通の経験」が存在する、という発想を退けているように思います。先ほどの引用から、もう一度抜き出しておきましょう。

私は女性だけど、その女性としての経験は、他の女性と完全に同じで、分かち合えるようなものではないと思う。

 私とあなたは、個人としては違った側面もあるかもしれないけれど、でも女性であるという点では全く同じだから、私たちは同じ「女性の経験」をしているはず。この発想を、フェミニストとしての銀河さんは退けます。確かに、女性たちは「近い」経験をしているかもしれません。しかしそれは、「共通の」経験、全く「同じ」経験がそこにあることを意味しないのです。

 

3.近さと遠さ

 だからこそ、私たちは経験の「近さ」と「遠さ」に常に意識を向け続ける必要があります。実際、その「近さ」と「遠さ」を無視してしまうことで、歴史上フェミニズムは失敗を犯し、女性たちを抑圧するものにもなってきたからです。互いの経験のどこに「近さ」があり、どこに「遠さ」があるのか。そして、どのような社会の構造が、そうした経験の「近さ」を生み出しているのか。これらを丁寧に見極めて初めて、フェミニズムをはじめとした社会正義の追及は可能になるのでしょう。もし、その作業を怠り…

そういうプロセスを踏まずに差別の経験の共通性だけでまとまってしまえば、個々の違いは団結につながらず、個々の違いはただ決裂を生むだけのものになってしまう。それは、私が生きてきた経験とはあまりに違うものだし、差別が作られるシステムそのものでもある。

 女性には女性に固有の、全ての女性に共通の、全く同じ経験があるはずだ。この前提から始まるフェミニズムは、歴史上いつも、社会の中では相対的に恵まれた立場にいる女性たちから生まれるものです。英米のコンテクストで言えば、「白人フェミニズム」と呼ばれているものに他なりません。

 かつて60年代後半からのアメリカのラディカルフェミニズム運動を率いた女性たちは、次のように考えました。女性には生殖能力があるが、その生殖能力が、男性優位の社会によって搾取されている。その搾取は、性交渉の強要、避妊や中絶の禁止、子育ての強要として起きている。そして、全ての女性には生殖能力(子宮や卵巣)があるのだから、これは全人口の半分に共通の経験なのだ――と。

 しかし、そうした想定の下で「全女性に共通の政治課題」として中絶や避妊の権利が女性解放運動の中心的なテーマとなっていくのを、少し冷ややかな目で見ていた女性たちもいましたことでしょう。集団として代表させるとすれば、それは有色(人種の)女性たちです。

 「生殖からの解放」を求める白人女性たちが、医師による不妊化措置(卵管結紮など)を避妊の手段として位置づけ、その規制緩和を求めていたこの時代、貧しい女性や有色の女性たちには、政策的な不妊化が横行していました。

 白人女性たちが「中絶の権利(abortion rights)」という言葉を発明し、それを権利として確立させていった一方で、有色の女性たちが概念として鍛え上げて行ったのは「生殖の権利(reproductive rights)」でした。この「生殖の権利」の概念には、産むか産まないかを自分で決める権利だけでなく、意に反して不妊化を強いられない、子どもを産んだ後も、貧困や不衛生のない環境で安全に子育てができる、そうしたことへの権利が含まれています。当時の(そして現在も)有色の女性たちにとっては、「産まない権利」だけでなく、「産む権利」や「安全に育てる権利」が重要だったからです(この発想がのちに「生殖の正義」運動につながっていきます)。

 身体が備える生殖能力は、確かにほぼ全ての女性に共通のものかもしれません。しかし、同じその機能を持っている女性たちであっても、女性たちが生きさせられている環境や、求めなければならない正義の内実は同じではありません。そのことへの批判や気づきが、「白人フェミニズム」と呼ばれる、「一枚岩の女性の経験」に基礎を置くフェミニズムとは異なるフェミニズムのあり方を歴史的に示してきたのです。

 

4.フェミニズムによるトランス差別(再)

 フェミニズムが本当にフェミニズムであるために、必要なのは「近さ」と「遠さ」を見極めることです。

 「そういうプロセスを踏まずに差別の経験の共通性だけでまとまって」(上記引用)しまうと、個々の経験の違いは、単に運動の輪を乱すだけになってしまいます。あるいはもっと酷いときには、「同じ経験をしていない」と見なした相手を排除し、差別するための論理にフェミニズムは堕してしまいます。そして実際に…

残念だけど、こうして差別を作り出すことに、現在のフェミニズムは一部で加担してしまっている。特に、この中でトランスジェンダーは、想像の中で危険な存在とされ、まるでなにかの概念かモンスターのように扱われてしまう。そして、ここで生まれた差別は、差別に抗おうとする全てを嫌悪する人たちに利用され、運動を粉砕しようとする。

 トランスジェンダーの女性は、自分とは同じ経験をしていない。むしろ、セクシズム的な社会において女性を抑圧する、男性と同じ経験をしている側だ。そうした極めて単純化された、誤った発想に駆り立てられ、トランスたちを差別しているフェミニストがいます。全女性に共通の普遍的な「女性の経験」が存在すると頑なに信じ、あらゆる女性たちの差異を無視し、トランスたちを想像上の脅威に仕立て上げています。

 ここに、「白人フェミニズム」として歴史的に批判されてきた思考との類似性を見ることは難しくありません。実際、メインストリームのフェミニストたちは、人種的・階級的に恵まれた自分たちの状況を「全ての女性に共通のもの」として錯覚し、場合によっては有色の女性や労働者階級の女性たちを抑圧するような行為を積み重ねてきました。いま、一部のシスのフェミニストたちが行っているのは、それと同じことです。

 そうしたフェミニズムの弱点は、容易に右派に利用されていきます。実際のところ、差別に抗う人々を嫌悪し、現在の社会のありかたを保持し続けようとする右派によって「トランス排除的フェミニスト」が利用される状況は世界的に出現しています。それどころか、中絶の権利にすら反対する宗教右派と積極的に活動する人々も出始める始末です。日本でも、産経新聞や『WILL』をみるとよいでしょう。昨年の「LGBT理解増進法」をめぐる自民党の恥ずかしいまでの顛末において、山谷えり子喝采を送ったフェミニストが多くいたことも、私たちは忘れてはなりません。トランスを差別するためなら、もう恥すら捨ててしまったフェミニストがいます。

 

5.『トランスジェンダー問題』はすでにあった

 『トランスジェンダー問題』が英国で出版され、日本語に翻訳されなければならないのは、このような現実が存在しているからです。

 しかし同時に、忘れてはいけないこともあります。それは、『トランスジェンダー問題』が取り上げて論じている、医療制度の不備、雇用現場でのマイノリティ差別、破綻した刑務所システム、セックスワークの犯罪化、LGBT運動の主流化にともなう新自由主義への迎合などの問題は、これまでもずっと、誰かが語り続けてきたテーマだったということです。フェミニズムによるトランス排除に対する対抗言説にも、長い歴史があり、昨今のオンライン上でも、多くの人たちがその言葉を生み出し続けてきました。

 銀河さんは言います。

この本を読み終えて、私は不思議と、初めて読んだ気がしなかった。昨日読んだ本なのに、ずっと前からこの本を読んでいたような気がするのだ。それは、トランスジェンダーを差別する言葉をずっと見聞きし続けてきたからで、トランスジェンダー差別に反対し、トランスジェンダーの生を何とか取り戻そうとする言葉も、また同時に見聞きしてきたからだ、と思う。

 『トランスジェンダー問題』は、すでにどこにでもありました。確かに画期的な本です。翻訳できたことを光栄に思います。類書があるかと言われれば、ありません。これだけの精度と、これだけの射程の広さで、トランスにとっての政治課題として「言うべきことを言った」本は、存在していません。

 しかし、Twitterの文字やスペースでの言葉、色々な人のブログ、ミニコミ誌、そして近しい人との会話などのなかで、『トランスジェンダー問題』に書かれているような内容はすでに表現されてきました。それは事実です。そのことを忘れたくはありません。とりわけ、この本を書いたショーン・フェイさんも、訳したわたしも、言語的資源という点では圧倒的に社会的強者であるだけになおさら、です。

 しかしこれは、書かれるべきことがすでに書き尽くされたことを意味しません。

 もし差別の言葉を見聞きしていたら、この本を読んでみてほしい。もし差別の言葉に疲れ果てていたらこの本を読んでみてほしい。もし差別に反対する言葉を読んでいたらこの本を読んでみてほしい。/そしてもし、差別からなにかを取り戻したいと、この本を読んで思ったら、もしその余裕があるのなら、虚空に向かってでもいいから、その気持ちを伝えてみてほしい。

 差別の言葉を見聞きしたら、そしてもし余裕があるのなら、ぜひ『トランスジェンダー問題』を読んでください。そして、差別から取り戻したいものがあると感じたら、どうかその気持ちを発信して、伝えてください。銀河さんが『トランスジェンダー問題』をはじめて読んだ気がしなかったように、そうして生み出されたあなたの言葉や表現は、きっと誰かを支え励ますものになるはずです。