ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

いつかトランスがもっと世界を豊かにできる未来が来る日まで

 この記事は、清水晶子さんによる『トランスジェンダー問題』の書評を紹介するものです。清水さんの書評が掲載されているのは『文藝』(2022年冬季号)、書評のタイトルは「いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで」です。

 ちなみにわたしは『トランスジェンダー問題』の訳者ですが、こうした「書評の書評」的な文章は3本目です。1本目は三木那由他さんのこちら。

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2本目は周司あきらさんのこちらです。

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わたしがこうして「書評の書評」を書いているのは、良い書籍に与えられた良い書評を記録し、また『トランスジェンダー問題』の読みかたの一例を知ってもらうためです。

 

1.清水さんの文章

 冒頭でも書いた通り、清水さんの文章は『文藝』という雑誌に掲載されています。いわゆる「文芸誌」ですね。『文藝』には(おそらく毎号)小説を対象とした各1ページの書評欄があるのですが、清水さんの『トランスジェンダー問題』の書評は「特別書評」の枠で、実に11ページもあります。これは絶対に『文藝』編集部の強い思いがなければ実現しないことで、雑誌の読み手たちに『トランスジェンダー問題』の意義を速やかに伝える機会をこうした設けてくださったことに、深く感謝します。(なお、同じ『文藝』2022年冬季号には鈴木みのりさんのエッセイも寄稿されているなど、1冊丸ごと充実した号でした。魔女特集とても面白かったです)

 清水さんの文章の内容に入る前に、その文体に触れないわけにはいきません。一方でこの文章は、清水さんの多くの論考がそうであるような骨ばった文体なのですが(※1)、他方でこの文章は、分かる人ならば分かるように、『トランスジェンダー問題』の原著(The Transgender Issue)の文体、つまりフェイさんの英語の文体ともとてもよく似ています。

 わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者ですが、フェイさんの英語を日本語にするには苦労しました。この本のフェイさんは「社会のマジョリティに優しく言葉を尽くしてあげる責任」を徹底的に拒否しており、癖はないけれど無骨な英語がページを埋めています。フェイさんはライターでもありますから、そのごつごつした文体は意図して選択されたものです。

 しかしわたしは、なるべく読みやすい日本語になるような選択を心がけました。もちろん読みづらい文章も多々あると思いますし、日本語としてこなれていない表現も多用しました。しかし原著と読み比べた方にはお判りのように、わたしはフェイさんの文体を大きく曲げています。(全ての翻訳はそのようなものかもしれませんが)

 清水さんのこの書評は、そうしてわたしが曲げた文体をもう一度原著に近づけるような、そういった文体で書かれています。おそらく清水さんは英語の方を先にお読みになっていたでしょうから、当たり前ではありますが、もし『トランスジェンダー問題』の原著の英語の雰囲気を知りたいという方がいらっしゃれば、この書評を読んでいただくと少し伝わると思います。

※1:清水さんの文体が「骨ばっている」というのは、誉め言葉です。堅い芯があり、余分な肉がそぎ落とされ、文章の骨格が明確です。気安く噛んでも簡単に咀嚼されようとしないのも、骨っぽいです。

 

2.『トランスジェンダー問題』入門として

 そうして骨ばった文体とはいえ、あるいはそうだからこそ、この書評は『トランスジェンダー問題』の全体像を手短に知りたい方のための格好の入門(書)という役割を果たすことができます。

 『文藝』の発売が『トランスジェンダー問題』(邦訳)そのものの発売とほぼ同時だったこともあり、清水さんは『トランスジェンダー問題』のスタンスと、論じられているトピックの全体像が読者に伝わるよう、非常に配慮してくださっています。

 この本で「正義」と呼ばれているものはなにか?なぜ「トランスジェンダー『問題』」というタイトルなのか?トランス差別はいつから存在するのか?オンライン上のトランスヘイト言説がさかんに語る「トランス問題」は、誰の・どのような利益のために作りだされたものか?あなたはなぜ、ほんの2~3年前までひとつも関心を持っていなかったトランスジェンダーのことに今では血眼になって、日々ろくでもない情報源を追いかけているのか?それまで、トランスたちはどこで何をしていたのだろう?トランスジェンダートランスジェンダー「の」話をすることは、むしろトランスジェンダーを孤立化させるのではないか?なぜ「トランスジェンダー問題」を深掘りすることが、正義のための連帯を生み出すのか?…

 これらの問いは、その多くが『トランスジェンダー問題』内部でフェイさんによって説かれているものです。だからこそ、そうした問いに対する答えを簡潔にまとめていく清水さんの文章は、『トランスジェンダー問題』を読むにあたってどのような点に注目するとよいのか、私たちに教えてくれています。

 少し生意気なことを言いますが、清水さんの書評をはじめて読んだとき、わたしは自分が The Transgender Issue を読んだ時とほとんど同じ視点から清水さんが『トランスジェンダー問題』を読んでいたことに驚きました。私たちは同じ人文系の研究者ですから、書籍を読むときに頭のなかに描いていく大きな地図や、そのなかで着目する特徴が似たものになるのは当然ではありますが、それにしても、この本の新しさや意義など、書籍の内容に直接かかわらない点も含めて、清水さんとわたしは驚くほどよく似た仕方で『トランスジェンダー問題』という著作を理解していたのでした。

 これから『トランスジェンダー問題』を読もうという方や、いざ読み始めたはいいけれど、どのような点に注目しながら読めばいいのか悩んでいる方。そういう方には、まず『文藝』のこの書評をおすすめします。オンラインで読めないのは残念ですが、今号の『文藝』はただでさえ読み応えがあるので、清水さんの書評目当てで購入しても、損はしないと思います。

 

3.いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで

 清水さんの書評には「いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで」という、少しまどろっこしいタイトルが付いています。このフレーズはしかし、わたしが『トランスジェンダー問題』の「あとがき」の末尾に書いたものです。

 わたしはその本の訳者ですが、この本が読まれる必要がなくなる日が来ることを切に願っています。なぜなら、この本が英国で書かれなければならなかったこと、そして日本語に訳されなければならなかったこと自体は、喜ばしいことではないからです。簡単に言ってしまえば、トランスジェンダーがこんなにも憎まれ、虐げられ、殺されない世界であれば、『トランスジェンダー問題』(The Transgender Issue)などという本は書かれる必要も訳される必要もありませんでした。

 だからわたしが望むのは、いまだ一度も訪れたことのない未来、『トランスジェンダー問題』が読まれる必要がなくなる未来です。繰り返しますが、その未来はまだ来ていません。この本は、読まれる必要があります。おそらくは5年後も10年後も、悔しいけれど読まれる必要があります。そして10年経ってもなお、この本は日本社会で読まれるに値する本であり続けるでしょう。それでもわたしは、いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来ることを願っていますし、いつかそうした未来が来ると信じてもいます。

 清水さんは、わたしのこの願いを「希望」に接続してくれました。「この本を書かせたのは、私の希望である」(『トランスジェンダー問題』p.375)というショーン・フェイさんの言葉と、「訳者を突き動かしたのもまた、希望である」(同p.416)というわたしの言葉を、清水さんは書評の冒頭で次のように敷衍します。

ここで「希望」とはより良い世界を望むことであり、望むことを通じて現状を変えることでもある。現状を変え、世界をより良くしたいと願う希望は、それが「世界」にかかわる以上、言うまでもなく、トランスジェンダーの人々のためだけのものではない。(…)しかしまた、そもそも希望とは、希望を必要とする状況に対峙して、つまり、望ましくない、変革すべき状況に抗して志されるものでもある。(『文藝』2022年冬季号p.344)

 希望は、心のなかに勝手に湧いてくるものではありません。それは、変革すべき状況に立ち向かい、それに抗うことを「志す」ことで胸に抱かれるものです。その意味では、『トランスジェンダー問題』を訳したわたしの希望は、日本語を読み、日本語と生きるトランスたちと共に、新しく希望を抱くことへの希望でもあります。ときに社会を変える希望を持つことすら許されてこなかったトランスの仲間たちと、少しでも多くの希望をともに抱ける社会を創ることへの希望です。そしてそれは、これまでとは違った仕方でトランスの政治運動が盛り上がりつつある、2022年の状況がわたしに与えてくれた希望でもあります。先日はトランスマーチに行ってきました。

 

4.いつかトランスが世界を豊かにできる未来が来る日まで

 『トランスジェンダー問題』を翻訳していて、どうしても分からない箇所がありました。それは「結論」の末尾、本文の最後の最後に書かれた、次のパッセージです。

私たちは、論争されたり馬鹿にされたりするための「問題」(イシュー)ではない。私たちは、トランスではない多くの人々のための希望の象徴でもある。そうした人々は、私たちの生のうちに、より完全に、より自由に生きる可能性を見いだすだろう。だからこそ、私たちを憎む人もいる。私たちが自由であるという光り輝く栄華に脅えているのだ。私たちの存在は、この世界を豊かにする。(『トランスジェンダー問題』p.375)

 トランスの存在は、この世界を豊かにする。このパッセージの意味が、わたしには分かりませんでした。この最後の1文は、それまでの精緻な議論に急ごしらえでとってつけられたように見えました。

 清水さんの書評は、この1文の読みかたを教えてくれました。もちろん、清水さんの解釈が絶対に正しいとは限りません。それでも、わたしはその書評を読んで、なるほどそう読むことができたのかと、感嘆したのです。書評から引用しておきましょう。

本書の希望の先にある未来、「この本が読まれる必要がなくなる未来」とは、トランスの人々が、「誤った談義(おしゃべり)」の問題(ネタ)に還元されたり、無責任な興味や悪意ある監視の視線に一方的に晒されたりすることなく、その経験の固有性について自ら語ることができる未来であり、そしてその語りが分かち合われる未来である。(『文藝』2022年冬季号p.354)

 トランスジェンダーは、無責任の興味の対象にされ続けてきました。「ねぇ、身体の手術はどこまで終わってんの?」。

 トランスジェンダーは、「誤った談義(おしゃべり)」のネタにされ続けています。日本でも、ここ3~4年で急に。これまでトランスのことなど全く興味もなかった人たちが、急に騒ぎ立てて、社会のすき間を生きさせられてきたトランスたちをすき間から引きずり出して、本当は女性アスリートや女性受刑者の生活など興味もないくせに、「トランスジェンダー問題」に限ってその話題に飛びつく人たちがいます。

 トランスジェンダーは悪意ある監視の視線に晒され続けてきました。やれ女なら女らしくしろ。男なら俺とついてこい。こんなに手の大きな女性がいるはずがない。妊娠できないなら女じゃない…。トランスの身体は、監視の対象であり続けています。その監視行為は同時に、トランスでない人々の身体も切り刻み続けています。

 『トランスジェンダー問題』は、そうした嘲笑や悪意、監視の下からトランスの生存を奪還するための書籍です。と同時に、著者のフェイさんは「ほとんど禁欲的なまでに、個人的な経験について語ることを回避」(『文藝』p.354)します。そうして個人の経験を語ることでしか世間にトランスが耳を傾けてもらえなかった、まさにその構図にも、真正面から抗おうとしているからです。

 そうしてやっと、あきらさんが言うように「トランスのやるべき話」を始めることができたのです。それが『トランスジェンダー問題』です。

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 しかし、トランスたちを苦しめている真の「問題」を詳らかにする『トランスジェンダー問題』という著作は、わたしが冒頭から書いてきたように、いつか読まれる必要がなくなるべきものです。

 トランスたちが、トランスたちの置かれた問題的な状況について語ること。それはとても大切なことです。だからこそ『トランスジェンダー問題』には価値があります。しかし、きたるべき未来は、そんな語りが不必要になる未来です。

 そうして「この本が読まれる必要がなくなる未来が来る日」には、トランスたちは何を語るのでしょうか。その日には、トランスたちが「その経験の固有性について自ら語る」(上記引用『文藝』p.354)のです。そして「その語りが分かち合われる」(同)のです。

 トランスジェンダートランスジェンダーの話をするとき、目下のところそれは、苦悩や喪失、差別の経験と切り離すことができません。親から勘当され、身体を壊しながら働いて、お金を貯めて手術をして、戸籍を変えて結婚して、頑張ればトランスジェンダーだって幸せになれる!という強者の自己責任論もトランスコミュニティにははびこっていますが、でもその明るい人生の影にどれだけの命が失われたでしょう。

 『トランスジェンダー問題』が読まれる必要がなくなる未来には、トランスジェンダーとして生きることは苦悩や喪失、差別の経験から切り離されることになるでしょう。それがいったいどんな未来なのか、わたしにも想像がつきません。でもそれはきっと、本当の意味でトランスジェンダートランスジェンダーであることの意味(What does it mean to be a transgender person)を語り出せる未来なのでしょう。

 そうして、トランスであることがどんなことなのか、それぞれのトランスたちが生き生きと語り出せる日が来るのなら。割り当てられた性別から自分を解き放すこと、自分の名前を選ぶこと、身体が自分のものになっていくこと、性別とともに社会関係がぐるりと変わっていくこと、それらがトランスに固有の経験として、なんの足かせもなく語られる未来が来るのなら。トランスジェンダーは間違いなく、世界を今よりももっともっと豊かにするでしょう。

 私たちの存在は、この世界を豊かにする(『トランスジェンダー問題』p.375)。清水さんの書評は、その1文の意味を、わたしに教えてくれました。最後に、清水さんの書評の最後の1文を引用しておきます。ぜひ、この書評から、あなたのバトンを受け継いでください。

トランスではない人々が、トランスの人々と共にその豊かさを分かちあう未来に向けて、「いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで」、私たちは――トランスであろうとなかろうと――この本を読み、そして「トランスジェンダー問題」を引き受ける。(『文藝』2022冬季号p.354)