ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

近くて遠いあなたと、フェミニズム

 この記事は、近藤銀河さんによる『トランスジェンダー問題』の書評を紹介するものです。銀河さんの書評が掲載されているのは「ちくまweb」という筑摩書房のサイト、「昨日、なに読んだ?」という書評リレーの1つがその書評です。以下で読めます。

www.webchikuma.jp

 ちなみにこのコーナーには、わたしも今年の5月に寄稿しています

 なお、こうした『トランスジェンダー問題』の「書評の書評」はこれで4本目になります。1本目は三木那由他さんのこちら。

yutorispace.hatenablog.com

2本目は周司あきらさんのこちら。

yutorispace.hatenablog.com

3本目は清水晶子さんのこちらです。

yutorispace.hatenablog.com

 わたしがこうして「書評の書評」を書いているのは、良い書籍に与えられた良い書評を記録し、また『トランスジェンダー問題』の読みかたの一例を知ってもらうためです。

 

1.フェミニズムによるトランス差別

 銀河さんは、フェミニストです。そして、昨今オンライン上で非常に活発に見られる、フェミニズムによるトランス排除に、恐怖と不安と、そして怒りを示します。

 わたしは『トランスジェンダー問題』という本の訳者です。そして、本書が日本で大きな注目を集め、幸いなことに売れている理由が、この「フェミニズムによるトランス排除」の昨今の興隆にあることを知っています。ジェンダーフェミニズムのトピックを積極的にSNSで追いかけていて、トランスジェンダーについての話題を全く目にしたことがないという方の方が、もはや少数派でしょう。

 しかし『トランスジェンダー問題』をお読みになった方の多くが気づいているように、そうしてSNS上で毎日話題に挙がっているようなトピックには、この本では紙幅が割かれていません。なぜなら、そこで「問題」視され、議論のネタにされていることは、トランスたちの生を形作る厳しい現実のほんの一側面にすぎず、もっと言えばトランスに対して敵対的な人が手前勝手に想定した「トランスジェンダー問題」に過ぎないからです。

 だから『トランスジェンダー問題』では、トランスたちを真に苦しめている問題の所在を、トランス自身の視点から、これでもかというくらいに書いています。そして、本書の訳者として様々に文章を書いたり、話したりする機会を与えられるとき、わたしも一貫して、著者であるフェイと同じそのスタンスやパースペクティブを意識するようにしています。

 それに対して銀河さんは、フェミニズムによるトランス排除の現実に、今一度『トランスジェンダー問題』を接続してくれました。わたしは、はっきり言ってこの話題について話したくありません。ただただ不毛だからです。それに、わたしは「やるべき話」をしたい。しかし銀河さんは、この話題から逃げることをしませんでした。それは、銀河さんがまぎれもなくフェミニストだからだとわたしは思います。

 

2.フェミニストであるということ

 しかし、銀河さんがフェミニストであるとはどのような意味においてでしょうか。書評のなかで、銀河さんは次のように語ります。

私自身、セクシュアルマイノリティで、病気を抱えていて、車椅子を普段は使っていたりと、色々な属性を持っている。私は女性だけど、その女性としての経験は、他の女性と完全に同じで、分かち合えるようなものではないと思う。そして、それら無数のラベルによって受ける差別や特権の付与は、私にとって固有の経験であると同時に、フェミニストとしての私を構成する経験でもある。

 銀河さんは女性です。しかし、銀河さんが女性であり、この性差別的な社会の在りように立ち向かっていることだけが、銀河さんをフェミニストにしているのではありません。銀河さんがフェミニストであるとき、そのフェミニズムの基礎にあるのは、「セクシュアルマイノリティ」で、「病気を抱えていて」、普段「車いすを使っている」ような「女性」としての経験です。

 ここに挙げられたのは、銀河さんも書いているように、個人を形作る無数のラベルの一部に過ぎません。そして、そうしたラベルが表すそれぞれの状況は、この社会を生きて行くうえで、無数の剥奪や、特権をもたらします。しかし、そうして銀河さんに固有にもたらされる差別や特権のすべてが流れ込む経験が、「フェミニストとしての銀河さん」を構成しています。

 少し、シンプルに書いてみましょう。ここに、障害のあるシスの女性と、障害のないトランスの女性がいたとします(※障害は個人に『ある』ものではありませが、この表現を使うことを許してください)。2人はともに女性ですから、「女性としての経験」をすることでしょう。このとき、私たちは「2人は『女性である』という点では共通点があるけど、シス/トランス、障害/健常の軸では、それぞれ違っている点もあるね」と考えます。そしてその発想を敷衍して、「2人には違う点もあるけれど、女性であるという点では『同じ経験』をするから、一緒にフェミニズムをやっていけるはず」と考えそうになります。

 しかし、それは銀河さんが考えていることとは少し違います。先ほどの、障害のあるシスの女性と、障害のないトランスの女性と、2人が「女性として」何らかの経験をするとき、その経験には否応なく、障害の有無やシス/トランスの別が影響を及ぼしています。社会の性差別が光のように降り注ぐ、その光の屈折率が違っているのです。

 だから、女性たちのあいだに単純な「共通性」を想定することは難しいものとなります。銀河さんが「無数のラベルによって受ける差別や特権の付与は、私にとって固有の経験であると同時に、フェミニストとしての私を構成する経験でもある」と書くとき、銀河さんは単に「女性」という性差のみをもって、フェミニズムを支える「共通の経験」が存在する、という発想を退けているように思います。先ほどの引用から、もう一度抜き出しておきましょう。

私は女性だけど、その女性としての経験は、他の女性と完全に同じで、分かち合えるようなものではないと思う。

 私とあなたは、個人としては違った側面もあるかもしれないけれど、でも女性であるという点では全く同じだから、私たちは同じ「女性の経験」をしているはず。この発想を、フェミニストとしての銀河さんは退けます。確かに、女性たちは「近い」経験をしているかもしれません。しかしそれは、「共通の」経験、全く「同じ」経験がそこにあることを意味しないのです。

 

3.近さと遠さ

 だからこそ、私たちは経験の「近さ」と「遠さ」に常に意識を向け続ける必要があります。実際、その「近さ」と「遠さ」を無視してしまうことで、歴史上フェミニズムは失敗を犯し、女性たちを抑圧するものにもなってきたからです。互いの経験のどこに「近さ」があり、どこに「遠さ」があるのか。そして、どのような社会の構造が、そうした経験の「近さ」を生み出しているのか。これらを丁寧に見極めて初めて、フェミニズムをはじめとした社会正義の追及は可能になるのでしょう。もし、その作業を怠り…

そういうプロセスを踏まずに差別の経験の共通性だけでまとまってしまえば、個々の違いは団結につながらず、個々の違いはただ決裂を生むだけのものになってしまう。それは、私が生きてきた経験とはあまりに違うものだし、差別が作られるシステムそのものでもある。

 女性には女性に固有の、全ての女性に共通の、全く同じ経験があるはずだ。この前提から始まるフェミニズムは、歴史上いつも、社会の中では相対的に恵まれた立場にいる女性たちから生まれるものです。英米のコンテクストで言えば、「白人フェミニズム」と呼ばれているものに他なりません。

 かつて60年代後半からのアメリカのラディカルフェミニズム運動を率いた女性たちは、次のように考えました。女性には生殖能力があるが、その生殖能力が、男性優位の社会によって搾取されている。その搾取は、性交渉の強要、避妊や中絶の禁止、子育ての強要として起きている。そして、全ての女性には生殖能力(子宮や卵巣)があるのだから、これは全人口の半分に共通の経験なのだ――と。

 しかし、そうした想定の下で「全女性に共通の政治課題」として中絶や避妊の権利が女性解放運動の中心的なテーマとなっていくのを、少し冷ややかな目で見ていた女性たちもいましたことでしょう。集団として代表させるとすれば、それは有色(人種の)女性たちです。

 「生殖からの解放」を求める白人女性たちが、医師による不妊化措置(卵管結紮など)を避妊の手段として位置づけ、その規制緩和を求めていたこの時代、貧しい女性や有色の女性たちには、政策的な不妊化が横行していました。

 白人女性たちが「中絶の権利(abortion rights)」という言葉を発明し、それを権利として確立させていった一方で、有色の女性たちが概念として鍛え上げて行ったのは「生殖の権利(reproductive rights)」でした。この「生殖の権利」の概念には、産むか産まないかを自分で決める権利だけでなく、意に反して不妊化を強いられない、子どもを産んだ後も、貧困や不衛生のない環境で安全に子育てができる、そうしたことへの権利が含まれています。当時の(そして現在も)有色の女性たちにとっては、「産まない権利」だけでなく、「産む権利」や「安全に育てる権利」が重要だったからです(この発想がのちに「生殖の正義」運動につながっていきます)。

 身体が備える生殖能力は、確かにほぼ全ての女性に共通のものかもしれません。しかし、同じその機能を持っている女性たちであっても、女性たちが生きさせられている環境や、求めなければならない正義の内実は同じではありません。そのことへの批判や気づきが、「白人フェミニズム」と呼ばれる、「一枚岩の女性の経験」に基礎を置くフェミニズムとは異なるフェミニズムのあり方を歴史的に示してきたのです。

 

4.フェミニズムによるトランス差別(再)

 フェミニズムが本当にフェミニズムであるために、必要なのは「近さ」と「遠さ」を見極めることです。

 「そういうプロセスを踏まずに差別の経験の共通性だけでまとまって」(上記引用)しまうと、個々の経験の違いは、単に運動の輪を乱すだけになってしまいます。あるいはもっと酷いときには、「同じ経験をしていない」と見なした相手を排除し、差別するための論理にフェミニズムは堕してしまいます。そして実際に…

残念だけど、こうして差別を作り出すことに、現在のフェミニズムは一部で加担してしまっている。特に、この中でトランスジェンダーは、想像の中で危険な存在とされ、まるでなにかの概念かモンスターのように扱われてしまう。そして、ここで生まれた差別は、差別に抗おうとする全てを嫌悪する人たちに利用され、運動を粉砕しようとする。

 トランスジェンダーの女性は、自分とは同じ経験をしていない。むしろ、セクシズム的な社会において女性を抑圧する、男性と同じ経験をしている側だ。そうした極めて単純化された、誤った発想に駆り立てられ、トランスたちを差別しているフェミニストがいます。全女性に共通の普遍的な「女性の経験」が存在すると頑なに信じ、あらゆる女性たちの差異を無視し、トランスたちを想像上の脅威に仕立て上げています。

 ここに、「白人フェミニズム」として歴史的に批判されてきた思考との類似性を見ることは難しくありません。実際、メインストリームのフェミニストたちは、人種的・階級的に恵まれた自分たちの状況を「全ての女性に共通のもの」として錯覚し、場合によっては有色の女性や労働者階級の女性たちを抑圧するような行為を積み重ねてきました。いま、一部のシスのフェミニストたちが行っているのは、それと同じことです。

 そうしたフェミニズムの弱点は、容易に右派に利用されていきます。実際のところ、差別に抗う人々を嫌悪し、現在の社会のありかたを保持し続けようとする右派によって「トランス排除的フェミニスト」が利用される状況は世界的に出現しています。それどころか、中絶の権利にすら反対する宗教右派と積極的に活動する人々も出始める始末です。日本でも、産経新聞や『WILL』をみるとよいでしょう。昨年の「LGBT理解増進法」をめぐる自民党の恥ずかしいまでの顛末において、山谷えり子喝采を送ったフェミニストが多くいたことも、私たちは忘れてはなりません。トランスを差別するためなら、もう恥すら捨ててしまったフェミニストがいます。

 

5.『トランスジェンダー問題』はすでにあった

 『トランスジェンダー問題』が英国で出版され、日本語に翻訳されなければならないのは、このような現実が存在しているからです。

 しかし同時に、忘れてはいけないこともあります。それは、『トランスジェンダー問題』が取り上げて論じている、医療制度の不備、雇用現場でのマイノリティ差別、破綻した刑務所システム、セックスワークの犯罪化、LGBT運動の主流化にともなう新自由主義への迎合などの問題は、これまでもずっと、誰かが語り続けてきたテーマだったということです。フェミニズムによるトランス排除に対する対抗言説にも、長い歴史があり、昨今のオンライン上でも、多くの人たちがその言葉を生み出し続けてきました。

 銀河さんは言います。

この本を読み終えて、私は不思議と、初めて読んだ気がしなかった。昨日読んだ本なのに、ずっと前からこの本を読んでいたような気がするのだ。それは、トランスジェンダーを差別する言葉をずっと見聞きし続けてきたからで、トランスジェンダー差別に反対し、トランスジェンダーの生を何とか取り戻そうとする言葉も、また同時に見聞きしてきたからだ、と思う。

 『トランスジェンダー問題』は、すでにどこにでもありました。確かに画期的な本です。翻訳できたことを光栄に思います。類書があるかと言われれば、ありません。これだけの精度と、これだけの射程の広さで、トランスにとっての政治課題として「言うべきことを言った」本は、存在していません。

 しかし、Twitterの文字やスペースでの言葉、色々な人のブログ、ミニコミ誌、そして近しい人との会話などのなかで、『トランスジェンダー問題』に書かれているような内容はすでに表現されてきました。それは事実です。そのことを忘れたくはありません。とりわけ、この本を書いたショーン・フェイさんも、訳したわたしも、言語的資源という点では圧倒的に社会的強者であるだけになおさら、です。

 しかしこれは、書かれるべきことがすでに書き尽くされたことを意味しません。

 もし差別の言葉を見聞きしていたら、この本を読んでみてほしい。もし差別の言葉に疲れ果てていたらこの本を読んでみてほしい。もし差別に反対する言葉を読んでいたらこの本を読んでみてほしい。/そしてもし、差別からなにかを取り戻したいと、この本を読んで思ったら、もしその余裕があるのなら、虚空に向かってでもいいから、その気持ちを伝えてみてほしい。

 差別の言葉を見聞きしたら、そしてもし余裕があるのなら、ぜひ『トランスジェンダー問題』を読んでください。そして、差別から取り戻したいものがあると感じたら、どうかその気持ちを発信して、伝えてください。銀河さんが『トランスジェンダー問題』をはじめて読んだ気がしなかったように、そうして生み出されたあなたの言葉や表現は、きっと誰かを支え励ますものになるはずです。