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フェミニズムはひとつではない:書籍紹介『ホワイト・フェミニズムを解体する』

 明石書店から発売されたばかりのカイラ・シュラー著『ホワイト・フェミニズムを解体する:インターセクショナル・フェミニズムによる対抗史』(飯野由里子 監訳;川副 智子 訳)がとても素晴らしかったので、紹介を書く。いま、フェミニズムを考え、実践するために、知っておくとよいことがたくさん書かれている。

1.フェミニズムはひとつではない

 フェミニズムが性差別をなくすための諸実践(理論、運動、思想、創作、発信、ケア etc...)の総体として定義できるのなら、フェミニズムはただひとつの本質的な特徴を持っている、と言えそうだ。しかし『ホワイト・フェミニズムを解体する』が私たちに突き付けるフェミニズムの歴史は、フェミニズムが決して「ひとつ」ではないことを教えている。
 そうしたフェミニズムの複数性は、本書ではなによりも、ホワイト・フェミニズム(White Feminism)と、それに対抗するインターセクショナル・フェミニズムというかたちで提示される。なぜ、そのようにフェミニズムを「分け」て、複数化させるのか。それは、前者のホワイト・フェミニズムが(女性であるという点以外の)様々なマイノリティ集団を積極的に抑圧し、結果としてマイノリティ女性たちを排除してきたからである。
 例えば、アメリカの女性参政権獲得運動で大きな役割を果たしたスタントンは、明らかにフェミニスト的な意識に基づきつつ次のように述べていた。

ですが、女性の教育と地位向上によって、アングロサクソン人種を奮い立たせ、今よりもっと高みにある崇高な生き方へ導く力を手に入れられます。そうすれば、引力の法則によって全人種をもっと水平な場所に載せることができるのです。(本書p.62)

 スタントンは白人の人種的優位を決して疑わず、白人女性が文明社会を導けば「その他の人種の人びと」にも良いことがあると力説した。そして彼女は、女性参政権よりも黒人(男性)の参政権が先に獲得される趨勢が明らかとなるや、「外から来た未開人」「不幸にも堕落した黒人人種」、「旧世界の不毛な文明」との戦いに自分は身を捧げたと述べ、「洗練された知性ある女性」である自分たちよりも黒人男性の方が上位に置かれていることに不平を漏らした。スタントンは、海運王ジョージ・フランシス・トレインのような、露骨な人種差別者とも手を組んでいる。
 もう一人の例を挙げる。産児調節運動の「顏」でもあるマーガレット・サンガーは、安価な避妊法の普及に努め、女性たちの生と生殖の健康と権利を守ることに生涯を捧げたフェミニストとして知られている。日本にも訪れたことがあり、国内でも肯定的な評価が定着しているように思う。しかしサンガーにとっての「避妊」には、単に女性が自らのセクシュアリティを自律的に生きられるようにする、ということ以上の目的が明確に存在していた。サンガーは、「不適格者」の人口を減らすための強力な手段として、バース・コントロールを理解していたのである。
 たとえば彼女は、「自然の摂理に背く」との産児調節運動への非難に対して、産児制限はむしろ「不適格者の排除と障害者または将来障害者になるであろう人々の誕生の阻止」によって、適格者の生存を後押し、そちらへと傾いた自然のながれに掉さすものであると考えていた(本書p.168)。
 同様の思想は、サンガーが立ち上げた産児調節連盟の声明文にも確認できる。

わたしたちは国家の健康で適格な構成員が不適格者という重荷を背負っているのを見ています。(…)わたしたちは不適格者や精神異常者のために、精神薄弱者のために――けっして生まれるべきではなかった人々のために――立派な住まいを建て、それらの人々の存在が次世代に引き継がれるのが許されていることについて、なにも語ってきませんでした。今こそ一丸となって、この根源的な不幸と無知と怠慢と犯罪のまえで立ち止まらなければなりません。これが産児制限運動のプログラムです。(本書p.179)

 避妊法を普及させようとするサンガーの運動は、保守的な性道徳への挑戦として受け止められ、全米で大きな反発を浴びていた。コムストック法で何度も逮捕されている。しかし、そうしたサンガーを支えた後ろ盾のひとりは、KKKクー・クラックス・クラン)にも所属する白人至上主義者であり、かつ、優生学推進論者でもあるロスロップ・ストッダードだった。アメリカの大半の州が優生学から手を引いていた1950年代になっても、サンガーは「不適格女性」の政策的な不妊化を支持していた。ようするに、ゴリゴリの優生思想家だったということだ。(ここで私たちは、日本の優生保護法が「優生条項」と「母体保護条項」の2つでできていたことを想起する。)
 このように、人種的マジョリティの、健常な、中流~上流階級の女性たちによって担われたフェミニズム――すなわち本書のいう「ホワイト・フェミニズム」――は、黒人の人びとや障害のある人々など、他のマイノリティ集団を積極的に抑圧することがあった。そしてそれは、そうした集団にもたくさん含まれるはずの、マイノリティ女性を「フェミニズム」から排除し続けるものでもあった。
 しかし、全てのフェミニストがそのように有害さを振るっていたわけではない。本書『ホワイト・フェミニズムを解体する』が力説するのは、そうしたマジョリティ女性中心のフェミニズム運動が盛り上がるたびごとに、その問題を指摘し、対峙し、また同時に別のフェミニズムを推し進めてきた、そうした「インターセクショナル・フェミニズム」が存在してきたという事実だ。
 先のスタントンと同時代には、フランシス・ハーパーがいた。ハーパーは「女性」というロジックが白人フェミニストに都合よく用いられていると指摘し、人種を些細な論点として脇へ追いやる当時のフェミニストたちを非難した(本書p.37)。ハーパーはそうした辛辣なホワイト・フェミニズム批判と並行して、その巧みな演説の技能を使って南部の女性たちを鼓舞し続けた。サンガーと同じ時代を生きたフェミニストにも、サンガーが「不適格者」としてひとまとめにした貧困層を生きる黒人女性の健康のために奔走したドクター・フェレビーがいた。
 フェミニズムは、ひとつではない。フェミニズムが具体的な人々の実践として、特定の時代・地域にあらわれるや、フェミニズムはその時代・地域において機能するさまざまな制度的不正義を内側にとりこんでしまうことがある。しかしそれに対抗し、新たな道を示してきたのもまた、フェミニズムだ。本書『ホワイト・フェミニズムを解体する』が私たちに教えるのは、そうした複数のフェミニズムが歴史の中に存在し続けてきたということである。

2.インターセクショナル・フェミニズムは新しくない

 こうした本書のスタンスは、近年の「フェミニズム史」で語られるひとつの認識に正面から異を唱えるものでもある。それは、「インターセクショナル・フェミニズムは第3波フェミニズムにおいて/第3波として生まれた」という認識である。
 こうした認識が、いつ、どこで生まれたのかは分からない。もしかすると、「インターセクショナリティ」という言葉をキンバレー・クレンショーが生み出したのが1989年だったという、それだけのことかもしれない。ともあれ、『ホワイト・フェミニズムを解体する』の著者カイラ・シュラーは、インターセクショナル・フェミニズムにたった30年と少しの歴史しか存在しないなどという、こうした認識をはっきり拒否する。
 むしろ、インターセクショナル・フェミニズムの歴史はフェミニズムの歴史と同じだけ長い。これが著者の認識である。フェミニズムが誰かによって具体化され、その社会で力をもつ女性たちがマイノリティ女性たちを抑圧し、害してきたそのたびごとに、インターセクショナルな視点をもったフェミニストは生まれてきた。それが『ホワイト・フェミニズムを解体する』の一貫した理解である。
 私たちは、考えるべきだ。白人の中産階級の女性たちが中心になっていたフェミニズムが、あるときマイノリティ女性から異議申し立てを受け、(90年代/第3波以降は)そうした反省を踏まえて「インターセクショナル・フェミニズム」へと「進化」してきたという歴史認識が依拠する枠組みに、はたして問題はないか。そうした認識枠組み自体が、その時代その時代にあったはずの様々な「インターセクショナル・フェミニズム」を不可視化する危険をもっているのではないか。私たちは考えるべきだ。

3.インターセクショナリティとは何か

 加えて、著者の「インターセクショナリティ」概念そのものとの向き合い方からも、学ぶべきことがある。ここで詳しく論じることはしないが、著者は「インターセクショナリティ」という概念は個人の経験やアイデンティティの記述のために用いるものではないと考えている。一か所引用する。

ひとりの人間がいるだけでは交差的にはなりえないし、ひとつの政治学のみでも交差的にはなりえない。周縁化された人々の経験はありとあらゆる形をとって権力の真の仕組みをむき出しにする。アイデンティティはインターセクショナリティの主要部分を成しているが、提供するのは標的ではなくレンズだ。筆者の盟友であるブリトニー・クーパーの言葉を借りるなら、インターセクショナリティは「アイデンティティの説明としてつくられたのではけっしてない。それは権力の構造がいかに相互に作用しあうかという説明であったはずだ」(本書p.20)

 インターセクショナリティは、権力の交差性を解き明かすための視座であり、ポリティクスの姿勢である。これが『ホワイト・フェミニズムを解体する』の一貫した概念理解であり、そうした理解に基づきつつ、著者はこの概念(インターセクショナリティ)が昨今骨抜きにされつつあることを懸念する。この概念をクレンショーが考案するにいたったブラック・フェミニズムの眼目を、これもまた誤解されることの多い「アイデンティティ・ポリティクス」という概念とともに、改めて考える必要があるだろう(本書p.355)。

4.ホワイト・フェミニズムは解体されるべき

 以上の「インターセクショナリティ」理解はまた、ホワイト・フェミニズムは解体されるべきだという筆者の断固たる立場にも通じている。
 筆者は、一部の恵まれた女性だけがフェミニズムを主導するあり方を変え、その「主流派フェミニズム」にマイノリティ女性たちを「包摂」すればよいのでは、というリベラルな発想を拒否する。なぜなら、そうした主流派フェミニズム――本書でいう「ホワイト・フェミニズム」――は、全ての女性は女性であるだけで同一の経験をしているという神話と、性差別以外の構造的不正義は性差別よりも重要ではないという、2つの誤った前提に立っているからである。
 以下は、トランス排除的フェミニズムを論じる第6章からの引用である。

レイモンドが描いたTERFの枠組みは、性別による抑圧が抑圧の最上位の形だとする聞き覚えのある前提に依拠している。モーガン、レイモンド、ヴォーゲル、その仲間たちは、この宇宙には不当かつ一方的に繁栄を妨げられてきた普遍的な女性の肉体と体験のようなものが存在するという例のファンタジーの長い政治的伝統を新たに反復・進展させたわけだ。TERFの世界観では、人種も資本主義も家族もすべて、疑いの余地なく補助的な要素であって、第一の要素は生物学的な性(…)である。(…)TERFポリティクスの中心には、生物学的にも同様のルーツをもつとされる偽の普遍的「女性」が置かれている。(本書p.277)

 たとえ性差別が普遍的に存在するとしても、全女性に共通の普遍的な性差別の経験があるわけではない。その事実を見誤り、性差だけを抑圧の最大決定項として同定することは、「男性=抑圧者」「女性=被害者」の固着した構図でなにもかも世界を理解するという短絡を許してしまう。それは第一に、資本主義や人種主義、健常主義などが生み出す不正義の存在を抹消し、そして第二に、それらの不正義がプリセットされた「社会」でできるだけ多くの女性が権力を手にすることがフェミニズムであるという、完全に誤った認識を可能にする。
 「男が女を抑圧しているのだから、男から女が権力を取り戻さなければならない」。まったく正しい主張に思う。しかし、そこでやり取りされる「権力」の源が、資本主義や健常主義、帝国主義に由来するものであるかぎり、そうして権威ある立場にたどり着けるのは一部の恵まれた女性だけだ。だから、上の主張に安易に賛同すべきではない。
 例えば、Twitterでもどこでも「ジェンダーギャップ指数」が好んで引用されるのを目にするが、そうした引用を常とするフェミニストたちは、あの数字を発表しているのが世界経済フォーラムである事実をどのように理解しているのだろうか。また、ときに「フェミニスト」を自認する人間が、女性天皇の誕生を望むとか、皇族の自由恋愛に女性の解放を見たとか述べていることがあるが、これらに関しては端的に反吐が出る。
 主流派フェミニズム(ホワイト・フェミニズム)は、修正されるのではなく解体されるべきだ。それは、性差だけを重視し、その他の不正義を容認し、過去の過ちから目をそらし、結局は多くの女性たちの状況をも悪いままにするからである。

 

5.この本を日本で読む

 本書『ホワイト・フェミニズムを解体する』には、監訳者である飯野由里子さんの手による「監訳者解説」が付記されている。ここに全文を引用したいくらい、本書が日本語に訳されたことの意義を高めているように思う。
 監訳者解説の核心は、この本を日本でどのように読むか、という点にある。『ホワイト・フェミニズムを解体する』はアメリカのフェミニズム史をたどった書籍だが、日本のフェミニズムの歴史にもまた、マジョリティ女性を中心化したフェミニズムや、それに対する対抗史が存在している。在日コリアンの女性、沖縄の女性、アイヌの女性、障害女性、クィア女性、トランス女性…。飯野さんが監訳者解題で挙げるこうしたマイノリティ女性たちの運動、フェミニズム史に、しかし私たちはどれほど敬意を払い、また自分たちのあり方を問うことをしてきたか。各人に問われるこの厳しい問いを抜きに本書で「勉強する」ことは、正しい本書の読みかたではないだろう。
 それはまた、単に日本のフェミニズムの歴史をどう理解するかということのみならず、今まさにフェミニズムの名の下に生み出されている暴力や抑圧への加担をどのように削り取り、またジェンダーの軸に限らず、社会正義を求めるさまざまな運動と「フェミニズムが」どのように向き合うべきかを考えることでもある。

もちろん、何世紀にもわたり再生産・強化されてきた差別と搾取と抑圧の構造にヒビを入れていくのは容易な作業ではない。だが、一部の女性の成功や地位の向上や特権の獲得のために、社会の中ですでに不利な状態に置かれている他の人びとを犠牲にしないフェミニズムを実践していこうと努力することは可能だ。もし、ジェンダー平等を求める闘いが、人種・エスニシティ、国籍、性的指向性自認、障害における平等を求めるさまざまな闘いと連携する機会を見過ごさず、積極的にコミットしていこうとするならば、私たちにはまだまだ希望がある。(本書p.370)

私たちに与えられた選択肢は「フェミニズムに賛成するか、否か」ではない。どのようにインターセクショナルなフェミニズムを実践するか、である。それはとても面倒で、苦しい問いだと思う。しかしフェミニズムがひとつではない以上、本当は私たちは一度だってこの問いを免れたことはないはずだ。そして、確かに希望はある。

 この翻訳を出版した明石書店に感謝する。ぜひ、広く読まれて欲しい一冊である。