ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

いつかトランスがもっと世界を豊かにできる未来が来る日まで

 この記事は、清水晶子さんによる『トランスジェンダー問題』の書評を紹介するものです。清水さんの書評が掲載されているのは『文藝』(2022年冬季号)、書評のタイトルは「いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで」です。

 ちなみにわたしは『トランスジェンダー問題』の訳者ですが、こうした「書評の書評」的な文章は3本目です。1本目は三木那由他さんのこちら。

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2本目は周司あきらさんのこちらです。

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わたしがこうして「書評の書評」を書いているのは、良い書籍に与えられた良い書評を記録し、また『トランスジェンダー問題』の読みかたの一例を知ってもらうためです。

 

1.清水さんの文章

 冒頭でも書いた通り、清水さんの文章は『文藝』という雑誌に掲載されています。いわゆる「文芸誌」ですね。『文藝』には(おそらく毎号)小説を対象とした各1ページの書評欄があるのですが、清水さんの『トランスジェンダー問題』の書評は「特別書評」の枠で、実に11ページもあります。これは絶対に『文藝』編集部の強い思いがなければ実現しないことで、雑誌の読み手たちに『トランスジェンダー問題』の意義を速やかに伝える機会をこうした設けてくださったことに、深く感謝します。(なお、同じ『文藝』2022年冬季号には鈴木みのりさんのエッセイも寄稿されているなど、1冊丸ごと充実した号でした。魔女特集とても面白かったです)

 清水さんの文章の内容に入る前に、その文体に触れないわけにはいきません。一方でこの文章は、清水さんの多くの論考がそうであるような骨ばった文体なのですが(※1)、他方でこの文章は、分かる人ならば分かるように、『トランスジェンダー問題』の原著(The Transgender Issue)の文体、つまりフェイさんの英語の文体ともとてもよく似ています。

 わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者ですが、フェイさんの英語を日本語にするには苦労しました。この本のフェイさんは「社会のマジョリティに優しく言葉を尽くしてあげる責任」を徹底的に拒否しており、癖はないけれど無骨な英語がページを埋めています。フェイさんはライターでもありますから、そのごつごつした文体は意図して選択されたものです。

 しかしわたしは、なるべく読みやすい日本語になるような選択を心がけました。もちろん読みづらい文章も多々あると思いますし、日本語としてこなれていない表現も多用しました。しかし原著と読み比べた方にはお判りのように、わたしはフェイさんの文体を大きく曲げています。(全ての翻訳はそのようなものかもしれませんが)

 清水さんのこの書評は、そうしてわたしが曲げた文体をもう一度原著に近づけるような、そういった文体で書かれています。おそらく清水さんは英語の方を先にお読みになっていたでしょうから、当たり前ではありますが、もし『トランスジェンダー問題』の原著の英語の雰囲気を知りたいという方がいらっしゃれば、この書評を読んでいただくと少し伝わると思います。

※1:清水さんの文体が「骨ばっている」というのは、誉め言葉です。堅い芯があり、余分な肉がそぎ落とされ、文章の骨格が明確です。気安く噛んでも簡単に咀嚼されようとしないのも、骨っぽいです。

 

2.『トランスジェンダー問題』入門として

 そうして骨ばった文体とはいえ、あるいはそうだからこそ、この書評は『トランスジェンダー問題』の全体像を手短に知りたい方のための格好の入門(書)という役割を果たすことができます。

 『文藝』の発売が『トランスジェンダー問題』(邦訳)そのものの発売とほぼ同時だったこともあり、清水さんは『トランスジェンダー問題』のスタンスと、論じられているトピックの全体像が読者に伝わるよう、非常に配慮してくださっています。

 この本で「正義」と呼ばれているものはなにか?なぜ「トランスジェンダー『問題』」というタイトルなのか?トランス差別はいつから存在するのか?オンライン上のトランスヘイト言説がさかんに語る「トランス問題」は、誰の・どのような利益のために作りだされたものか?あなたはなぜ、ほんの2~3年前までひとつも関心を持っていなかったトランスジェンダーのことに今では血眼になって、日々ろくでもない情報源を追いかけているのか?それまで、トランスたちはどこで何をしていたのだろう?トランスジェンダートランスジェンダー「の」話をすることは、むしろトランスジェンダーを孤立化させるのではないか?なぜ「トランスジェンダー問題」を深掘りすることが、正義のための連帯を生み出すのか?…

 これらの問いは、その多くが『トランスジェンダー問題』内部でフェイさんによって説かれているものです。だからこそ、そうした問いに対する答えを簡潔にまとめていく清水さんの文章は、『トランスジェンダー問題』を読むにあたってどのような点に注目するとよいのか、私たちに教えてくれています。

 少し生意気なことを言いますが、清水さんの書評をはじめて読んだとき、わたしは自分が The Transgender Issue を読んだ時とほとんど同じ視点から清水さんが『トランスジェンダー問題』を読んでいたことに驚きました。私たちは同じ人文系の研究者ですから、書籍を読むときに頭のなかに描いていく大きな地図や、そのなかで着目する特徴が似たものになるのは当然ではありますが、それにしても、この本の新しさや意義など、書籍の内容に直接かかわらない点も含めて、清水さんとわたしは驚くほどよく似た仕方で『トランスジェンダー問題』という著作を理解していたのでした。

 これから『トランスジェンダー問題』を読もうという方や、いざ読み始めたはいいけれど、どのような点に注目しながら読めばいいのか悩んでいる方。そういう方には、まず『文藝』のこの書評をおすすめします。オンラインで読めないのは残念ですが、今号の『文藝』はただでさえ読み応えがあるので、清水さんの書評目当てで購入しても、損はしないと思います。

 

3.いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで

 清水さんの書評には「いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで」という、少しまどろっこしいタイトルが付いています。このフレーズはしかし、わたしが『トランスジェンダー問題』の「あとがき」の末尾に書いたものです。

 わたしはその本の訳者ですが、この本が読まれる必要がなくなる日が来ることを切に願っています。なぜなら、この本が英国で書かれなければならなかったこと、そして日本語に訳されなければならなかったこと自体は、喜ばしいことではないからです。簡単に言ってしまえば、トランスジェンダーがこんなにも憎まれ、虐げられ、殺されない世界であれば、『トランスジェンダー問題』(The Transgender Issue)などという本は書かれる必要も訳される必要もありませんでした。

 だからわたしが望むのは、いまだ一度も訪れたことのない未来、『トランスジェンダー問題』が読まれる必要がなくなる未来です。繰り返しますが、その未来はまだ来ていません。この本は、読まれる必要があります。おそらくは5年後も10年後も、悔しいけれど読まれる必要があります。そして10年経ってもなお、この本は日本社会で読まれるに値する本であり続けるでしょう。それでもわたしは、いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来ることを願っていますし、いつかそうした未来が来ると信じてもいます。

 清水さんは、わたしのこの願いを「希望」に接続してくれました。「この本を書かせたのは、私の希望である」(『トランスジェンダー問題』p.375)というショーン・フェイさんの言葉と、「訳者を突き動かしたのもまた、希望である」(同p.416)というわたしの言葉を、清水さんは書評の冒頭で次のように敷衍します。

ここで「希望」とはより良い世界を望むことであり、望むことを通じて現状を変えることでもある。現状を変え、世界をより良くしたいと願う希望は、それが「世界」にかかわる以上、言うまでもなく、トランスジェンダーの人々のためだけのものではない。(…)しかしまた、そもそも希望とは、希望を必要とする状況に対峙して、つまり、望ましくない、変革すべき状況に抗して志されるものでもある。(『文藝』2022年冬季号p.344)

 希望は、心のなかに勝手に湧いてくるものではありません。それは、変革すべき状況に立ち向かい、それに抗うことを「志す」ことで胸に抱かれるものです。その意味では、『トランスジェンダー問題』を訳したわたしの希望は、日本語を読み、日本語と生きるトランスたちと共に、新しく希望を抱くことへの希望でもあります。ときに社会を変える希望を持つことすら許されてこなかったトランスの仲間たちと、少しでも多くの希望をともに抱ける社会を創ることへの希望です。そしてそれは、これまでとは違った仕方でトランスの政治運動が盛り上がりつつある、2022年の状況がわたしに与えてくれた希望でもあります。先日はトランスマーチに行ってきました。

 

4.いつかトランスが世界を豊かにできる未来が来る日まで

 『トランスジェンダー問題』を翻訳していて、どうしても分からない箇所がありました。それは「結論」の末尾、本文の最後の最後に書かれた、次のパッセージです。

私たちは、論争されたり馬鹿にされたりするための「問題」(イシュー)ではない。私たちは、トランスではない多くの人々のための希望の象徴でもある。そうした人々は、私たちの生のうちに、より完全に、より自由に生きる可能性を見いだすだろう。だからこそ、私たちを憎む人もいる。私たちが自由であるという光り輝く栄華に脅えているのだ。私たちの存在は、この世界を豊かにする。(『トランスジェンダー問題』p.375)

 トランスの存在は、この世界を豊かにする。このパッセージの意味が、わたしには分かりませんでした。この最後の1文は、それまでの精緻な議論に急ごしらえでとってつけられたように見えました。

 清水さんの書評は、この1文の読みかたを教えてくれました。もちろん、清水さんの解釈が絶対に正しいとは限りません。それでも、わたしはその書評を読んで、なるほどそう読むことができたのかと、感嘆したのです。書評から引用しておきましょう。

本書の希望の先にある未来、「この本が読まれる必要がなくなる未来」とは、トランスの人々が、「誤った談義(おしゃべり)」の問題(ネタ)に還元されたり、無責任な興味や悪意ある監視の視線に一方的に晒されたりすることなく、その経験の固有性について自ら語ることができる未来であり、そしてその語りが分かち合われる未来である。(『文藝』2022年冬季号p.354)

 トランスジェンダーは、無責任の興味の対象にされ続けてきました。「ねぇ、身体の手術はどこまで終わってんの?」。

 トランスジェンダーは、「誤った談義(おしゃべり)」のネタにされ続けています。日本でも、ここ3~4年で急に。これまでトランスのことなど全く興味もなかった人たちが、急に騒ぎ立てて、社会のすき間を生きさせられてきたトランスたちをすき間から引きずり出して、本当は女性アスリートや女性受刑者の生活など興味もないくせに、「トランスジェンダー問題」に限ってその話題に飛びつく人たちがいます。

 トランスジェンダーは悪意ある監視の視線に晒され続けてきました。やれ女なら女らしくしろ。男なら俺とついてこい。こんなに手の大きな女性がいるはずがない。妊娠できないなら女じゃない…。トランスの身体は、監視の対象であり続けています。その監視行為は同時に、トランスでない人々の身体も切り刻み続けています。

 『トランスジェンダー問題』は、そうした嘲笑や悪意、監視の下からトランスの生存を奪還するための書籍です。と同時に、著者のフェイさんは「ほとんど禁欲的なまでに、個人的な経験について語ることを回避」(『文藝』p.354)します。そうして個人の経験を語ることでしか世間にトランスが耳を傾けてもらえなかった、まさにその構図にも、真正面から抗おうとしているからです。

 そうしてやっと、あきらさんが言うように「トランスのやるべき話」を始めることができたのです。それが『トランスジェンダー問題』です。

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 しかし、トランスたちを苦しめている真の「問題」を詳らかにする『トランスジェンダー問題』という著作は、わたしが冒頭から書いてきたように、いつか読まれる必要がなくなるべきものです。

 トランスたちが、トランスたちの置かれた問題的な状況について語ること。それはとても大切なことです。だからこそ『トランスジェンダー問題』には価値があります。しかし、きたるべき未来は、そんな語りが不必要になる未来です。

 そうして「この本が読まれる必要がなくなる未来が来る日」には、トランスたちは何を語るのでしょうか。その日には、トランスたちが「その経験の固有性について自ら語る」(上記引用『文藝』p.354)のです。そして「その語りが分かち合われる」(同)のです。

 トランスジェンダートランスジェンダーの話をするとき、目下のところそれは、苦悩や喪失、差別の経験と切り離すことができません。親から勘当され、身体を壊しながら働いて、お金を貯めて手術をして、戸籍を変えて結婚して、頑張ればトランスジェンダーだって幸せになれる!という強者の自己責任論もトランスコミュニティにははびこっていますが、でもその明るい人生の影にどれだけの命が失われたでしょう。

 『トランスジェンダー問題』が読まれる必要がなくなる未来には、トランスジェンダーとして生きることは苦悩や喪失、差別の経験から切り離されることになるでしょう。それがいったいどんな未来なのか、わたしにも想像がつきません。でもそれはきっと、本当の意味でトランスジェンダートランスジェンダーであることの意味(What does it mean to be a transgender person)を語り出せる未来なのでしょう。

 そうして、トランスであることがどんなことなのか、それぞれのトランスたちが生き生きと語り出せる日が来るのなら。割り当てられた性別から自分を解き放すこと、自分の名前を選ぶこと、身体が自分のものになっていくこと、性別とともに社会関係がぐるりと変わっていくこと、それらがトランスに固有の経験として、なんの足かせもなく語られる未来が来るのなら。トランスジェンダーは間違いなく、世界を今よりももっともっと豊かにするでしょう。

 私たちの存在は、この世界を豊かにする(『トランスジェンダー問題』p.375)。清水さんの書評は、その1文の意味を、わたしに教えてくれました。最後に、清水さんの書評の最後の1文を引用しておきます。ぜひ、この書評から、あなたのバトンを受け継いでください。

トランスではない人々が、トランスの人々と共にその豊かさを分かちあう未来に向けて、「いつかこの本が読まれる必要がなくなる未来が来る日まで」、私たちは――トランスであろうとなかろうと――この本を読み、そして「トランスジェンダー問題」を引き受ける。(『文藝』2022冬季号p.354)

これからはトランスの話を

 この記事は、周司あきらさんによる『トランスジェンダー問題』の書評記事を紹介するためのものです。あきらさんの記事が掲載されているのは「じんぶん堂:powered by 好書好日」、文章のタイトルは「「トランスジェンダー問題」は、シスジェンダー問題である」です。

 以下のリンクから読めます。

book.asahi.com

 ちなみにわたしは『トランスジェンダー問題』の訳者ですが、こうした「書評の書評」的な文章は2本目になります。1本目は三木那由他さんのこちら。

yutorispace.hatenablog.com

 こうして文章を書いているのは、良い書籍に与えられた良い書評を記録するため、そしてまだ『トランスジェンダー問題』をお読みでない方に、本書の”読みかた”の一例を知ってもらうためです。

 

1.あきらさんの文章

 そうは言ったものの、あきらさんの文章は短くきれいにまとまっているので、文章そのものを読んでいただくのが一番よいと思います。

 ただ、わたしはここに、あきらさんの書籍紹介がきれいにまとまっているという、その事実を記録しておきたいと思います。日本語で400ページを超す著作の内容を、各章ごとのポイントだけでなく、書籍全体のスタンスまで含めて短い紙幅で伝えるのは容易ではありません。やはり、あきらさんは文章を書くひとだと思いました。

 わたしはあきらさんのブログを昔から好んで読んでいましたが、こうして色々な場所で文章が読めることを嬉しく思います。ちなみに、あきらさんは今すでに何冊も出版計画があるそうですから、今後も楽しみですね。

 

2.「トランスジェンダー問題」はシスジェンダー問題である

 さて、そのようにコンパクトにまとまっているように見えるあきらさんの文章ですが、実は甘えを許さない厳しい問いかけが、いくつも読者に投げかけられています。

 まずはタイトル。「トランスジェンダー問題はシスジェンダー問題である」。しかしこの表題は、慎重に読まれる必要があるでしょう。あきらさんは、「トランスジェンダーを苦しめている問題を作っているのはシスジェンダーなのだから、問題の解決責任はシスジェンダーにある」といった、単純な話をしてはいないからです。

 そう、三木さんの書評が「私たちトランスジェンダー」と「あなたたちシスジェンダー」というシンプルな対立構図によっては”問題”を理解していなかったように、あきらさんもまた、「問題を作っているのはシスなのだから、シスがどうにかしろ」とだけ書いているわけではありません。

 確かに、現在の世の中は圧倒的にシスジェンダー中心的にできています。だからこそ、人口のほんの1%にも満たない、わずかなわずかなトランスたちが、不当な目に遭い続けています。ですから、トランスたちを苦しめる「問題」が、シス中心的な社会構造に由来するというのは、全くその通りです。あきらさんも書いています。

 しかし、あきらさんが「トランスジェンダー問題はシスジェンダー問題」であるというタイトルに込めたパースペクティブは、それに尽きません。このタイトルの意味が語られる、記事の最終段落を引用しておきましょう。

本書では多岐にわたる「トランスジェンダー問題」が論じられている。読者は、トランスの人々が受ける不平等は、ほかのマイノリティ集団とよく似ていると気づくだろう。トランスの抱える問題は、トランスだけの課題ではない。もちろん、トランスの存在自体がトラブルとなっているわけでもない。そしてまた、問題を生み出したり仕組みを運用したりしている人の多くは、トランスではない、シスジェンダーの人々である。だから枠組みを変えるために、いっしょに考え、行動してほしい。原書とそっくりな赤い表紙が目印だ。

 この引用個所の「そしてまた」以降は、先ほど書いてきた話です。しかしそれ以前、段落冒頭で指摘されているのは、トランスの人々を苦しめる不平等が、他のマイノリティ集団をよく似ている、ということです。

 これは、フェイさんが『トランスジェンダー問題』で一貫して書いていることに他なりません。トランスジェンダーを苦しめている問題は、シスジェンダーを苦しめている問題と同根である。移民であったり、障害があったり、女性であったり、LGBであったり、セックスワーカーだったり…、世の中で「標準=デフォルト」でないとされてきた人たちが、不均衡にいろいろなものを剥奪されている現実があります。トランスジェンダーもそうした集団の1つですが、そうした多種多様なマイノリティから不当にいろいろなものを剥奪する差別には、共通の力学が確かに働いています。実際のところ私たちは、人種差別が優生思想によって正当化されていたり、クィアな人々が「病気・障害」のフレームで排除されてきた歴史をよく知っています。性差別の正当化のために引き合いに出され続ける「生物学的差異」が、結局はシス男性の身体を「標準」の地位に置き、女性たちの「保護=管理」を是認してきたことも、周知の通りです。

 だから、トランスジェンダーを苦しめている「問題」は、トランスジェンダー「だけ」を苦しめている問題ではありません。それは、シスジェンダーの人々のなかに分断を持ちこみ、シスジェンダー集団のなかに相対的な剥奪を生み出している、社会そのものの歪みと同じ根っこを持っています。あきらさんは次のように書いていました。

だから枠組みを変えるために、いっしょに考え、行動してほしい。

 一緒に行動してほしい。これは、シスジェンダーの問題でもあるのだから。

 シスジェンダーの中に不要なヒエラルキーを生み出し、抑圧と剥奪を存置し続けている、その同じ不正義が、他でもないトランスたちを苦しめているのだから。

 いまや「トランスジェンダー問題はシスジェンダー問題である」というタイトルに込められた重要なパースペクティブの1つは明らかでしょう。それは、単に「シスの側に責任がある」と語るだけでなく(もちろんそうした視点は絶対に必要です)、私たちがいっしょに考え、一緒に行動するための合言葉なのです。

 

3.トランス差別

 とはいえ、あきらさんはこの本が『トランスジェンダー問題』であることを決して忘れていません。この本は、トランスたちを苦しめる差別について、丁寧な調査に基づいて、目や耳を塞ぎたくなるくらいのリアリティをもって書いていきます。

 ところでしかし、「トランス差別」とはなんでしょう?

たとえば「オンライン上のトランス差別が激しいみたいだけど、どう対抗したらいい?」と熱心なあなた。ありがとう。けれどもトランスジェンダーにとって差別的でない時代なんて、そもそも無いにひとしい。トランスの人々は、シスの人々によって都合よく作られたこの世の中で、つねにすでに生活してきた。まずそんな現実がある。「昨今の」「ネット上に」だけトランスの人々が生息しているわけではないため、勝手に実情を矮小化してはならない。

「トランス差別」と聞いて、Twitterを思い浮かべたあなた。あなたは何も分かっていません。あきらさんもそう言っている通りです。私たちが生きる社会が、トランスにとって差別的でなかったことなどありません。トランスが生まれ、生きる社会はいつも、いつだってどこだって、シスジェンダーに都合よく作られてきたのですから。お茶の水大学が(たかだか戸籍に記載された「長女」や「長男」の続柄がマジョリティと違うだけの)トランス女性を受け入れると発表した2018年よりも前から、ずっと、ずっと、ずっと前から、世の中はずっとトランスにとって差別的でした。今もです。

 勝手に実情を矮小化してはいけません。「トランス差別」は2018年に始まったものでも、オンライン上のものでもありません。この社会全体に、空間的にも時間的にも深く深くはびこってきたものです。

 だから考えてください。「トランス差別に反対します」とハッシュタグをつけて、SNSに投稿する前に。あなたは、何に反対しているのですか?SNSのアカウント名や、イベントの壁紙にトランスフラッグを付けているあなた。あなたが「トランスアライ」になろうとするとき、あなたはどこを向いていますか?

 

4.これからはトランスの話を

 すべての元凶は、トランスの話が聞かれない世の中の仕組みです。だからこそ『トランスジェンダー問題』は書かれました。トランスを「問題」的な存在としてフレーミングする昨今のパニック言説に抗して、社会に深く根差すトランス差別の実態を明らかにするために、『トランスジェンダー問題』は書かれました。

 やっと、トランスジェンダーたちが「トランスジェンダー問題」について話す時間が来たのです。やっと、トランスたちが自分たちを苦しめる「問題」について話すターンがきたのです。世の中の99.9999%の本がシスジェンダーによって書かれ、シスジェンダーのために書かれているなかで、やっとこの本が出たのです。『トランスジェンダー問題』は、トランスの話が聞かれてこなかったという、そうした残酷な歴史と現在に立ち向かうための本なのです。

トランスジェンダー問題』はまさにそんな惨状をひっくり返すために、あえてこのタイトルを引き受けている本なのだ。いいじゃないか、ここからはトランスたちのしたい話、すべき話をしていこう。

 ここからは、トランスたちのしたい話、すべき話をしていこう。

 ひとりのトランス男性にこのように言わしめただけでも、わたしは『トランスジェンダー問題』を翻訳した甲斐があります。

 シスの人たちが手前勝手にトランスについて語るような環境は、もう終わりにしなければなりません。シスの人々が上から押し付けてくる「温情」や「助言」なんて、まっぴらごめんです。トランスたちの言葉をかすめとって、結局は自分の興味のあることを大声で話しつづける「トランスアライ」は、消え去るべきでしょう。

 ここからは、トランスたちのしたい話、すべき話をしていこう。もし、あなたがトランスではないのなら。あなたがこれからなすべきことは、なんですか?

トランスジェンダーと「私たち」:三木那由他さん『群像』11月号「論点」を読む

 この記事は、三木那由他さんによる『群像』11月号の「論点」を読み、考えたことを書き記すものです。ただ、三木さんのこの文章はショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』の書評的な文章でもありますから、わたしがこれから書こうとしているのは「書評の書評」に近いものなります。

 なぜそんな回りくどいことを、と思うかもしれません。ただ、これには理由があります。まずは、三木さんがこの文章を書いてくださった事実を記録しておきたいこと。次に、三木さんのこの文章から、私たちは大切なことを学べると信じるからです。そしてそれは、『トランスジェンダー問題』という書物をどのように読むかについて、大切な視座を与えてくれてもいるように思います。

 ご存じの方も多いでしょうが、わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者です。しかし、この本は発売から一カ月が経ち、とうにわたしの手から離れました。ですから、これは『トランスジェンダー問題』の訳者によるものというより、『トランスジェンダー問題』の読者の一人によって書かれたものだと思ってください。

 

1.三木さんの文章

 これから紹介する三木さんの文章は、講談社『群像』2022年11月号に掲載されたものです。紙面の枠は「論点」で、タイトルは「「トランスジェンダー問題」を語り直す」です。この枠は、もともと書評の枠ではありません。ですから、三木さんの文章も『トランスジェンダー問題』の”書評”ではないかもしれません。しかし、なぜこの本がトランスの当事者たちに期待されているのか、その期待の説明が、本書の紹介を踏まえつつ丹念に展開されます。まだ『トランスジェンダー問題』を読んでいない方にも、あるいはすでに読んだ方にも、ぜひ読まれてほしい文章です。



 ちなみに、わたしは全く文芸誌を読まない人間ですが、2021年8月の同じく「論点」に清水晶子さんが「居どころのないわたしたちの、此処ではない此処」を書いたときは、池袋のジュンク堂ですぐに立ち読みして、そして買いました。これもとても良い文章です。わたしは「クィア」という言葉にはなじめないのですが、清水さんが書く「クィア」には、身体のなかの磁石が引っ張られる気がします。

 

2.「トランスジェンダー問題」

 三木さんの文章に戻りましょう。この文章は、『トランスジェンダー問題』(The Transgender Issue)という書籍が話題になった2021年の熱気をふり返ることから始まります。しかし本編にあたる部分で最初に書かれるのは、トランスジェンダー(という言葉)の定義です。多くの人が「トランスジェンダー(問題)」について関心を持っているように見えながら、依然としてこれだけの紙幅を使ってこうした定義的説明を繰り返さなければならない状況は、とても歯がゆいものです。

 その後、三木さんの個人的な話が始まります。プライベートに係わる内容でもあり、この点についてはぜひ『群像』当該号をお読みください。ただ重要なのは、三木さんが個人的に経験した就労・就職の困難、経済的困難、そして医療現場で受けた差別的対応を、三木さん自身が決して「個人的なこと」としては位置づけていないことです。そう、それは「トランスジェンダーにとっての問題」であり、そこには確かに、三木さんが(公にしている通り)トランスジェンダーであることによって経験させられた、そういった経験が存在しています。

 

3.私たちはトランスジェンダー

 だからそれは「トランスジェンダー問題」です。三木さんの言葉を引用します。

この本がトランス/ノンバイナリーの人々に歓迎された理由は、もはや明らかだろう。私たちはこの本で語られているような問題に、現に直面している。そして当事者同士で語り合うとき、確かに私たちはこうした問題についてしゃべっている。そしてそれがトランスジェンダーだけの問題でないこともわかっているのに、メディアなどでトランスジェンダーに焦点が当たるときにはそうした側面は見えなくなり、自分たちだけがほかと切り離された独特な存在として語られる。このことに、ずっと不満を抱えてきたのだ。(298)

 これは「私たちの問題」だと三木さんは言います。三木さんがここで「私たちの」ということで指しているのは、「私たちトランスジェンダーの」ということです。私たちはこうした(就労・医療・貧困・メンタルヘルス…等々の)問題に直面し、私たちはいつもそうした問題について話している、と三木さんは言います。そして、それが私たちトランスジェンダーだけの問題ではなく、より広く社会の経済構造や医療システム、メンタルヘルスが置き去りにされる文化などに関係していることにも、私たちは気づいていたはずだ。

 詳しくはまた別の記事で書こうと思いますが、ここで三木さんは「トランスジェンダー」という(政治)集団を立ち上げようとしています。トランスジェンダーであることで差別を受けることがある、集団としてのトランスジェンダーです。そんな集団、最初からあったのでは?と思われるかもしれません。しかし『トランスジェンダー問題』の著者であるフェイさんが「Trans people」という言葉を繰り返すとき、フェイさんはそこで、三木さんがここで行っているように「トランスジェンダーという集団」を立ち上げようとしていたように思います。この何気ない単語に、わたしが「トランスたち」という(少し変な)訳語を宛てたのも、こうした理由に基づくものです。

 

4.私は「トランスジェンダー」ではない

 しかし、そうして強固に立ち上がったように見える「私たち=トランスジェンダー」の集団性を、三木さんは同じ文章のなかであっさりと崩してしまいます。

とはいえ、そうはいっても私は、トランスジェンダーの人々のなかでは極めて特権的で、スムーズに生活を送れている人間だ。家族や親せき、友人のサポートもあり、大学院まで出ていて、いまは安定した職業にもつき、こんなふうに自分の意見を語る場まで与えられている。(295)

 多くのトランスジェンダーとは違った状況に自分はある、と三木さんは言います。家族から縁を切られたり、頼るべき場所もないなか貧困にあえいだり、自国での迫害を恐れて国外での不安定な身分を続けたりするトランスジェンダーと、現在の自分は同じ状況にはない、と言います。だから自分は、「まるでトランスジェンダーたちの「代表」とはなれていない。むしろ外れ値のような存在」(299)だと。

 トランスジェンダーの人口はとても少ないです。出生時に割り当てられた性別と、現在のジェンダーアイデンティティが食い違う人、という緩やかな定義であれば、人口の0.6~0.8%くらいが該当するとことが知られています。ただ、そのなかには自分を「トランスジェンダー」とは理解しないノンバイナリーも大量に含まれるでしょうから、トランス的なノンバイナリーと、トランス男性/トランス女性の合計なら、おそらく0.2~0.5%くらいといったところでしょうか(肌感覚です)。そして、自分の生活実態として性別を移行している人(すなわち書類の性別と生活上の性別が食い違うことで著しく不利益を被ったり、あるいはそうした不利益を回避するために法的な登録上の性別を変更している人)に絞れば、その割合は0.1未満~0.2%くらいになるのではないでしょうか(繰り返しますが肌感覚での数値です)。

 そう考えると、三木さんが経験してきたような差別をリアルに経験する「トランスジェンダー」の人は、多めに見積もったとしても0.5%くらいになるでしょう。200人に1人です。もし、200人に1人しかいない「仲間」にたまたま会えたら。200人中199人はぜったいに経験しないが、そのうち1人が経験するようなことがあるとしたら。そして、その経験を分かち合えるような「200分の1の仲間」に会えたら。わたしとあなたは同じだ!と言いたくならないでしょうか。

 でも、三木さんはそこで立ち上がる「私たちトランスジェンダー」という集団の同質性を否定します。自身は「外れ値」である、と。

 

5.誰も「問題」から逃れられない

 大切なことは、現在の三木さんがいろいろな点で恵まれているかどうか、ということではないでしょう。大切なのは、同じトランスジェンダーだからといって、すべての人が同じような差別を経験するわけでも、同じように暴力にさらされやすくなるわけでもない、という認識がここにあるということです。

 たとえ人口の1%にもはるかに満たない集団だとしても、確かにその内部には差異があります。家族のサポートが得られたひと/得られなかったひと、仕事をやめなくて済んだひと/やめなければならなかったひと/仕事に就くことを許されないひと、社会的に男性と見なされるひと/女性と見なされるひと、障害のないひと/障害のあるひと、人種的マジョリティのひと/マイノリティのひと…。そうした差異が「トランスジェンダーとして」被る差別や暴力にはっきりと影響しているとき、トランスジェンダーの解放は、これらの差異に依拠した不正義との対峙なくしてはありえません。

 こうした認識は、さらに次のような帰結につながっています。三木さんは、トランスジェンダーを苦しめている問題的な環境を変える責任がシスジェンダーに一方的に帰属する、という立場に立たないのです。「私たちトランスジェンダー」と「あなたたちシスジェンダー」という枠組みでは、三木さんは「トランスジェンダー問題」を考えていません。むしろ三木さんは、自分自身こそが「トランスジェンダー問題」を考え、それに取り組む必要がある、と述べます(299)。なぜなら、場合によっては自分がまだ気づいていないかもしれない不正義によって、今もどこかでトランスジェンダーが確かに不当な目に遭っているからです。そうしてどこかの/あるいは身近なトランスジェンダーを苦しめる社会のあり方から、無自覚に利益を受けているかもしれないからです。

 もし、そうだとしたら。いったい誰が「トランスジェンダー問題」と向き合う責任から逃れられるのでしょう。三木さんは「論点」を次の言葉で締めくくっています。

その意味では、私自身もこれから本当に「トランスジェンダー問題」を考え、それに取り組んでいかなければならないのだろう。そして私は、この文章を読んだ誰かが、私とともにその道を歩み出してくれたらと願うのだ。(299)

 トランスジェンダーたちがトランスジェンダーとして経験する差別や抑圧は、確かに存在しています。しかし全く同じ経験をする、同質的な「トランスジェンダー」という集団は存在していません。だから、誰も「トランスジェンダー」という集団を代表することなどできません。それでもしかし、ともに歩むことはできるはずです。それも、トランスジェンダーと、シスジェンダーがともに、です。

 トランスの解放は全ての人間の解放である。『トランスジェンダー問題』で有名になったフレーズです。異なる状況の人々が、その差異によって生まれる状況の異なりを抹消されることなく、おなじ解放に向かって共に歩み出すことができるとしたら。そこではじめて、トランスジェンダーの解放は見えてくるのかもしれません。『トランスジェンダー問題』のこうした徹底したラディカリズムを、三木さんはそのやわらかな文体のなかに確かに取り込んでいます。

 

『片袖の魚』感想(4)クマノミはWoman-Identified Trans-Woman

 この文章はわたしが『片袖の魚』を観て考えたことを記す一連の文章の(4)である。すでに投稿した(1)~(3)の続きのため、可能ならばそちらから読んでほしい。加えて全体に共通する注意事項として、この文章を書いているわたしは日常的に全く映画を観ない、またこの文章はかなり具体的なネタバレを含む恐れがあり、閲覧には注意を要する。

 

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4.クマノミはWoman-Identified Trans-Woman

 映画『片袖の魚』は、ともすると「いかにもな異性愛」を描いているように見える。
主人公のひかりは、高校時代に思いを寄せた同じサッカー部のタカシに思いを伝えるべく、地元の逗子で会う約束を取り付ける。しかしタカシは、そんなひかりの思いに気づくことなくひかりを傷つけてしまう。それに、タカシはもうすぐ父になるのだという。そうしてひかりはいわゆる「失恋」をして、新宿へと帰る。
 もちろん、これは巷に氾濫するただの失恋物語ではない。第一に、主人公のひかりはトランスジェンダー女性であり、性別を移行した経歴をもつ。そうしたトランスジェンダーの恋愛物語はまだまだ少ない。第二に、タカシと思いを通わせることが叶わないことを知ったひかりの表情は、「失恋」という言葉のイメージにはそぐわないほどすがすがしい。新宿に戻ったひかりが、大きな声で「二度と会うかっつーの!」と友人の千秋に報告する声色は、本心を隠して強がる人間のそれではなく、本心から現われ出たものである。
 しかし、この映画に特徴的なそれらの点を差し引いてもなお、『片袖の魚』は「いかにもな異性愛」を描いているように見える。

 まず、ひかりはトランス女性として、男性であるタカシに恋をしている。それは、高校時代からのこと。もちろん、学生時代に“同性”のクラスメイトに恋愛感情を抱いたことで自分が「ふつうでない」ことを悟るというのは、多くのトランスジェンダーの語りに登場する経験である。自分はレズビアンやゲイなのではないか、あるいはレズビアンやゲイなのであるという自己認識を経由して、そののちトランスジェンダーとしての自己理解に到達するというのは、これだけトランスの社会的知名度が上がってもなお当事者集団のナラティブにおいて典型的なものの一つであり続けている。女性や男性としての生(性)に違和感を持ち続けていたトランスジェンダーが、そうした“同性”への恋愛感情を大きな気づきのきっかけとして、自身がトランスであることを明確な自己認識として引き受ける。それは、いまだに典型的な語りの一つであり、『片袖の魚』にそうした筋書きが登場することは、何も特別なことではないように見えるかもしれない。
 それでもしかし、あるいはそうだからこそ、と言えるかもしれない。『片袖の魚』を貫いているように見える異性愛主義は、あまりにも「いかにもな異性愛」である。

 トランス女性であるひかりは、同じサッカー部のタカシに恋をする。高校生のとき。ひかりはおそらく動揺しただろう。自分はゲイなのだ、と思ったかもしれないし、あるいはもうすでに、自分が男性ではないことをはっきりと悟ったかもしれない。いずれにせよ、近いうちにひかりはトランスジェンダーとして性別を移行する。そうしたトランスとしての自己理解を支えるナラティブには、タカシへの恋愛経験が間違いなく書き込まれたことだろう。
 高校を出て5年、ひかりはいまだにタカシが気になっている。一途な恋愛。ひかりが「女性として」タカシを思い続けているというその一途な恋愛感情は、ひかりが一貫して「女性である」ことのまるで通時的な保証のようである。
 同級生の男性に恋をする、女性。同じ男性を思い続ける、女性。こうして『片袖の魚』は、異性愛という強力な機構の力を借りることで、ひかりの女性としてのジェンダーアイデンティティをその通時的な自己同一性までふくめて描こうとしているかに見える。そして、そうした異性愛主義はひかりのトランス女性としての姿を分かりやすくするだけでなく、映画の筋書きすら支配している。冒頭で書いたようにこの映画は、一人の女性が男性に失恋する物語として、一言で説明できてしまいそうなのである。

ーーーわたしは、こうした読みに賛同しない。

『片袖の魚』が「いかにもな異性愛」に支配されているというこの懸念は、この映画の大切なポイントを理解しそこなっているとわたしは思う。そしてこの確信は、斜めからこの映画を観る(クィアな)読みの帰結ではなく、むしろ正面からこの映画を読んだ結果であるとすら、わたしは思っている。

 この映画では、「クマノミ」が鍵を握っている。
 ひかりは高校時代に熱帯魚店の店主からもらったクマノミの人形をずっと大切にしており、また逗子の出張先でも、顧客に対してクマノミの生態をひかりは解説する。クマノミは性別を変えるのである。
 群れのメスがいなくなったとき、オスばかりの群れの中から1匹だけが性別を変えて、そのオスはメスになる。まるで、トランスジェンダーのように。男性から女性に性別を変えるひかりのように、クマノミは性別を変える。

 クマノミはひかりなのだろうか?あるいは、ひかりはクマノミなのだろうか?

 クマノミはオスからメスに変わることがある。しかし、そのようにクマノミが雌雄を変えるのは、子孫を残すためである。オスばかりの群れは子孫を残せない。だから、そのなかから1匹がメスになる。ここで、そのメスの存在はオスから規定されている。メスは、オスと生殖するためにメスになったのであり、その個体がメスであるということは、メスがオスと異なる性であり、オスと生殖をするという有性生殖の文脈をあらかじめ背負っている。ここでは、メスであるということの意味が「オスと生殖すること」からあらかじめ決められている。つまり、オスの存在抜きにして、そこで性別を変えたクマノミが「メスであること」の意味を理解することはできない。

 かつて、アメリカでラディカルフェミニズムの運動が大きな盛り上がりを見せたとき、彼女たちが挑戦したのは自分たちが「女性であること」そのものであった。彼女たちは、全ての人間を「男性」と「女性」にふりわけ、それぞれの性別にそれぞれ別の役割を命令するような社会のあり方は初めから女性差別的であると告発した。
 だから彼女たちは、女性が女性であることそのものをやめる必要があると考えた。なぜなら、女性であるということ自体が、そもそも男性に従属するものであるということを定義的に意味するからである。女性(とされた人々)が、女性に期待される生き方をし、女性として生きるとき、そこで「女性らしさ」はことごとく「男性に服従する存在であること」から定義されている。彼女たちはそう主張した。女性はおしとやかで、力強い男性を引き立てる。女性は家の中で子どもを産み育て、男性は家の外で政治的・経済的な権力を手にする。女性には性欲がなく、性欲のある能動的な男性を受け入れる。このように、「女性であること」の意味ははじめから「男性に従うこと」として定義されている。
 こうした認識に立って、ラディカルフェミニズムのなかの一部の女性は次のように主張した。女性であることをやめる必要がある。
 あるいは他の女性たちは主張した。女性であることの意味を、男性の存在から定義することをやめなければならない。女性が女性であることの意味を、男性抜きに定義しなおす必要がある。

 このうち最後の主張は、ラディカルフェミニズムの古典であり、またレズビアンフェミニズムの記念碑でもある、The Woman-Identified Womanというマニフェストに結実した。書いたのは、Radicalesbians(ラディカレズビアンズ)という組織。異性愛という制度の中でつねに男性と共にあり、また男性の側からいつも生き方を縛られてきた女性。それとは違って、レズビアンは「男性抜きの」女性がどのような生き方であるかを教えることができる。ラディカレズビアンズの女性たちには、きっとそのような思いがあったはずだ(――当然これは、政治的レズビアンという選択を促す――)。
 Woman-Identified Womanは、男性が最初にあり、その男性の都合によって女性の人生が決められるような性別のシステムにNoを突き付ける。男性の側から都合よく定義されるのではなく、女性自身が女性だけで女性の生存を定義する、そのようなラディカルフェミニズムの思想がこのマニフェストを貫いている。女性は、男性抜きで女性になれる。そのときにはもう、罵倒としての「あいつはレズ(ビアン)だ」という言葉や、あるいは「女性」という言葉すら、もしかしたら存在しなくなっているかもしれない。でも、女性が男性から定義されるのは間違っている。女性は男性抜きで女性であることができる。そうマニフェストは主張する。

 クマノミは、オスからメスに変わることがある。しかしそのメスの生存は、オスの都合によって定義されている。このままではオスたちがみんな滅びてしまうから、オスと生殖するために、メスが生み出される。そこで、メスになったクマノミの生存はオスとの関係から定義されている。かつてのラディカルフェミニストが性別二元論に見出したような、男性から従属的に定義される女性の姿を、まるでクマノミはそのまま再現しているかのようだ。

 逗子に行くまでのひかりは、タカシへの片思いを心の底に保ち続けている。そうした恋愛の感情は、ひかりが高校時代から一貫して女性であるという、ある種の性同一性の持続を特徴づける機能を映画のなかで果たしている。しかし、『片袖の魚』が描いた「女性であること」の意味は、そのように異性愛主義的なフレームの内側には留まっていない。『片袖の魚』は、その異性愛主義を越えていく。

 ひかりは、女性としてタカシに会いに行く。ひかりは、タカシが好きなのだ。しかし、ひかりの前に現れたのは、5年後の愚かなタカシであり、ひかりは失望し、失恋する。これは、ともすると大きな危機でありうる。なぜなら、ひかりの女性としての自己同一性がタカシへの思いによって支えられていたのだとしたら、もう二度とタカシを好きになることができないという事実は、そうしたひかりの性同一性を不安定にしてしまいかねないからである。
 しかし、そのようなことは起きない。ひかりは、サッカー部時代の寄せ書きが書かれたボールをタカシの後頭部にぶつけた後、暗闇に消えていく。まるで、自分の存在がはじめからタカシの人生と交わらなかったかのように、ひかりとして生きる道を進む。
 かつて光輝だったひかりは、もしかすると、タカシへの思いをきっかけに自分が女性である事実に気づいたかもしれない。タカシへの思いが、女性としての自己同一性を支えるナラティブの柱になっていたかもしれない。そこでは、自分が女性であるという自己認識を、ひかりは男性であるタカシとの異性愛的な関係から(部分的に)獲得することになるだろう。男性との関係のなかで、女性である自分を理解し、はっきり認識する。ひかりはそうしたトランス女性だったのかもしれない。
 映画の終盤のひかりは、もうそのようなひかりではない。特急電車に乗って新宿に戻り、いつもころんとひっくり返ってしまうクマノミの人形をまっすぐ立てることに成功したひかりは、もはやタカシの存在抜きに女性である。ひかりが女性であることにとって、もはやタカシという存在、そして異性愛という機構は必要ないものとなっている。
 ひかりのそうした新たな人生を生み出したのは、図らずもあのひどい飲み会であった。ひかりをひかりとして認めずひかりを光輝に閉じ込めようとする同窓会的な享楽を、ひかりはぶち壊した。「ずっと、わたし」の一言を発することで、ひかりは「男たち」の思い出に自分を含めることを禁じ、そうしてひかりは東京へと帰っていく。
 ひかりは、男たちの中から女性として飛び出した。しかしそれは、クマノミがオスたちの生存という目的のためにメスになるのとは違う。ひかりは、男ぬきに女性であるために、男たちから飛び出すのである。

 トランスコミュニティでよく語られる警句がある。「恋人に依存してはならない」。これだけ見れば、とりたててトランスコミュニティで語られることの意味は見えづらいかもしれない。恋人に依存すべきでないことなど、別にトランスジェンダーに限らず広く当てはまることだからである。しかし、トランスコミュニティでこれが語られることには意味がある。トランスジェンダーのなかには、自分が女性や男性であるという事実を「確認」するために、(異性の)恋人との関係に依存してしまうケースがあるからである。
 これがとりわけ深刻なのは、性別を移行したトランスジェンダーの多くが、かつての人間関係や家族関係を大規模に喪失していることが多いからである。そうして、職場を離れ、土地を離れ、家族を縁を切り、といった仕方で、ただでさえ人との繋がりを失いがちなトランスジェンダーにとって、恋人の存在はその意味でも重たいものになりうる。恋人は、自分と密なつながりをもってくれる数少ない人間の一人であり、また、移行後の性別として自分を愛してくれるという事実によって、自分の性別を肯定してくれる特別な存在になってしまうことがあるのである。
 そうしたコミュニティの知恵に照らしても、『片袖の魚』のなかでこうして異性愛の機構が用済みにされていくさまが描かれているのは興味深い。トランス女性は、恋をしていなくたって女性である。たったそれだけのことを、しかし表現することには意味がある。

 東京に戻ったひかりは、千秋のいるバーに直行する。「お通し食べる?」といつものようにカウンター越しに笑って尋ねる千秋もまた、トランス女性である。この短い映画のなかで、千秋が登場するシーンは少ない。しかし、千秋は間違いなくひかりを支える大切な役割を果たしている。ひかりと千秋の会話は、なにも特段「トランスジェンダーらしい」ものではない。しかし、東京を生きる二人の女性として、そしてまたトランスジェンダーとして、二人の間には描かれていない絆が存在している。でなければ、ひかりがあのバーに通う理由はない。
 ひかりはトランスジェンダーであり、女性である。そうしてひかりが女性であることの事実にとって、異性愛は必要のないものだ。『片袖の魚』が映画のラストで描ているのは、そのようなひとりのトランス女性の姿である。
 ただし、そのように「男ぬきに女性であること」を確立するひかりの旅は、一人旅ではなかった。Manの側から定義されてしまうWomanではなく、女性たち(Women)が自分たちだけで女性(Woman)であることを定義する。女性であることの意味を女性たち自身が取り戻す。そうした1970年のThe Woman-Identified Womanは、Radicalesbiansによって書かれていた。レズビアンではなく、レズビアン「ズ」。これが複数形であることには、絶対的な意味があるだろう。
 かたや、ひかりが女性であることの意味を異性愛抜きに確立するとき、ひかりもまた一人ではなかった。ひかりには千秋がいた。確かに千秋は異性愛的傾向を持っているが、しかし、同じトランス女性である千秋が、ひかりがWoman-Identified Trans-Womanになるための旅路を支えていることは明らかである。わたしだけではないトランス女性が、世界にはいる。こういってよければ、トランスジェンダーのコミュニティの存在が、わたしがわたしだけで女性であることを支えている。

『片袖の魚』は、「いかにもな異性愛」の映画ではない。この映画が描いているのは、トランスのコミュニティによってアイデンティティを支えられ、異性愛主義を用済みにしていくような、Woman-Identifid Trans-Woman の物語なのである。

 

 

※『片袖の魚』を観てのわたしの長い感想は、これで終わりです。(1)を書き始めたとき、頭のなかにある感想が2万字に及びそうだと書きましたが、いまこれでちょうど2万字です。(1)~(4)まで読んでくださった方がいらっしゃったなら、ありがとうございます。もし、全てではないとしても、この感想を読んでくださった方がいるのなら、ぜひ『片袖の魚』を観てください。わたしの感想は、映画をふだん全く観ない人間の好き勝手な解釈ですので、ぜひご自身で映画を観てください。
ただ、たとえ解釈は大きく違うとしても、わたしがどうしてこんなにこの映画に感動したのかは、必ずあなたにもわかってもらえると思います。わたしはそう信じています。
明日から大阪で上映です。お見逃しなく。

『片袖の魚』感想(3)ずっと、わたし

 これは「片袖の魚」を観てわたしが考えたことを書きとめる文章の(3)である。(1)(2)の続きなので、なるべくそちらから読んでほしい。なお、(1)には文章全体の注意事項も書いたため、それも確認して欲しい。簡単に言えば、この文章を書いているわたしは日常的に全く映画を観ない。また、この文章は具体的なセリフの引用(※ただし記憶に頼る)とともに映画のネタバレをする恐れがあるうえ、わたしの強い解釈に基づく。

 

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3.ずっと、わたし

 『片袖の魚』のポスターには、「ずっと、わたし」という一言が添えられている。わたしの記憶が正しければ、これは劇中にそのまま現れるセリフではない。しかし、このセリフを発するとすれば、それは主人公であるひかり以外にありえない。実際、映画のポスターでもひかりのアップの写真に、この「ずっと、わたし」は添えられている。
 しかし、「ずっと、わたし」とはどのような意味だろうか。ずっと、とは。そして、わたし、とは。
 この映画の筋書きは、ある種とても分かりやすい。トランスジェンダー女性であるひかりが、かつて自分が片思いしていた、そして現在でも気になる存在であり続けているタカシに自分の現在の姿を見せたいと願う、そのような帰郷のストーリーである。
 しかし、現在と過去の混濁の苦悩を乗り越え、一人の女性として確かに地元の地を踏みしめたひかりの決意とは裏腹に、空気の読めない愚かなタカシはサッカー部の同窓生を集め、盛大な「飲み会」を開催してしまう。この居酒屋のシーンは、この映画でおそらく最も辛いシーンであり、わたし自身、まるで永遠のような長さに感じられた。
 居酒屋の座敷のふすまを開けたひかりを迎え入れたのは、姿の変わってしまったひかりに対する五寸釘のような視線と、凍りついた空気であった。ひかりは、楽しい同窓会の雰囲気に盛大に冷や水をかける、まさにキルジョイ(killjoy)な存在として居酒屋に出現することになる。しかし、ひかりを真に苦しめるのは、そうした空気の変化ではない。ひかりの心を傷つけるのは、そうして冷え切った空気を元に戻し、引き続き楽しい同窓会を続けようとする、そうした享楽(joy)である。
 同窓生は次々とひかりに言葉を投げかける。女性にしか見えない。タカシが女を連れ込んだのかと思った。きれいになった…。確かに、いまのひかりを男性として視認するのはとても難しい。ひかりが綺麗な女性に見えるというのも、偽らざる心情なのかもしれない。しかし、それらはひかりの心を切り裂くものでしかありえない。なぜなら同窓生たちは、そこでずっと、光輝に話しかけているからである。
 冷や水を浴びせられ一度は凍りついたはずの居酒屋の座敷は、力を加えられたばね仕掛けのように、ふたたび享楽の方へと、元に戻ろうとする。光輝は女のようだ。光輝は綺麗になった。まるで「本当の」女性みたいに。
 居酒屋の享楽を支えているのは、彼らがかつて同じ高校のサッカー部だったという事実である。つまり、その享楽は「男として」の過去の経験に基づいている。同窓会のような集まりに参加したことのある人なら理解できるだろう。いま新しく知り合ったとしてもおそらく魅力を感じないような、一緒にいても楽しくないような人であったとしても、かつて同じ学校に通っていた、同じ部活であったなどの過去の経験のおかげで、その種の同窓会的な享楽は可能になっている。
 そうした享楽は、だからこそ、過去の再現でなければならない。今の自分の感性や価値観、とりわけ過去から大きく変わってしまった考え方などは一度かっこに入れ、楽しかった過去を再現しなければ、そうした同窓会的享楽は可能にはならない。
 居酒屋でひかりが巻き込まれたのは、まさにそのような享楽の空間であった。すると当然、同窓生たちはひかりを「光輝」として扱うことになる。どう、俺たちのなかで誰が一番タイプ?そんな問いかけも、女性としてのひかりに投げかけられたものではない。同窓生たちは、かつて「俺たち」が味わっていた男同士の享楽を、再現しているのである。もちろん、その「俺たち」には光輝が含まれる。
 そうした激しい享楽への揺り戻しにさらされたひかりがふとテーブルに目をやると、切り身にされた生魚が盛り付けられている。魚には頭(かしら)もついているが、その目は充血し、刺身も時間が経って鮮度が落ちているように見える。その死んだ魚の眼は、まるでその場のひかりの心を映しているかのようだ。しかし、この死んだ魚には別の解釈を施すこともできるだろう。同窓生たちが切り刻んで楽しんでいる青魚は、光輝でしかない。違う。わたしは熱帯魚なのだ。だから、わたしに向けて話しかけられている言葉は、すべてわたしではない人間に向かって発せられている。皿の上に盛り付けられた死んだ魚は、わたしではない。わたしはひかりである。

 わたしはひかりである。ひかりは、とうとう居酒屋でその事実を顕わにする。それは、二度目の大きなキルジョイの瞬間である。

 ある男性が言う。そういえば、昔から光輝はそっち系っぽかったもんな。これは、光輝の過去に言及するものであり、同時にひかりを光輝に留め置こうとするものである。対して、別の男性が尋ねる。光輝って、いつからそんな感じなの?

 ひかりは答える。「ずっと。ずっとだよ。」

 この「ずっと」の一言が、二度目のキルジョイを座敷に持ち込む。それは一度目よりも深刻な、殆ど回復不可能なほどの強度で、享楽をぶち壊す。「確かに昔からそれっぽかった」と語っていた同窓生たちも、この「ずっと」に明らかに面食らっている。同窓生たちは、そこでようやく気付くのである。昔から女っぽかった光輝が、そこにいるのではなく、そこにいるのはひかりであるということに。そして、女っぽかった光輝との思い出は、実はすべて偽りであったということに。ひかりは、ずっとひかりであった。ひかりは、その事実を同窓会に持ち込む。過去の再現によって成り立つ享楽が、だからここでは正面から否定される。再現されるべき「男たち」の思い出を、ひかりは共有していない。「ずっと」そうだったと語るひかりは、その思い出のなかに自分を含めることを全員に対して禁じる。それは、あなたたちの勘違いだ。わたしは、ずっとひかりである。
 この「ずっと」の一言が発せられる直前、映画ではわずかな回想がはさまる。それは、サッカー部時代のひかりが熱帯魚のお店に立ち寄っていたときの思い出である。東京で熱帯魚関連の仕事をしているひかりは、昔からそうした魚に興味があったらしい。そうして水槽を見つめる過去のひかりに店主が近づき、カクレクマノミの小さな人形を手渡す。それは、ひかりが今でも大切にしている人形だが、そのときの店主の一言が、この映画全体にとっての決定的な一言となる。

「はい、お嬢ちゃん」。

 熱帯魚店の店主は、サッカー部帰りの、エナメルバックを肩にさげた高校生を「お嬢ちゃん」と呼ぶ。その瞬間、カメラが退き、高校生時代のひかりの全身が映し出される。そこに立っているのは、いわゆる男子用の学ランを着た、しかし肩までとどく長い髪をそなえた、ひかりの姿である。

 この回想は、おそらくひかりの事実ではない。サッカー部で活動する「男子」高校生が、あのような長髪であるというのは限りなく考えがたい。それゆえ、「お嬢ちゃん」と呼びかけた店主の記憶も、おそらくひかりが後になって作り出したものだろう。
 しかし、そうして後から作り出されただろう「ひかり」としての記憶が、居酒屋でのひかりの一言を支えている。「ずっと」そうだったよ。わたしは、ずっと、ひかりだった。サッカー部にいたときから、わたしはひかりだった。男ではなかったのだ。

 結局、ひかりが思いを寄せていたタカシは最後まで愚かであり続けた。「とーちゃんになります!」と飲み会の序盤で宣言したタカシは、サッカー部時代の寄せ書きが書かれたサッカーボールを、別れ際のひかりに渡そうとする。自分はもうすぐ父親になるし、昔の連中とこうして馬鹿やって飲み会することもできなくなるだろう。俺は先に行くわ、とタカシは言わんばかりである。そうして、過去を過去のまま置き去ってひとり自分勝手に未来に進もうとするタカシは、しかし、ひかりに渡したはずのボールをその後すぐさま後頭部にくらうことになる。
 ひかりはボールを蹴ったのだろうか。あるいは投げたのだろうか。あのとき履いていたパンプスから想像するに、蹴ったのではなさそうだ。とはいえ、投げたのだとしたら、まだひかりは近くにいるはずだ。しかし、ボールをぶつけられてすぐに後ろを振り向いたタカシは、そこにひかりの存在を確認することができない。逗子の暗闇とはいえ、近距離にいるはずのひかりの姿は気配すら見えない。まるで、そこに誰もいなかったように、静かな闇だけが拡がっている。
 そうだ。そこには誰もいなかったのだ。光輝などという人間は、いなかったのだ。愚かなタカシは、最後までひかりを光輝として呼び続ける。光輝に呼びかけ、光輝にサッカーボールを渡そうとする。しかし、ひかりはずっとひかりだった。だから、タカシがサッカーボールを渡した相手も、タカシにサッカーボールをぶつけた犯人も、そこには存在していない。ずっと、ひかりはひかりだったのだから、そんな人間ははじめから存在していなかったのだ。

 逗子から戻ったひかりは、千秋のいるバーを訪れる。「お通し食べる?」といつものように人なつこく尋ねる千秋によって肯定されているのは、もうひかりの現在だけではない。千秋はそこで、ずっとひかりだったひかりの、過去と現在をまるごと包みこむ。

 「ずっと、わたし」。この映画のポスターのセリフは、「これからずっとわたしらしく生きていく」という単純な意味ではありえない。それは、場合によっては過去の記憶すら部分的に歪めることで自己同一性を担保し、ある過去から存在ごと消え去ることによって別のわたしを過去に生み出しすらする、そのようなトランスジェンダーの特殊な生存の時間から漏れ出た、力強い言葉なのである。

 

『片袖の魚』感想(2)東京メトロと完璧ではないひかり

 これは『片袖の魚』を観てわたしが考えたことを書きとめる文章の(2)である。(1)の続きなので、可能ならばそちらから読んでほしい。以下この投稿の小見出しが「2」になっているのもそのためである。

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 なお(1)には文章全体の注意事項も書いた。それもなるべく確認して欲しい。簡単に言えば、この文章を書いているわたしは日常的に全く映画を観ない。また、この文章は具体的なセリフの引用(※ただし記憶に頼る)とともに映画のネタバレをする恐れがあるうえ、わたしの強い解釈に基づく。まだ映画を観ていない人には、閲覧注意であることを申し添える。

 

2.東京メトロと完璧ではないひかり
 『片袖の魚』を観た多くの人が言及するシーンがある。地元である逗子への出張を控えた主人公が、高校時代に思いを寄せていた相手に久しぶりに電話をかけるシーンである。そこでひかりは、いつものトーンで話し始めてすぐ、「光輝?」という相手の問いかけに合わせてそっと喉ぼとけに手を当てる。そして、静かに目を伏せたのち、先ほどよりも1トーン低い声で、相手に応答するのである。「あぁ、元気?」
 このシーンは印象的である。かつて「光輝」だった人物は、今は「ひかり」となっており、高い声から低い声へと静かにスイッチするというこの演出は、男性から女性へと性別を変えたトランスジェンダーが再び女性から男性に「戻って」、一時的に過去の姿を演じている状況を端的に説明する。確かに、ひかりが声を切り替えるこのシーンは、派手に演出されてはいない。そっと喉に手を当て、少し目を伏せるという一瞬の所作が、ひかりの声を光輝のものに近づける。しかし、そうした静かな演出だからこそ、かつて性別を越境したひかりが、過去に一瞬で引き戻されるという転化を印象的に観客に伝えるのである。
 しかし、このシーンを観たわたしははっきりと次のように思った。これは、シスジェンダー向けのサービスシーンである、と。
 トランスジェンダー女性とはどのような存在か。それは、かつて男性を割り振られ、それに伴い男性として生き(ることを余儀なくされ)ていたが、実際にはその性別としては自分を認識できずand/orせず、現在はむしろ女性としてのアイデンティティを持っていたり、and/orまたそれに沿って女性へと性別を移行していたりする者のことである。
 ひかりはトランスジェンダー女性である。この説明に従えば、ひかりは、男性だった光輝から女性であるひかりへと性別を移行した。だからこそ、上のような声の演出は意味を持つ。光輝からひかりへと性別をチェンジしたトランスジェンダーが、旧友との会話に際して、再びひかりから光輝へと声をチェンジさせる、そのような演出。
 しかし、これはあまりにも単純な図式である。シスジェンダーにとっての分かりやすさが優先された「トランスジェンダー」像を、まるでそのままなぞったような。だからわたしはこれをサービスシーンだと感じた。
 もちろん、この映画がそうしたサービスシーンに逃げていると言うつもりはない。地元である逗子を離れて東京で暮らすひかり。仕事で控えている地元への出張。地元には旧友がおり、かつて思いを寄せた男性(タカシ)にも連絡をとることができる。過去と現在のあいだにこうして板挟みになったひかりの状況を、この映画は確かに描いている。しかし、そこで真に注目すべきは、この声の切り替えのシーンではない。少なくともわたしはそのように思った。わたしが注目し、また感動したのは、東京メトロである。
 ひかりは、おそらく主に東京で暮らしている。東京には地下鉄が張り巡らされている。映画で描かれるひかりの行動範囲は、自宅と職場、そして新宿の三点。おそらくひかりは、それらを地下鉄で移動しているのではないだろうか。
 そうして地下鉄で新宿に通うひかりには、いきつけのバーがある。男性のマスターと、もうひとりそこで働いているのが、千秋である。劇中ではそこまで明示されないが、トランスジェンダー女性である広畑りかさん演じるこの千秋も、またトランス女性である。ひかりの変化に寄り添うこの短い物語にあって、千秋の存在は際立っている。千秋の安定感こそが、ひかりの危ない変化を足元で支えているからである。
 出張で地元に帰ることが決まったひかりは、同じサッカー部だった男性(タカシ)への忘れられない思いを、千秋に打ち明ける。千秋に悩みを相談するひかりは、相変わらずとても自信がなさそうである。男性をやめた自分、自分を男性として理解しているはずのタカシ、もしかすると自分が女性になったことを知っているかもしれないタカシ、それでも会ってみたい自分。とはいえ、まだ女性に「なりきる」ことができていない自分。こうした混雑した認識ゆえに、「会ってみたら」とすすめる千秋に対してひかりは次のように応えてしまう。「まだ完璧じゃないし」。

 まだ完璧じゃない。

 ひかりは「完璧な女」になりたいのだろうか。違う。ひかりは、自分がまだ「完璧に」女ではないからこそ、「完璧に」女になるまでは会いたくない、と言っているのである。まだ、完璧じゃない。
 世の中には、女性についての様々な表象があふれている。綺麗らしく装い、男性に容姿をからかわれても、品定めされても、黙って笑顔で受け止める女性。世界の主人公たる男性をサポートしたり、その人生に意味を与えたりする、わき役としての女性。子どもを育てながら、会社でもバリバリ働く女性。それらは様々な仕方で「完璧な女性」の姿を私たちに教えており、そうした「完璧な女性」と自分のあいだの違いに葛藤したり、折に触れてそれに悩まされたりするというのは、おそらく現代の(特に日本のような国で)生きる全ての女性にとって無縁ではない経験だろう。
 ひかりから漏れ出た「完璧じゃない」という言葉は、しかしそのような「完璧な女性」と自分のあいだの差異についての悩みではない。ひかりは、自分はまだきちんと女性になれていない、と悩んでいるのである。自分が女性であること自体が所与の事実であり、むしろ、それが動かしがたい所与の事実だからこそ「完璧な女性」との差異に苦しめられる多くの(シスジェンダーの)女性とは異なり、ひかりにとって自分が女性であることは所与の事実ではない。この例外的な状況が、「完璧じゃない」という悩みをひかりにもたらしている。
 トランス女性は女性である。そうかもしれない。しかし『片袖の魚』を観ればわかるように、性別を移行するというのは社会で想像されているよりもはるかに連綿とした、言ってみればだらだらとしたものである。喉に手を当てて目を閉じればスイッチできるような、性別移行とはそうした区切りのはっきりしたものではない。
 ひかりはもう光輝ではない。しかしひかりは、自分がまだ光輝の尾を引いており、男性としての影が自分につきまとっているのではないかと不安がっている。実のところ、そのように不安に思う自信のなさこそが、ひかりがトランスジェンダーであることを世界に知らせてしまうのだが、それでもひかりは、女性である現在の自分と、まがりなりにも男性として生きていた過去の自分とのあいだが溶け合っている感覚を持つのをやめることができない。
 そこに来て、かつて思いを寄せたタカシの存在が急に浮上する。つきまとう過去を切り離そうとつとめ、東京で女性としての生活をなんとか営んでいる最中に、男性として生きるほかなかった過去の自分の思いが熱を持ってよみがえるのである。過去と現在を切り離しながら、時には自分の過去について自他に嘘さえ吐きながら生きている(少なくない割合の)トランスにとって、そうして両者が混じりあう事態はとても苦しいものであるはずだ。
 わたしの知り合いのトランスジェンダーの人が、かつて「自分史を書くのが死ぬほどつらい」と言っていた。自分史とはここで、ジェンダークリニックに持参するための、自分のライフヒストリーなどを綴ったものを指す。現在のGID診療ガイドラインに沿って性同一性障害GID)の診断を受けることになるトランスたちは、おそらくその多くが、こうした自分史の執筆を求められる。それは、自身の性別に継続的に悩んでいた事実を知ることで医師が診断の根拠とするものであると同時に、おそらくはその自分史の執筆それ自体が、過去と現在のあいだに複雑さを抱えるトランスジェンダーたちの自己認識を統合するという機能もあるのだろう。
 しかし、わたしの知り合いにとってその執筆作業は、切り離して別の人格へと外部化したはずの過去の自分を現在の自分と接続しなければならない、とても苦しい作業だったようだ。死ぬほど辛い幼少期の現実にあって、文字通り自分を殺して生き延びていたその人にとっては、殆ど性別を変えてしまった現在の時点からさかのぼって、過去に「辛かった自分」の存在を認めること自体がとても大きな負担なのであった。
 今はもういないその人も、地下鉄でジェンダークリニックに通っていた。東京メトロ。自分史を書き、それをクリニックの医師と共に読み合わせ振り返る作業によって、現在と過去が混雑する。その苦しさを緩和するために、死んだように眠りながら地下鉄に乗るのだ、とその人は言っていた。
 ひかりが東京メトロに乗っているシーンがある。逗子のこと、タカシのことを思い出し、現在の自分と過去の自分が意識の中で交錯する場面で、ひかりは人気のない地下鉄に乗り、イヤホンで外部の音を遮断することでなんとか意識を保とうとしているように見える。
 トランス女性は女性である。それは確かにそうだ。しかし、トランスジェンダーにはいろいろな過去がある。忘れたい過去も、消したい過去も、もう別人のものになってしまった過去も、いろいろな過去と折り合いをつけながら、トランスたちは今日も生きていかなければならない。だからこそトランスたちは、意図せず自分に付き纏う過去に苦しめられたり、現在と過去が混濁して自分が誰だか分からなくなったりするのだろう。
 わたしは、この東京メトロのシーンを観た瞬間に、この映画に出会えてよかったと思った。『片袖の魚』が、シスジェンダーが好き勝手に想像する「トランスジェンダー」を描く映画ではないことを確信した。イシヅカユウさんの演技も素晴らしかった。あの、過去と現在が入り混じる苦しさを、短い時間でここまで表現できるものだろうかとわたしは驚いた。
 最後に、この映画でとても大切な役割を果たしている千秋にふたたびフォーカスしておこう。「まだ完璧じゃない」と語る先ほどのひかりに対する千秋の応答は、「あんたも女でしょ」というものである。ひかりは、まだ「完璧に」過去を切り離すことができない自分に悩まされている。いつか「完璧に」女性であると胸を張って言える日など来るのだろうかと、将来に自信が持てないでいる。ひかりが意識する自分の存在は、こうして、過去に滲み出ていると同時に、あいまいな仕方で未来の方にも広がっている。過去に吸い寄せられる現在。進むべきはっきりとした道がみえず、霞がかかったままの未来。こうして、ひかりの存在は現実からふわふわと宙に浮いてしまう。まだ、完璧ではないから。
 千秋は、そうして浮遊して消えてしまいそうなひかりを現在に繋ぎとめる大切な役割を果たしている。あんたも女でしょ。今あなたが女であるのなら、それがあなたの全てだ、と千秋は言う。折り合いのつかない過去も、明確なビジョンの見えない未来も、そんなものに足元を掬われてはいけない。あなたは、いま、女である。千秋はひかりに告げる。それが、ひかりにとってどれだけ大切な錨(いかり)であるかは、おそらくひかり自身が一番よく知っているはずだ。足元から自分の存在が浮遊し、生きるべき現在が見えなくなりそうなひかりが、現実世界に「ひかり」として根を張るための大切な錨が、あのバーにはある。ひかりは、現実を忘れるために新宿に通っているのではない。現実を忘れないようにするために、千秋たちに会いに行くのである。
 ひかりの存在を支えているのは、分かりやすい当事者コミュニティでも、派手なドラアグクイーンでも、女性とも男性ともつかない真っ白なタイツの踊りでもない。それは、あんたも女でしょ、と一言語ることでひかりをひかりのもとに繋ぎとめてくれる、同じトランス女性としての千秋の錨なのである。

『片袖の魚』感想(1)トランスジェンダーが演じるということについて

0.はじめに

 この文章は、映画『片袖の魚』の感想であり、批評ではない。

加えて二点注意したい。第一に、わたしは映画や小説、ドラマの類を全く楽しまない。そのため映画を読み解くためのリテラシーを欠く。わたしが映画を観る機会は、家族や友人の家でたまたま「金曜ロードショー」が流れていたとか、そのレベルである。わたしは映画もドラマも全く観ないし、小説も漫画も読まない。そういう人間なのである。

 第二に、この文章では『片袖の魚』の筋書きに係ることを、具体的なセリフと共に、またおそらくはかなり強いわたしの解釈を交えつつ書く。そのため、特にこれから『片袖の魚』を観る予定の方については閲覧をお勧めしない。ネタバレが平気な方でも、かなり強い解釈であると自覚している内容のため閲覧には注意してほしい。こうした事情により、この文章は『片袖の魚』をすでに観たか、あるいは観る予定が今のところない人むけの文章である。ただし、後者の人たちについて、この文章が『片袖の魚』に対する関心を高め、映画館に足を運ぶ一助となれば幸いである。

 なお、全体の分量が2万字を超える見込みのため、文章は一節ずつ区切って投稿することにした。この(1)では、「トランスジェンダートランスジェンダー役を演じること」について、『片袖の魚』を通して考えたことを書いておきたい。

 

1.トランスジェンダーが演じること

 映画の出だしのシーンから、気になることがあった。それは、主人公のひかりから「演技臭がする」ことである。つまり、どこか主人公の様子はぎこちなく、無理に何かを演じているように見える。

 映画『片袖の魚』の特筆すべき点として、トランスジェンダー役をトランスジェンダー当事者が演じた、ということが言及される。実際、トランスジェンダー女性であるひかりを演じたイシヅカユウさんは、トランスジェンダー当事者である。なるほど、当事者であろうとなかろうと、演技が上手ければ誰が演じてもよいではないか、と思われるかもしれない。しかし、トランスジェンダー「を」演じるとはどのようなことかについては、やはり考えられてよいだろう。

 先ほど、この映画の主人公からは「演じている」臭いがすると書いた。一般に、(一部の効果を狙った場合を除いて)ある映画や舞台の劇中の登場人物から「演じている」感じが伝わってくるというのはよからぬことである。ふつう演者に求められる能力の中には、役者がその人物を演じているという事実を隠匿する能力が含まれるからである。しかし、これが重要なことだが、主人公のひかりから感じられる「演技臭」は、そうした役者の力不足や、あるいは映画の編集の不完全性に由来するものではない。イシヅカユウさんは、おそらくトランスジェンダー「を」見事に演じているだけである。

 トランスジェンダーは、生まれたときに割り当てられた(社会・法的)性別が、自身の性別にかかわる現在のアイデンティティと一致しない者、として基本的に理解される。この定義的説明は優れているが、あるいは優れているからこそ、この説明には次の事実が含まれていない。それは、多くのトランスジェンダーたちが、性別を移行しようと試みていたり、あるいは性別を移行したヒストリーを持っていたりするという事実である。

 主人公のひかりは、勤めている会社では女性社員として働いている。会社の人々もおそらくひかりがトランスジェンダーであることは知っているが、そのことを意に介さず接している。対して映画の冒頭のひかりは、いかにも自信がなさそうである。

 この文章を読んでいる人の中に、性別を移行したり、移行しようとしたりしたことのある人がどれだけ含まれているか分からないが、割り当てられた性別のもとで少なくとも一度ある程度は成熟してしまったトランスジェンダーにとって、性別を移行することのはじまりは「演じること」のように感じられることがあるだろう。ホルモン治療のほかにも、髪形を変えたり、身に着けるものを変えたり、胸が目立たないようにバインダーをしたり、歩き方や話し方を変えたり。そうして自身のプレゼンテーションを変化させることは、過去の性別を見抜かれる(リードされる)恐怖、つまりは自分の演技がばれてしまうという恐怖を伴う。実際には、トランスジェンダーは性別を「演じている」わけではなく、自身がそうである通りに生きているに過ぎない。しかし性別を移行するという変化の発端にあって、反対側の性別の人間として見なされ扱われるべく必ずしも自分にはまだ定着していないジェンダーのマーカーを身にまとうことは、まるで演技であることを見抜かれてはいけない危険な演劇に参加するような感覚でありうるだろう。

 映画のはじまりのひかりは、そうしたぎこちない演技をしているように見える。おそらく街の雑踏ですれ違えば自然に女性に識別されるような見た目だが、にもかかわらず、女性を「演じている」感の抜けないひかりからはその自信のなさが漏れ出し、はしなくもひかりがトランスジェンダーであることを世界に教えてしまう。

 性別を移行し、生活がおおむねそちらの性別で定着すれば、移行先の性別を「演じる」という感覚は抜けていくだろうし、先ほども書いたようにトランスジェンダーは初めから性別を「演じて」などいない。しかし、性別移行に自信の持てないあいだ、特に「リード」の恐怖におびえるあいだには、そうした「演じている」感覚をトランスジェンダーたちが抱いてしまうのは避けられないかもしれない。

 劇中のひかりは、もう一つ別の仕方でも演技をする。物語がすすみ、大きな決意とともに地元の街を訪れたひかりは、公民館の職員から「新谷さんって、もしかして男性?」と尋ねられる。これに対するひかりの応答は、「身体は男性なんですけど、心は女性なんです」というものである。この応答が、トランスジェンダーが「トランスジェンダーであること」を演じるよう求められた結果であることを理解するのはたやすい。社会の多くのシスジェンダーの人々にとって受け入れられやすい説明が、ひかりには求められている。逆に言えば、そこで求められているのはそれのみである。だからひかりは、そうしてマジョリティの頭のなかにしかない「トランスジェンダー」を演じることで、その状況に区切りをつけることを余儀なくされる。そして、そうした演技を強いられる状況は、多くのトランスジェンダーにとって、まだまだリアルなものであり続けているはずだ。

 

 トランスジェンダーの役をトランスジェンダーの当事者が?そんなもの、演技が上手い人が演じればよいだけではないか。なるほどそうかもしれない。では、これまでわたしが書いてきたような、トランスジェンダーたちの「演技の日常」を、シスジェンダーに簡単に演じることなどできるのだろうか。移行に自信を持てないトランスジェンダーたちの「演じている」感を、それを実際に経験したことのない人間が「演じる」のは、とても難しいことのはずだ。世間から求められるトランスジェンダー像を、泣きそうになる心の動揺を抑え込みながら「演じる」トランスジェンダーの悲しみを、自分の性別や身体とのたえざる葛藤を生きたことのないシスジェンダーがすぐに、簡単に「演じる」ことができるようには、わたしには思えない。

 あるいはシスジェンダーの自分だが、自分にはそうした「演技の演技」を見事に果たす絶対の自信がある、と主張する人がいるのだとしたら、わたしはその傲慢さに驚いてこう言うしかないだろう。「そういう傲慢な人びとに囲まれて生きるということが、トランスジェンダーとして生きるということなのでしょう」。トランスジェンダーの生をそのように尊重できない人に、果たして上手にトランスジェンダーを演じることができるのだろうか。あなたは、何を知っているのだろうか。

 映画でひかりを演じたイシヅカユウさんは、トランスジェンダーである。わたしは、トランスジェンダーでなければトランスジェンダーを演じてはならない、と言うつもりはない。ただし、『片袖の魚』を観てしまった現在、トランスジェンダーこそが最もトランスジェンダーを演じるのが得意であるという主張には諸手を挙げて賛成せざるを得ないし、そうした事実が顧みられず、シスジェンダーの思う「トランスジェンダー」像をシスジェンダーたちが身勝手に演じ、悪しき表象が再生産され続けている状況については、端的に由々しきことだと思っている。

 

 とにもかくにも、『片袖の魚』のイシヅカユウさんは、これまで書いてきたようなトランスジェンダーの「演じる」日常を、見事に演じていた。劇中のひかりは、イシヅカユウには見えない。誰かが演じているという事実を隠匿する能力が、イシヅカユウさんにはある。その演技のうまさが、少なくともこの映画に関しては彼女がトランスジェンダーであることに由来するのだとしたら、それはわたしにとって最も納得のいく説明である。

 トランスジェンダーであれ何であれ、演技が上手い人が演じればいい。なるほどそうかもしれない。では、トランスジェンダーを演じることに最も長けているのは誰か。そして、そうして優れているはずの演者が排除され続ける状況は、果たして正しいことか。

 ほんらい説明が必要なのは、トランスジェンダー役にこうしてトランスジェンダー当事者を起用することの方ではなく、むしろ、トランスジェンダー役にトランスジェンダーを起用せず、わざわざシスジェンダーを起用するのはなぜなのか、ということの方であるはずだ。(……(2)に続く)