ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

トランスジェンダーと「私たち」:三木那由他さん『群像』11月号「論点」を読む

 この記事は、三木那由他さんによる『群像』11月号の「論点」を読み、考えたことを書き記すものです。ただ、三木さんのこの文章はショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』の書評的な文章でもありますから、わたしがこれから書こうとしているのは「書評の書評」に近いものなります。

 なぜそんな回りくどいことを、と思うかもしれません。ただ、これには理由があります。まずは、三木さんがこの文章を書いてくださった事実を記録しておきたいこと。次に、三木さんのこの文章から、私たちは大切なことを学べると信じるからです。そしてそれは、『トランスジェンダー問題』という書物をどのように読むかについて、大切な視座を与えてくれてもいるように思います。

 ご存じの方も多いでしょうが、わたしは『トランスジェンダー問題』の訳者です。しかし、この本は発売から一カ月が経ち、とうにわたしの手から離れました。ですから、これは『トランスジェンダー問題』の訳者によるものというより、『トランスジェンダー問題』の読者の一人によって書かれたものだと思ってください。

 

1.三木さんの文章

 これから紹介する三木さんの文章は、講談社『群像』2022年11月号に掲載されたものです。紙面の枠は「論点」で、タイトルは「「トランスジェンダー問題」を語り直す」です。この枠は、もともと書評の枠ではありません。ですから、三木さんの文章も『トランスジェンダー問題』の”書評”ではないかもしれません。しかし、なぜこの本がトランスの当事者たちに期待されているのか、その期待の説明が、本書の紹介を踏まえつつ丹念に展開されます。まだ『トランスジェンダー問題』を読んでいない方にも、あるいはすでに読んだ方にも、ぜひ読まれてほしい文章です。



 ちなみに、わたしは全く文芸誌を読まない人間ですが、2021年8月の同じく「論点」に清水晶子さんが「居どころのないわたしたちの、此処ではない此処」を書いたときは、池袋のジュンク堂ですぐに立ち読みして、そして買いました。これもとても良い文章です。わたしは「クィア」という言葉にはなじめないのですが、清水さんが書く「クィア」には、身体のなかの磁石が引っ張られる気がします。

 

2.「トランスジェンダー問題」

 三木さんの文章に戻りましょう。この文章は、『トランスジェンダー問題』(The Transgender Issue)という書籍が話題になった2021年の熱気をふり返ることから始まります。しかし本編にあたる部分で最初に書かれるのは、トランスジェンダー(という言葉)の定義です。多くの人が「トランスジェンダー(問題)」について関心を持っているように見えながら、依然としてこれだけの紙幅を使ってこうした定義的説明を繰り返さなければならない状況は、とても歯がゆいものです。

 その後、三木さんの個人的な話が始まります。プライベートに係わる内容でもあり、この点についてはぜひ『群像』当該号をお読みください。ただ重要なのは、三木さんが個人的に経験した就労・就職の困難、経済的困難、そして医療現場で受けた差別的対応を、三木さん自身が決して「個人的なこと」としては位置づけていないことです。そう、それは「トランスジェンダーにとっての問題」であり、そこには確かに、三木さんが(公にしている通り)トランスジェンダーであることによって経験させられた、そういった経験が存在しています。

 

3.私たちはトランスジェンダー

 だからそれは「トランスジェンダー問題」です。三木さんの言葉を引用します。

この本がトランス/ノンバイナリーの人々に歓迎された理由は、もはや明らかだろう。私たちはこの本で語られているような問題に、現に直面している。そして当事者同士で語り合うとき、確かに私たちはこうした問題についてしゃべっている。そしてそれがトランスジェンダーだけの問題でないこともわかっているのに、メディアなどでトランスジェンダーに焦点が当たるときにはそうした側面は見えなくなり、自分たちだけがほかと切り離された独特な存在として語られる。このことに、ずっと不満を抱えてきたのだ。(298)

 これは「私たちの問題」だと三木さんは言います。三木さんがここで「私たちの」ということで指しているのは、「私たちトランスジェンダーの」ということです。私たちはこうした(就労・医療・貧困・メンタルヘルス…等々の)問題に直面し、私たちはいつもそうした問題について話している、と三木さんは言います。そして、それが私たちトランスジェンダーだけの問題ではなく、より広く社会の経済構造や医療システム、メンタルヘルスが置き去りにされる文化などに関係していることにも、私たちは気づいていたはずだ。

 詳しくはまた別の記事で書こうと思いますが、ここで三木さんは「トランスジェンダー」という(政治)集団を立ち上げようとしています。トランスジェンダーであることで差別を受けることがある、集団としてのトランスジェンダーです。そんな集団、最初からあったのでは?と思われるかもしれません。しかし『トランスジェンダー問題』の著者であるフェイさんが「Trans people」という言葉を繰り返すとき、フェイさんはそこで、三木さんがここで行っているように「トランスジェンダーという集団」を立ち上げようとしていたように思います。この何気ない単語に、わたしが「トランスたち」という(少し変な)訳語を宛てたのも、こうした理由に基づくものです。

 

4.私は「トランスジェンダー」ではない

 しかし、そうして強固に立ち上がったように見える「私たち=トランスジェンダー」の集団性を、三木さんは同じ文章のなかであっさりと崩してしまいます。

とはいえ、そうはいっても私は、トランスジェンダーの人々のなかでは極めて特権的で、スムーズに生活を送れている人間だ。家族や親せき、友人のサポートもあり、大学院まで出ていて、いまは安定した職業にもつき、こんなふうに自分の意見を語る場まで与えられている。(295)

 多くのトランスジェンダーとは違った状況に自分はある、と三木さんは言います。家族から縁を切られたり、頼るべき場所もないなか貧困にあえいだり、自国での迫害を恐れて国外での不安定な身分を続けたりするトランスジェンダーと、現在の自分は同じ状況にはない、と言います。だから自分は、「まるでトランスジェンダーたちの「代表」とはなれていない。むしろ外れ値のような存在」(299)だと。

 トランスジェンダーの人口はとても少ないです。出生時に割り当てられた性別と、現在のジェンダーアイデンティティが食い違う人、という緩やかな定義であれば、人口の0.6~0.8%くらいが該当するとことが知られています。ただ、そのなかには自分を「トランスジェンダー」とは理解しないノンバイナリーも大量に含まれるでしょうから、トランス的なノンバイナリーと、トランス男性/トランス女性の合計なら、おそらく0.2~0.5%くらいといったところでしょうか(肌感覚です)。そして、自分の生活実態として性別を移行している人(すなわち書類の性別と生活上の性別が食い違うことで著しく不利益を被ったり、あるいはそうした不利益を回避するために法的な登録上の性別を変更している人)に絞れば、その割合は0.1未満~0.2%くらいになるのではないでしょうか(繰り返しますが肌感覚での数値です)。

 そう考えると、三木さんが経験してきたような差別をリアルに経験する「トランスジェンダー」の人は、多めに見積もったとしても0.5%くらいになるでしょう。200人に1人です。もし、200人に1人しかいない「仲間」にたまたま会えたら。200人中199人はぜったいに経験しないが、そのうち1人が経験するようなことがあるとしたら。そして、その経験を分かち合えるような「200分の1の仲間」に会えたら。わたしとあなたは同じだ!と言いたくならないでしょうか。

 でも、三木さんはそこで立ち上がる「私たちトランスジェンダー」という集団の同質性を否定します。自身は「外れ値」である、と。

 

5.誰も「問題」から逃れられない

 大切なことは、現在の三木さんがいろいろな点で恵まれているかどうか、ということではないでしょう。大切なのは、同じトランスジェンダーだからといって、すべての人が同じような差別を経験するわけでも、同じように暴力にさらされやすくなるわけでもない、という認識がここにあるということです。

 たとえ人口の1%にもはるかに満たない集団だとしても、確かにその内部には差異があります。家族のサポートが得られたひと/得られなかったひと、仕事をやめなくて済んだひと/やめなければならなかったひと/仕事に就くことを許されないひと、社会的に男性と見なされるひと/女性と見なされるひと、障害のないひと/障害のあるひと、人種的マジョリティのひと/マイノリティのひと…。そうした差異が「トランスジェンダーとして」被る差別や暴力にはっきりと影響しているとき、トランスジェンダーの解放は、これらの差異に依拠した不正義との対峙なくしてはありえません。

 こうした認識は、さらに次のような帰結につながっています。三木さんは、トランスジェンダーを苦しめている問題的な環境を変える責任がシスジェンダーに一方的に帰属する、という立場に立たないのです。「私たちトランスジェンダー」と「あなたたちシスジェンダー」という枠組みでは、三木さんは「トランスジェンダー問題」を考えていません。むしろ三木さんは、自分自身こそが「トランスジェンダー問題」を考え、それに取り組む必要がある、と述べます(299)。なぜなら、場合によっては自分がまだ気づいていないかもしれない不正義によって、今もどこかでトランスジェンダーが確かに不当な目に遭っているからです。そうしてどこかの/あるいは身近なトランスジェンダーを苦しめる社会のあり方から、無自覚に利益を受けているかもしれないからです。

 もし、そうだとしたら。いったい誰が「トランスジェンダー問題」と向き合う責任から逃れられるのでしょう。三木さんは「論点」を次の言葉で締めくくっています。

その意味では、私自身もこれから本当に「トランスジェンダー問題」を考え、それに取り組んでいかなければならないのだろう。そして私は、この文章を読んだ誰かが、私とともにその道を歩み出してくれたらと願うのだ。(299)

 トランスジェンダーたちがトランスジェンダーとして経験する差別や抑圧は、確かに存在しています。しかし全く同じ経験をする、同質的な「トランスジェンダー」という集団は存在していません。だから、誰も「トランスジェンダー」という集団を代表することなどできません。それでもしかし、ともに歩むことはできるはずです。それも、トランスジェンダーと、シスジェンダーがともに、です。

 トランスの解放は全ての人間の解放である。『トランスジェンダー問題』で有名になったフレーズです。異なる状況の人々が、その差異によって生まれる状況の異なりを抹消されることなく、おなじ解放に向かって共に歩み出すことができるとしたら。そこではじめて、トランスジェンダーの解放は見えてくるのかもしれません。『トランスジェンダー問題』のこうした徹底したラディカリズムを、三木さんはそのやわらかな文体のなかに確かに取り込んでいます。