ゆと里スペース

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『片袖の魚』感想(4)クマノミはWoman-Identified Trans-Woman

 この文章はわたしが『片袖の魚』を観て考えたことを記す一連の文章の(4)である。すでに投稿した(1)~(3)の続きのため、可能ならばそちらから読んでほしい。加えて全体に共通する注意事項として、この文章を書いているわたしは日常的に全く映画を観ない、またこの文章はかなり具体的なネタバレを含む恐れがあり、閲覧には注意を要する。

 

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4.クマノミはWoman-Identified Trans-Woman

 映画『片袖の魚』は、ともすると「いかにもな異性愛」を描いているように見える。
主人公のひかりは、高校時代に思いを寄せた同じサッカー部のタカシに思いを伝えるべく、地元の逗子で会う約束を取り付ける。しかしタカシは、そんなひかりの思いに気づくことなくひかりを傷つけてしまう。それに、タカシはもうすぐ父になるのだという。そうしてひかりはいわゆる「失恋」をして、新宿へと帰る。
 もちろん、これは巷に氾濫するただの失恋物語ではない。第一に、主人公のひかりはトランスジェンダー女性であり、性別を移行した経歴をもつ。そうしたトランスジェンダーの恋愛物語はまだまだ少ない。第二に、タカシと思いを通わせることが叶わないことを知ったひかりの表情は、「失恋」という言葉のイメージにはそぐわないほどすがすがしい。新宿に戻ったひかりが、大きな声で「二度と会うかっつーの!」と友人の千秋に報告する声色は、本心を隠して強がる人間のそれではなく、本心から現われ出たものである。
 しかし、この映画に特徴的なそれらの点を差し引いてもなお、『片袖の魚』は「いかにもな異性愛」を描いているように見える。

 まず、ひかりはトランス女性として、男性であるタカシに恋をしている。それは、高校時代からのこと。もちろん、学生時代に“同性”のクラスメイトに恋愛感情を抱いたことで自分が「ふつうでない」ことを悟るというのは、多くのトランスジェンダーの語りに登場する経験である。自分はレズビアンやゲイなのではないか、あるいはレズビアンやゲイなのであるという自己認識を経由して、そののちトランスジェンダーとしての自己理解に到達するというのは、これだけトランスの社会的知名度が上がってもなお当事者集団のナラティブにおいて典型的なものの一つであり続けている。女性や男性としての生(性)に違和感を持ち続けていたトランスジェンダーが、そうした“同性”への恋愛感情を大きな気づきのきっかけとして、自身がトランスであることを明確な自己認識として引き受ける。それは、いまだに典型的な語りの一つであり、『片袖の魚』にそうした筋書きが登場することは、何も特別なことではないように見えるかもしれない。
 それでもしかし、あるいはそうだからこそ、と言えるかもしれない。『片袖の魚』を貫いているように見える異性愛主義は、あまりにも「いかにもな異性愛」である。

 トランス女性であるひかりは、同じサッカー部のタカシに恋をする。高校生のとき。ひかりはおそらく動揺しただろう。自分はゲイなのだ、と思ったかもしれないし、あるいはもうすでに、自分が男性ではないことをはっきりと悟ったかもしれない。いずれにせよ、近いうちにひかりはトランスジェンダーとして性別を移行する。そうしたトランスとしての自己理解を支えるナラティブには、タカシへの恋愛経験が間違いなく書き込まれたことだろう。
 高校を出て5年、ひかりはいまだにタカシが気になっている。一途な恋愛。ひかりが「女性として」タカシを思い続けているというその一途な恋愛感情は、ひかりが一貫して「女性である」ことのまるで通時的な保証のようである。
 同級生の男性に恋をする、女性。同じ男性を思い続ける、女性。こうして『片袖の魚』は、異性愛という強力な機構の力を借りることで、ひかりの女性としてのジェンダーアイデンティティをその通時的な自己同一性までふくめて描こうとしているかに見える。そして、そうした異性愛主義はひかりのトランス女性としての姿を分かりやすくするだけでなく、映画の筋書きすら支配している。冒頭で書いたようにこの映画は、一人の女性が男性に失恋する物語として、一言で説明できてしまいそうなのである。

ーーーわたしは、こうした読みに賛同しない。

『片袖の魚』が「いかにもな異性愛」に支配されているというこの懸念は、この映画の大切なポイントを理解しそこなっているとわたしは思う。そしてこの確信は、斜めからこの映画を観る(クィアな)読みの帰結ではなく、むしろ正面からこの映画を読んだ結果であるとすら、わたしは思っている。

 この映画では、「クマノミ」が鍵を握っている。
 ひかりは高校時代に熱帯魚店の店主からもらったクマノミの人形をずっと大切にしており、また逗子の出張先でも、顧客に対してクマノミの生態をひかりは解説する。クマノミは性別を変えるのである。
 群れのメスがいなくなったとき、オスばかりの群れの中から1匹だけが性別を変えて、そのオスはメスになる。まるで、トランスジェンダーのように。男性から女性に性別を変えるひかりのように、クマノミは性別を変える。

 クマノミはひかりなのだろうか?あるいは、ひかりはクマノミなのだろうか?

 クマノミはオスからメスに変わることがある。しかし、そのようにクマノミが雌雄を変えるのは、子孫を残すためである。オスばかりの群れは子孫を残せない。だから、そのなかから1匹がメスになる。ここで、そのメスの存在はオスから規定されている。メスは、オスと生殖するためにメスになったのであり、その個体がメスであるということは、メスがオスと異なる性であり、オスと生殖をするという有性生殖の文脈をあらかじめ背負っている。ここでは、メスであるということの意味が「オスと生殖すること」からあらかじめ決められている。つまり、オスの存在抜きにして、そこで性別を変えたクマノミが「メスであること」の意味を理解することはできない。

 かつて、アメリカでラディカルフェミニズムの運動が大きな盛り上がりを見せたとき、彼女たちが挑戦したのは自分たちが「女性であること」そのものであった。彼女たちは、全ての人間を「男性」と「女性」にふりわけ、それぞれの性別にそれぞれ別の役割を命令するような社会のあり方は初めから女性差別的であると告発した。
 だから彼女たちは、女性が女性であることそのものをやめる必要があると考えた。なぜなら、女性であるということ自体が、そもそも男性に従属するものであるということを定義的に意味するからである。女性(とされた人々)が、女性に期待される生き方をし、女性として生きるとき、そこで「女性らしさ」はことごとく「男性に服従する存在であること」から定義されている。彼女たちはそう主張した。女性はおしとやかで、力強い男性を引き立てる。女性は家の中で子どもを産み育て、男性は家の外で政治的・経済的な権力を手にする。女性には性欲がなく、性欲のある能動的な男性を受け入れる。このように、「女性であること」の意味ははじめから「男性に従うこと」として定義されている。
 こうした認識に立って、ラディカルフェミニズムのなかの一部の女性は次のように主張した。女性であることをやめる必要がある。
 あるいは他の女性たちは主張した。女性であることの意味を、男性の存在から定義することをやめなければならない。女性が女性であることの意味を、男性抜きに定義しなおす必要がある。

 このうち最後の主張は、ラディカルフェミニズムの古典であり、またレズビアンフェミニズムの記念碑でもある、The Woman-Identified Womanというマニフェストに結実した。書いたのは、Radicalesbians(ラディカレズビアンズ)という組織。異性愛という制度の中でつねに男性と共にあり、また男性の側からいつも生き方を縛られてきた女性。それとは違って、レズビアンは「男性抜きの」女性がどのような生き方であるかを教えることができる。ラディカレズビアンズの女性たちには、きっとそのような思いがあったはずだ(――当然これは、政治的レズビアンという選択を促す――)。
 Woman-Identified Womanは、男性が最初にあり、その男性の都合によって女性の人生が決められるような性別のシステムにNoを突き付ける。男性の側から都合よく定義されるのではなく、女性自身が女性だけで女性の生存を定義する、そのようなラディカルフェミニズムの思想がこのマニフェストを貫いている。女性は、男性抜きで女性になれる。そのときにはもう、罵倒としての「あいつはレズ(ビアン)だ」という言葉や、あるいは「女性」という言葉すら、もしかしたら存在しなくなっているかもしれない。でも、女性が男性から定義されるのは間違っている。女性は男性抜きで女性であることができる。そうマニフェストは主張する。

 クマノミは、オスからメスに変わることがある。しかしそのメスの生存は、オスの都合によって定義されている。このままではオスたちがみんな滅びてしまうから、オスと生殖するために、メスが生み出される。そこで、メスになったクマノミの生存はオスとの関係から定義されている。かつてのラディカルフェミニストが性別二元論に見出したような、男性から従属的に定義される女性の姿を、まるでクマノミはそのまま再現しているかのようだ。

 逗子に行くまでのひかりは、タカシへの片思いを心の底に保ち続けている。そうした恋愛の感情は、ひかりが高校時代から一貫して女性であるという、ある種の性同一性の持続を特徴づける機能を映画のなかで果たしている。しかし、『片袖の魚』が描いた「女性であること」の意味は、そのように異性愛主義的なフレームの内側には留まっていない。『片袖の魚』は、その異性愛主義を越えていく。

 ひかりは、女性としてタカシに会いに行く。ひかりは、タカシが好きなのだ。しかし、ひかりの前に現れたのは、5年後の愚かなタカシであり、ひかりは失望し、失恋する。これは、ともすると大きな危機でありうる。なぜなら、ひかりの女性としての自己同一性がタカシへの思いによって支えられていたのだとしたら、もう二度とタカシを好きになることができないという事実は、そうしたひかりの性同一性を不安定にしてしまいかねないからである。
 しかし、そのようなことは起きない。ひかりは、サッカー部時代の寄せ書きが書かれたボールをタカシの後頭部にぶつけた後、暗闇に消えていく。まるで、自分の存在がはじめからタカシの人生と交わらなかったかのように、ひかりとして生きる道を進む。
 かつて光輝だったひかりは、もしかすると、タカシへの思いをきっかけに自分が女性である事実に気づいたかもしれない。タカシへの思いが、女性としての自己同一性を支えるナラティブの柱になっていたかもしれない。そこでは、自分が女性であるという自己認識を、ひかりは男性であるタカシとの異性愛的な関係から(部分的に)獲得することになるだろう。男性との関係のなかで、女性である自分を理解し、はっきり認識する。ひかりはそうしたトランス女性だったのかもしれない。
 映画の終盤のひかりは、もうそのようなひかりではない。特急電車に乗って新宿に戻り、いつもころんとひっくり返ってしまうクマノミの人形をまっすぐ立てることに成功したひかりは、もはやタカシの存在抜きに女性である。ひかりが女性であることにとって、もはやタカシという存在、そして異性愛という機構は必要ないものとなっている。
 ひかりのそうした新たな人生を生み出したのは、図らずもあのひどい飲み会であった。ひかりをひかりとして認めずひかりを光輝に閉じ込めようとする同窓会的な享楽を、ひかりはぶち壊した。「ずっと、わたし」の一言を発することで、ひかりは「男たち」の思い出に自分を含めることを禁じ、そうしてひかりは東京へと帰っていく。
 ひかりは、男たちの中から女性として飛び出した。しかしそれは、クマノミがオスたちの生存という目的のためにメスになるのとは違う。ひかりは、男ぬきに女性であるために、男たちから飛び出すのである。

 トランスコミュニティでよく語られる警句がある。「恋人に依存してはならない」。これだけ見れば、とりたててトランスコミュニティで語られることの意味は見えづらいかもしれない。恋人に依存すべきでないことなど、別にトランスジェンダーに限らず広く当てはまることだからである。しかし、トランスコミュニティでこれが語られることには意味がある。トランスジェンダーのなかには、自分が女性や男性であるという事実を「確認」するために、(異性の)恋人との関係に依存してしまうケースがあるからである。
 これがとりわけ深刻なのは、性別を移行したトランスジェンダーの多くが、かつての人間関係や家族関係を大規模に喪失していることが多いからである。そうして、職場を離れ、土地を離れ、家族を縁を切り、といった仕方で、ただでさえ人との繋がりを失いがちなトランスジェンダーにとって、恋人の存在はその意味でも重たいものになりうる。恋人は、自分と密なつながりをもってくれる数少ない人間の一人であり、また、移行後の性別として自分を愛してくれるという事実によって、自分の性別を肯定してくれる特別な存在になってしまうことがあるのである。
 そうしたコミュニティの知恵に照らしても、『片袖の魚』のなかでこうして異性愛の機構が用済みにされていくさまが描かれているのは興味深い。トランス女性は、恋をしていなくたって女性である。たったそれだけのことを、しかし表現することには意味がある。

 東京に戻ったひかりは、千秋のいるバーに直行する。「お通し食べる?」といつものようにカウンター越しに笑って尋ねる千秋もまた、トランス女性である。この短い映画のなかで、千秋が登場するシーンは少ない。しかし、千秋は間違いなくひかりを支える大切な役割を果たしている。ひかりと千秋の会話は、なにも特段「トランスジェンダーらしい」ものではない。しかし、東京を生きる二人の女性として、そしてまたトランスジェンダーとして、二人の間には描かれていない絆が存在している。でなければ、ひかりがあのバーに通う理由はない。
 ひかりはトランスジェンダーであり、女性である。そうしてひかりが女性であることの事実にとって、異性愛は必要のないものだ。『片袖の魚』が映画のラストで描ているのは、そのようなひとりのトランス女性の姿である。
 ただし、そのように「男ぬきに女性であること」を確立するひかりの旅は、一人旅ではなかった。Manの側から定義されてしまうWomanではなく、女性たち(Women)が自分たちだけで女性(Woman)であることを定義する。女性であることの意味を女性たち自身が取り戻す。そうした1970年のThe Woman-Identified Womanは、Radicalesbiansによって書かれていた。レズビアンではなく、レズビアン「ズ」。これが複数形であることには、絶対的な意味があるだろう。
 かたや、ひかりが女性であることの意味を異性愛抜きに確立するとき、ひかりもまた一人ではなかった。ひかりには千秋がいた。確かに千秋は異性愛的傾向を持っているが、しかし、同じトランス女性である千秋が、ひかりがWoman-Identified Trans-Womanになるための旅路を支えていることは明らかである。わたしだけではないトランス女性が、世界にはいる。こういってよければ、トランスジェンダーのコミュニティの存在が、わたしがわたしだけで女性であることを支えている。

『片袖の魚』は、「いかにもな異性愛」の映画ではない。この映画が描いているのは、トランスのコミュニティによってアイデンティティを支えられ、異性愛主義を用済みにしていくような、Woman-Identifid Trans-Woman の物語なのである。

 

 

※『片袖の魚』を観てのわたしの長い感想は、これで終わりです。(1)を書き始めたとき、頭のなかにある感想が2万字に及びそうだと書きましたが、いまこれでちょうど2万字です。(1)~(4)まで読んでくださった方がいらっしゃったなら、ありがとうございます。もし、全てではないとしても、この感想を読んでくださった方がいるのなら、ぜひ『片袖の魚』を観てください。わたしの感想は、映画をふだん全く観ない人間の好き勝手な解釈ですので、ぜひご自身で映画を観てください。
ただ、たとえ解釈は大きく違うとしても、わたしがどうしてこんなにこの映画に感動したのかは、必ずあなたにもわかってもらえると思います。わたしはそう信じています。
明日から大阪で上映です。お見逃しなく。