ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

『片袖の魚』感想(2)東京メトロと完璧ではないひかり

 これは『片袖の魚』を観てわたしが考えたことを書きとめる文章の(2)である。(1)の続きなので、可能ならばそちらから読んでほしい。以下この投稿の小見出しが「2」になっているのもそのためである。

yutorispace.hatenablog.com

 なお(1)には文章全体の注意事項も書いた。それもなるべく確認して欲しい。簡単に言えば、この文章を書いているわたしは日常的に全く映画を観ない。また、この文章は具体的なセリフの引用(※ただし記憶に頼る)とともに映画のネタバレをする恐れがあるうえ、わたしの強い解釈に基づく。まだ映画を観ていない人には、閲覧注意であることを申し添える。

 

2.東京メトロと完璧ではないひかり
 『片袖の魚』を観た多くの人が言及するシーンがある。地元である逗子への出張を控えた主人公が、高校時代に思いを寄せていた相手に久しぶりに電話をかけるシーンである。そこでひかりは、いつものトーンで話し始めてすぐ、「光輝?」という相手の問いかけに合わせてそっと喉ぼとけに手を当てる。そして、静かに目を伏せたのち、先ほどよりも1トーン低い声で、相手に応答するのである。「あぁ、元気?」
 このシーンは印象的である。かつて「光輝」だった人物は、今は「ひかり」となっており、高い声から低い声へと静かにスイッチするというこの演出は、男性から女性へと性別を変えたトランスジェンダーが再び女性から男性に「戻って」、一時的に過去の姿を演じている状況を端的に説明する。確かに、ひかりが声を切り替えるこのシーンは、派手に演出されてはいない。そっと喉に手を当て、少し目を伏せるという一瞬の所作が、ひかりの声を光輝のものに近づける。しかし、そうした静かな演出だからこそ、かつて性別を越境したひかりが、過去に一瞬で引き戻されるという転化を印象的に観客に伝えるのである。
 しかし、このシーンを観たわたしははっきりと次のように思った。これは、シスジェンダー向けのサービスシーンである、と。
 トランスジェンダー女性とはどのような存在か。それは、かつて男性を割り振られ、それに伴い男性として生き(ることを余儀なくされ)ていたが、実際にはその性別としては自分を認識できずand/orせず、現在はむしろ女性としてのアイデンティティを持っていたり、and/orまたそれに沿って女性へと性別を移行していたりする者のことである。
 ひかりはトランスジェンダー女性である。この説明に従えば、ひかりは、男性だった光輝から女性であるひかりへと性別を移行した。だからこそ、上のような声の演出は意味を持つ。光輝からひかりへと性別をチェンジしたトランスジェンダーが、旧友との会話に際して、再びひかりから光輝へと声をチェンジさせる、そのような演出。
 しかし、これはあまりにも単純な図式である。シスジェンダーにとっての分かりやすさが優先された「トランスジェンダー」像を、まるでそのままなぞったような。だからわたしはこれをサービスシーンだと感じた。
 もちろん、この映画がそうしたサービスシーンに逃げていると言うつもりはない。地元である逗子を離れて東京で暮らすひかり。仕事で控えている地元への出張。地元には旧友がおり、かつて思いを寄せた男性(タカシ)にも連絡をとることができる。過去と現在のあいだにこうして板挟みになったひかりの状況を、この映画は確かに描いている。しかし、そこで真に注目すべきは、この声の切り替えのシーンではない。少なくともわたしはそのように思った。わたしが注目し、また感動したのは、東京メトロである。
 ひかりは、おそらく主に東京で暮らしている。東京には地下鉄が張り巡らされている。映画で描かれるひかりの行動範囲は、自宅と職場、そして新宿の三点。おそらくひかりは、それらを地下鉄で移動しているのではないだろうか。
 そうして地下鉄で新宿に通うひかりには、いきつけのバーがある。男性のマスターと、もうひとりそこで働いているのが、千秋である。劇中ではそこまで明示されないが、トランスジェンダー女性である広畑りかさん演じるこの千秋も、またトランス女性である。ひかりの変化に寄り添うこの短い物語にあって、千秋の存在は際立っている。千秋の安定感こそが、ひかりの危ない変化を足元で支えているからである。
 出張で地元に帰ることが決まったひかりは、同じサッカー部だった男性(タカシ)への忘れられない思いを、千秋に打ち明ける。千秋に悩みを相談するひかりは、相変わらずとても自信がなさそうである。男性をやめた自分、自分を男性として理解しているはずのタカシ、もしかすると自分が女性になったことを知っているかもしれないタカシ、それでも会ってみたい自分。とはいえ、まだ女性に「なりきる」ことができていない自分。こうした混雑した認識ゆえに、「会ってみたら」とすすめる千秋に対してひかりは次のように応えてしまう。「まだ完璧じゃないし」。

 まだ完璧じゃない。

 ひかりは「完璧な女」になりたいのだろうか。違う。ひかりは、自分がまだ「完璧に」女ではないからこそ、「完璧に」女になるまでは会いたくない、と言っているのである。まだ、完璧じゃない。
 世の中には、女性についての様々な表象があふれている。綺麗らしく装い、男性に容姿をからかわれても、品定めされても、黙って笑顔で受け止める女性。世界の主人公たる男性をサポートしたり、その人生に意味を与えたりする、わき役としての女性。子どもを育てながら、会社でもバリバリ働く女性。それらは様々な仕方で「完璧な女性」の姿を私たちに教えており、そうした「完璧な女性」と自分のあいだの違いに葛藤したり、折に触れてそれに悩まされたりするというのは、おそらく現代の(特に日本のような国で)生きる全ての女性にとって無縁ではない経験だろう。
 ひかりから漏れ出た「完璧じゃない」という言葉は、しかしそのような「完璧な女性」と自分のあいだの差異についての悩みではない。ひかりは、自分はまだきちんと女性になれていない、と悩んでいるのである。自分が女性であること自体が所与の事実であり、むしろ、それが動かしがたい所与の事実だからこそ「完璧な女性」との差異に苦しめられる多くの(シスジェンダーの)女性とは異なり、ひかりにとって自分が女性であることは所与の事実ではない。この例外的な状況が、「完璧じゃない」という悩みをひかりにもたらしている。
 トランス女性は女性である。そうかもしれない。しかし『片袖の魚』を観ればわかるように、性別を移行するというのは社会で想像されているよりもはるかに連綿とした、言ってみればだらだらとしたものである。喉に手を当てて目を閉じればスイッチできるような、性別移行とはそうした区切りのはっきりしたものではない。
 ひかりはもう光輝ではない。しかしひかりは、自分がまだ光輝の尾を引いており、男性としての影が自分につきまとっているのではないかと不安がっている。実のところ、そのように不安に思う自信のなさこそが、ひかりがトランスジェンダーであることを世界に知らせてしまうのだが、それでもひかりは、女性である現在の自分と、まがりなりにも男性として生きていた過去の自分とのあいだが溶け合っている感覚を持つのをやめることができない。
 そこに来て、かつて思いを寄せたタカシの存在が急に浮上する。つきまとう過去を切り離そうとつとめ、東京で女性としての生活をなんとか営んでいる最中に、男性として生きるほかなかった過去の自分の思いが熱を持ってよみがえるのである。過去と現在を切り離しながら、時には自分の過去について自他に嘘さえ吐きながら生きている(少なくない割合の)トランスにとって、そうして両者が混じりあう事態はとても苦しいものであるはずだ。
 わたしの知り合いのトランスジェンダーの人が、かつて「自分史を書くのが死ぬほどつらい」と言っていた。自分史とはここで、ジェンダークリニックに持参するための、自分のライフヒストリーなどを綴ったものを指す。現在のGID診療ガイドラインに沿って性同一性障害GID)の診断を受けることになるトランスたちは、おそらくその多くが、こうした自分史の執筆を求められる。それは、自身の性別に継続的に悩んでいた事実を知ることで医師が診断の根拠とするものであると同時に、おそらくはその自分史の執筆それ自体が、過去と現在のあいだに複雑さを抱えるトランスジェンダーたちの自己認識を統合するという機能もあるのだろう。
 しかし、わたしの知り合いにとってその執筆作業は、切り離して別の人格へと外部化したはずの過去の自分を現在の自分と接続しなければならない、とても苦しい作業だったようだ。死ぬほど辛い幼少期の現実にあって、文字通り自分を殺して生き延びていたその人にとっては、殆ど性別を変えてしまった現在の時点からさかのぼって、過去に「辛かった自分」の存在を認めること自体がとても大きな負担なのであった。
 今はもういないその人も、地下鉄でジェンダークリニックに通っていた。東京メトロ。自分史を書き、それをクリニックの医師と共に読み合わせ振り返る作業によって、現在と過去が混雑する。その苦しさを緩和するために、死んだように眠りながら地下鉄に乗るのだ、とその人は言っていた。
 ひかりが東京メトロに乗っているシーンがある。逗子のこと、タカシのことを思い出し、現在の自分と過去の自分が意識の中で交錯する場面で、ひかりは人気のない地下鉄に乗り、イヤホンで外部の音を遮断することでなんとか意識を保とうとしているように見える。
 トランス女性は女性である。それは確かにそうだ。しかし、トランスジェンダーにはいろいろな過去がある。忘れたい過去も、消したい過去も、もう別人のものになってしまった過去も、いろいろな過去と折り合いをつけながら、トランスたちは今日も生きていかなければならない。だからこそトランスたちは、意図せず自分に付き纏う過去に苦しめられたり、現在と過去が混濁して自分が誰だか分からなくなったりするのだろう。
 わたしは、この東京メトロのシーンを観た瞬間に、この映画に出会えてよかったと思った。『片袖の魚』が、シスジェンダーが好き勝手に想像する「トランスジェンダー」を描く映画ではないことを確信した。イシヅカユウさんの演技も素晴らしかった。あの、過去と現在が入り混じる苦しさを、短い時間でここまで表現できるものだろうかとわたしは驚いた。
 最後に、この映画でとても大切な役割を果たしている千秋にふたたびフォーカスしておこう。「まだ完璧じゃない」と語る先ほどのひかりに対する千秋の応答は、「あんたも女でしょ」というものである。ひかりは、まだ「完璧に」過去を切り離すことができない自分に悩まされている。いつか「完璧に」女性であると胸を張って言える日など来るのだろうかと、将来に自信が持てないでいる。ひかりが意識する自分の存在は、こうして、過去に滲み出ていると同時に、あいまいな仕方で未来の方にも広がっている。過去に吸い寄せられる現在。進むべきはっきりとした道がみえず、霞がかかったままの未来。こうして、ひかりの存在は現実からふわふわと宙に浮いてしまう。まだ、完璧ではないから。
 千秋は、そうして浮遊して消えてしまいそうなひかりを現在に繋ぎとめる大切な役割を果たしている。あんたも女でしょ。今あなたが女であるのなら、それがあなたの全てだ、と千秋は言う。折り合いのつかない過去も、明確なビジョンの見えない未来も、そんなものに足元を掬われてはいけない。あなたは、いま、女である。千秋はひかりに告げる。それが、ひかりにとってどれだけ大切な錨(いかり)であるかは、おそらくひかり自身が一番よく知っているはずだ。足元から自分の存在が浮遊し、生きるべき現在が見えなくなりそうなひかりが、現実世界に「ひかり」として根を張るための大切な錨が、あのバーにはある。ひかりは、現実を忘れるために新宿に通っているのではない。現実を忘れないようにするために、千秋たちに会いに行くのである。
 ひかりの存在を支えているのは、分かりやすい当事者コミュニティでも、派手なドラアグクイーンでも、女性とも男性ともつかない真っ白なタイツの踊りでもない。それは、あんたも女でしょ、と一言語ることでひかりをひかりのもとに繋ぎとめてくれる、同じトランス女性としての千秋の錨なのである。