ゆと里スペース

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『片袖の魚』感想(1)トランスジェンダーが演じるということについて

0.はじめに

 この文章は、映画『片袖の魚』の感想であり、批評ではない。

加えて二点注意したい。第一に、わたしは映画や小説、ドラマの類を全く楽しまない。そのため映画を読み解くためのリテラシーを欠く。わたしが映画を観る機会は、家族や友人の家でたまたま「金曜ロードショー」が流れていたとか、そのレベルである。わたしは映画もドラマも全く観ないし、小説も漫画も読まない。そういう人間なのである。

 第二に、この文章では『片袖の魚』の筋書きに係ることを、具体的なセリフと共に、またおそらくはかなり強いわたしの解釈を交えつつ書く。そのため、特にこれから『片袖の魚』を観る予定の方については閲覧をお勧めしない。ネタバレが平気な方でも、かなり強い解釈であると自覚している内容のため閲覧には注意してほしい。こうした事情により、この文章は『片袖の魚』をすでに観たか、あるいは観る予定が今のところない人むけの文章である。ただし、後者の人たちについて、この文章が『片袖の魚』に対する関心を高め、映画館に足を運ぶ一助となれば幸いである。

 なお、全体の分量が2万字を超える見込みのため、文章は一節ずつ区切って投稿することにした。この(1)では、「トランスジェンダートランスジェンダー役を演じること」について、『片袖の魚』を通して考えたことを書いておきたい。

 

1.トランスジェンダーが演じること

 映画の出だしのシーンから、気になることがあった。それは、主人公のひかりから「演技臭がする」ことである。つまり、どこか主人公の様子はぎこちなく、無理に何かを演じているように見える。

 映画『片袖の魚』の特筆すべき点として、トランスジェンダー役をトランスジェンダー当事者が演じた、ということが言及される。実際、トランスジェンダー女性であるひかりを演じたイシヅカユウさんは、トランスジェンダー当事者である。なるほど、当事者であろうとなかろうと、演技が上手ければ誰が演じてもよいではないか、と思われるかもしれない。しかし、トランスジェンダー「を」演じるとはどのようなことかについては、やはり考えられてよいだろう。

 先ほど、この映画の主人公からは「演じている」臭いがすると書いた。一般に、(一部の効果を狙った場合を除いて)ある映画や舞台の劇中の登場人物から「演じている」感じが伝わってくるというのはよからぬことである。ふつう演者に求められる能力の中には、役者がその人物を演じているという事実を隠匿する能力が含まれるからである。しかし、これが重要なことだが、主人公のひかりから感じられる「演技臭」は、そうした役者の力不足や、あるいは映画の編集の不完全性に由来するものではない。イシヅカユウさんは、おそらくトランスジェンダー「を」見事に演じているだけである。

 トランスジェンダーは、生まれたときに割り当てられた(社会・法的)性別が、自身の性別にかかわる現在のアイデンティティと一致しない者、として基本的に理解される。この定義的説明は優れているが、あるいは優れているからこそ、この説明には次の事実が含まれていない。それは、多くのトランスジェンダーたちが、性別を移行しようと試みていたり、あるいは性別を移行したヒストリーを持っていたりするという事実である。

 主人公のひかりは、勤めている会社では女性社員として働いている。会社の人々もおそらくひかりがトランスジェンダーであることは知っているが、そのことを意に介さず接している。対して映画の冒頭のひかりは、いかにも自信がなさそうである。

 この文章を読んでいる人の中に、性別を移行したり、移行しようとしたりしたことのある人がどれだけ含まれているか分からないが、割り当てられた性別のもとで少なくとも一度ある程度は成熟してしまったトランスジェンダーにとって、性別を移行することのはじまりは「演じること」のように感じられることがあるだろう。ホルモン治療のほかにも、髪形を変えたり、身に着けるものを変えたり、胸が目立たないようにバインダーをしたり、歩き方や話し方を変えたり。そうして自身のプレゼンテーションを変化させることは、過去の性別を見抜かれる(リードされる)恐怖、つまりは自分の演技がばれてしまうという恐怖を伴う。実際には、トランスジェンダーは性別を「演じている」わけではなく、自身がそうである通りに生きているに過ぎない。しかし性別を移行するという変化の発端にあって、反対側の性別の人間として見なされ扱われるべく必ずしも自分にはまだ定着していないジェンダーのマーカーを身にまとうことは、まるで演技であることを見抜かれてはいけない危険な演劇に参加するような感覚でありうるだろう。

 映画のはじまりのひかりは、そうしたぎこちない演技をしているように見える。おそらく街の雑踏ですれ違えば自然に女性に識別されるような見た目だが、にもかかわらず、女性を「演じている」感の抜けないひかりからはその自信のなさが漏れ出し、はしなくもひかりがトランスジェンダーであることを世界に教えてしまう。

 性別を移行し、生活がおおむねそちらの性別で定着すれば、移行先の性別を「演じる」という感覚は抜けていくだろうし、先ほども書いたようにトランスジェンダーは初めから性別を「演じて」などいない。しかし、性別移行に自信の持てないあいだ、特に「リード」の恐怖におびえるあいだには、そうした「演じている」感覚をトランスジェンダーたちが抱いてしまうのは避けられないかもしれない。

 劇中のひかりは、もう一つ別の仕方でも演技をする。物語がすすみ、大きな決意とともに地元の街を訪れたひかりは、公民館の職員から「新谷さんって、もしかして男性?」と尋ねられる。これに対するひかりの応答は、「身体は男性なんですけど、心は女性なんです」というものである。この応答が、トランスジェンダーが「トランスジェンダーであること」を演じるよう求められた結果であることを理解するのはたやすい。社会の多くのシスジェンダーの人々にとって受け入れられやすい説明が、ひかりには求められている。逆に言えば、そこで求められているのはそれのみである。だからひかりは、そうしてマジョリティの頭のなかにしかない「トランスジェンダー」を演じることで、その状況に区切りをつけることを余儀なくされる。そして、そうした演技を強いられる状況は、多くのトランスジェンダーにとって、まだまだリアルなものであり続けているはずだ。

 

 トランスジェンダーの役をトランスジェンダーの当事者が?そんなもの、演技が上手い人が演じればよいだけではないか。なるほどそうかもしれない。では、これまでわたしが書いてきたような、トランスジェンダーたちの「演技の日常」を、シスジェンダーに簡単に演じることなどできるのだろうか。移行に自信を持てないトランスジェンダーたちの「演じている」感を、それを実際に経験したことのない人間が「演じる」のは、とても難しいことのはずだ。世間から求められるトランスジェンダー像を、泣きそうになる心の動揺を抑え込みながら「演じる」トランスジェンダーの悲しみを、自分の性別や身体とのたえざる葛藤を生きたことのないシスジェンダーがすぐに、簡単に「演じる」ことができるようには、わたしには思えない。

 あるいはシスジェンダーの自分だが、自分にはそうした「演技の演技」を見事に果たす絶対の自信がある、と主張する人がいるのだとしたら、わたしはその傲慢さに驚いてこう言うしかないだろう。「そういう傲慢な人びとに囲まれて生きるということが、トランスジェンダーとして生きるということなのでしょう」。トランスジェンダーの生をそのように尊重できない人に、果たして上手にトランスジェンダーを演じることができるのだろうか。あなたは、何を知っているのだろうか。

 映画でひかりを演じたイシヅカユウさんは、トランスジェンダーである。わたしは、トランスジェンダーでなければトランスジェンダーを演じてはならない、と言うつもりはない。ただし、『片袖の魚』を観てしまった現在、トランスジェンダーこそが最もトランスジェンダーを演じるのが得意であるという主張には諸手を挙げて賛成せざるを得ないし、そうした事実が顧みられず、シスジェンダーの思う「トランスジェンダー」像をシスジェンダーたちが身勝手に演じ、悪しき表象が再生産され続けている状況については、端的に由々しきことだと思っている。

 

 とにもかくにも、『片袖の魚』のイシヅカユウさんは、これまで書いてきたようなトランスジェンダーの「演じる」日常を、見事に演じていた。劇中のひかりは、イシヅカユウには見えない。誰かが演じているという事実を隠匿する能力が、イシヅカユウさんにはある。その演技のうまさが、少なくともこの映画に関しては彼女がトランスジェンダーであることに由来するのだとしたら、それはわたしにとって最も納得のいく説明である。

 トランスジェンダーであれ何であれ、演技が上手い人が演じればいい。なるほどそうかもしれない。では、トランスジェンダーを演じることに最も長けているのは誰か。そして、そうして優れているはずの演者が排除され続ける状況は、果たして正しいことか。

 ほんらい説明が必要なのは、トランスジェンダー役にこうしてトランスジェンダー当事者を起用することの方ではなく、むしろ、トランスジェンダー役にトランスジェンダーを起用せず、わざわざシスジェンダーを起用するのはなぜなのか、ということの方であるはずだ。(……(2)に続く)