ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

『片袖の魚』感想(3)ずっと、わたし

 これは「片袖の魚」を観てわたしが考えたことを書きとめる文章の(3)である。(1)(2)の続きなので、なるべくそちらから読んでほしい。なお、(1)には文章全体の注意事項も書いたため、それも確認して欲しい。簡単に言えば、この文章を書いているわたしは日常的に全く映画を観ない。また、この文章は具体的なセリフの引用(※ただし記憶に頼る)とともに映画のネタバレをする恐れがあるうえ、わたしの強い解釈に基づく。

 

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3.ずっと、わたし

 『片袖の魚』のポスターには、「ずっと、わたし」という一言が添えられている。わたしの記憶が正しければ、これは劇中にそのまま現れるセリフではない。しかし、このセリフを発するとすれば、それは主人公であるひかり以外にありえない。実際、映画のポスターでもひかりのアップの写真に、この「ずっと、わたし」は添えられている。
 しかし、「ずっと、わたし」とはどのような意味だろうか。ずっと、とは。そして、わたし、とは。
 この映画の筋書きは、ある種とても分かりやすい。トランスジェンダー女性であるひかりが、かつて自分が片思いしていた、そして現在でも気になる存在であり続けているタカシに自分の現在の姿を見せたいと願う、そのような帰郷のストーリーである。
 しかし、現在と過去の混濁の苦悩を乗り越え、一人の女性として確かに地元の地を踏みしめたひかりの決意とは裏腹に、空気の読めない愚かなタカシはサッカー部の同窓生を集め、盛大な「飲み会」を開催してしまう。この居酒屋のシーンは、この映画でおそらく最も辛いシーンであり、わたし自身、まるで永遠のような長さに感じられた。
 居酒屋の座敷のふすまを開けたひかりを迎え入れたのは、姿の変わってしまったひかりに対する五寸釘のような視線と、凍りついた空気であった。ひかりは、楽しい同窓会の雰囲気に盛大に冷や水をかける、まさにキルジョイ(killjoy)な存在として居酒屋に出現することになる。しかし、ひかりを真に苦しめるのは、そうした空気の変化ではない。ひかりの心を傷つけるのは、そうして冷え切った空気を元に戻し、引き続き楽しい同窓会を続けようとする、そうした享楽(joy)である。
 同窓生は次々とひかりに言葉を投げかける。女性にしか見えない。タカシが女を連れ込んだのかと思った。きれいになった…。確かに、いまのひかりを男性として視認するのはとても難しい。ひかりが綺麗な女性に見えるというのも、偽らざる心情なのかもしれない。しかし、それらはひかりの心を切り裂くものでしかありえない。なぜなら同窓生たちは、そこでずっと、光輝に話しかけているからである。
 冷や水を浴びせられ一度は凍りついたはずの居酒屋の座敷は、力を加えられたばね仕掛けのように、ふたたび享楽の方へと、元に戻ろうとする。光輝は女のようだ。光輝は綺麗になった。まるで「本当の」女性みたいに。
 居酒屋の享楽を支えているのは、彼らがかつて同じ高校のサッカー部だったという事実である。つまり、その享楽は「男として」の過去の経験に基づいている。同窓会のような集まりに参加したことのある人なら理解できるだろう。いま新しく知り合ったとしてもおそらく魅力を感じないような、一緒にいても楽しくないような人であったとしても、かつて同じ学校に通っていた、同じ部活であったなどの過去の経験のおかげで、その種の同窓会的な享楽は可能になっている。
 そうした享楽は、だからこそ、過去の再現でなければならない。今の自分の感性や価値観、とりわけ過去から大きく変わってしまった考え方などは一度かっこに入れ、楽しかった過去を再現しなければ、そうした同窓会的享楽は可能にはならない。
 居酒屋でひかりが巻き込まれたのは、まさにそのような享楽の空間であった。すると当然、同窓生たちはひかりを「光輝」として扱うことになる。どう、俺たちのなかで誰が一番タイプ?そんな問いかけも、女性としてのひかりに投げかけられたものではない。同窓生たちは、かつて「俺たち」が味わっていた男同士の享楽を、再現しているのである。もちろん、その「俺たち」には光輝が含まれる。
 そうした激しい享楽への揺り戻しにさらされたひかりがふとテーブルに目をやると、切り身にされた生魚が盛り付けられている。魚には頭(かしら)もついているが、その目は充血し、刺身も時間が経って鮮度が落ちているように見える。その死んだ魚の眼は、まるでその場のひかりの心を映しているかのようだ。しかし、この死んだ魚には別の解釈を施すこともできるだろう。同窓生たちが切り刻んで楽しんでいる青魚は、光輝でしかない。違う。わたしは熱帯魚なのだ。だから、わたしに向けて話しかけられている言葉は、すべてわたしではない人間に向かって発せられている。皿の上に盛り付けられた死んだ魚は、わたしではない。わたしはひかりである。

 わたしはひかりである。ひかりは、とうとう居酒屋でその事実を顕わにする。それは、二度目の大きなキルジョイの瞬間である。

 ある男性が言う。そういえば、昔から光輝はそっち系っぽかったもんな。これは、光輝の過去に言及するものであり、同時にひかりを光輝に留め置こうとするものである。対して、別の男性が尋ねる。光輝って、いつからそんな感じなの?

 ひかりは答える。「ずっと。ずっとだよ。」

 この「ずっと」の一言が、二度目のキルジョイを座敷に持ち込む。それは一度目よりも深刻な、殆ど回復不可能なほどの強度で、享楽をぶち壊す。「確かに昔からそれっぽかった」と語っていた同窓生たちも、この「ずっと」に明らかに面食らっている。同窓生たちは、そこでようやく気付くのである。昔から女っぽかった光輝が、そこにいるのではなく、そこにいるのはひかりであるということに。そして、女っぽかった光輝との思い出は、実はすべて偽りであったということに。ひかりは、ずっとひかりであった。ひかりは、その事実を同窓会に持ち込む。過去の再現によって成り立つ享楽が、だからここでは正面から否定される。再現されるべき「男たち」の思い出を、ひかりは共有していない。「ずっと」そうだったと語るひかりは、その思い出のなかに自分を含めることを全員に対して禁じる。それは、あなたたちの勘違いだ。わたしは、ずっとひかりである。
 この「ずっと」の一言が発せられる直前、映画ではわずかな回想がはさまる。それは、サッカー部時代のひかりが熱帯魚のお店に立ち寄っていたときの思い出である。東京で熱帯魚関連の仕事をしているひかりは、昔からそうした魚に興味があったらしい。そうして水槽を見つめる過去のひかりに店主が近づき、カクレクマノミの小さな人形を手渡す。それは、ひかりが今でも大切にしている人形だが、そのときの店主の一言が、この映画全体にとっての決定的な一言となる。

「はい、お嬢ちゃん」。

 熱帯魚店の店主は、サッカー部帰りの、エナメルバックを肩にさげた高校生を「お嬢ちゃん」と呼ぶ。その瞬間、カメラが退き、高校生時代のひかりの全身が映し出される。そこに立っているのは、いわゆる男子用の学ランを着た、しかし肩までとどく長い髪をそなえた、ひかりの姿である。

 この回想は、おそらくひかりの事実ではない。サッカー部で活動する「男子」高校生が、あのような長髪であるというのは限りなく考えがたい。それゆえ、「お嬢ちゃん」と呼びかけた店主の記憶も、おそらくひかりが後になって作り出したものだろう。
 しかし、そうして後から作り出されただろう「ひかり」としての記憶が、居酒屋でのひかりの一言を支えている。「ずっと」そうだったよ。わたしは、ずっと、ひかりだった。サッカー部にいたときから、わたしはひかりだった。男ではなかったのだ。

 結局、ひかりが思いを寄せていたタカシは最後まで愚かであり続けた。「とーちゃんになります!」と飲み会の序盤で宣言したタカシは、サッカー部時代の寄せ書きが書かれたサッカーボールを、別れ際のひかりに渡そうとする。自分はもうすぐ父親になるし、昔の連中とこうして馬鹿やって飲み会することもできなくなるだろう。俺は先に行くわ、とタカシは言わんばかりである。そうして、過去を過去のまま置き去ってひとり自分勝手に未来に進もうとするタカシは、しかし、ひかりに渡したはずのボールをその後すぐさま後頭部にくらうことになる。
 ひかりはボールを蹴ったのだろうか。あるいは投げたのだろうか。あのとき履いていたパンプスから想像するに、蹴ったのではなさそうだ。とはいえ、投げたのだとしたら、まだひかりは近くにいるはずだ。しかし、ボールをぶつけられてすぐに後ろを振り向いたタカシは、そこにひかりの存在を確認することができない。逗子の暗闇とはいえ、近距離にいるはずのひかりの姿は気配すら見えない。まるで、そこに誰もいなかったように、静かな闇だけが拡がっている。
 そうだ。そこには誰もいなかったのだ。光輝などという人間は、いなかったのだ。愚かなタカシは、最後までひかりを光輝として呼び続ける。光輝に呼びかけ、光輝にサッカーボールを渡そうとする。しかし、ひかりはずっとひかりだった。だから、タカシがサッカーボールを渡した相手も、タカシにサッカーボールをぶつけた犯人も、そこには存在していない。ずっと、ひかりはひかりだったのだから、そんな人間ははじめから存在していなかったのだ。

 逗子から戻ったひかりは、千秋のいるバーを訪れる。「お通し食べる?」といつものように人なつこく尋ねる千秋によって肯定されているのは、もうひかりの現在だけではない。千秋はそこで、ずっとひかりだったひかりの、過去と現在をまるごと包みこむ。

 「ずっと、わたし」。この映画のポスターのセリフは、「これからずっとわたしらしく生きていく」という単純な意味ではありえない。それは、場合によっては過去の記憶すら部分的に歪めることで自己同一性を担保し、ある過去から存在ごと消え去ることによって別のわたしを過去に生み出しすらする、そのようなトランスジェンダーの特殊な生存の時間から漏れ出た、力強い言葉なのである。