ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

『トランスジェンダー問題』を翻訳するとき明石書店にお願いしたこと

 記録のために書いておく。わたしはショーン・フェイ著『トランスジェンダー問題』(The Transgender Issue)の訳者だ。今年の9月末に翻訳が刊行された。翻訳権を取得した明石書店から仕事の依頼が来たのは、去年の10月の下旬。イギリスで原著が出たのが去年の9月だから、約1年で翻訳を出すことができた。明石書店には無理をお願いした。

 最初に翻訳の依頼が来たとき、わたしは明石書店に2つのお願いをした。1つ目の願いが聞き入れられないなら、絶対に翻訳の仕事を受けないと言った。2つ目の願いは、わたしが明石書店に願うことであると同時に、わたしはその願いを叶えるためにできる限りのことをすると言った。

 1つ目の願い。「この本(『トランスジェンダー問題』)の後にトランスヘイト本を出さないこと」。もちろん、明石書店という歴史ある出版社の今後の出版方針を左右する権原などわたしにはない。そんなことできるはずがない。わたしはただ、トランスジェンダーを含めた様々なマイノリティ集団が置かれている不正義をただすための言論と、そうではない言論とを並べて、炎上商法的に出版物を売るような醜い行いには絶対に加担しないと言った。そうした商売にわたしが加担させられたと分かったときには、最大限の手段を使って怒りを表現すると言った。

 ただ、出版に向けて仕事をしていくにつれ、この1つ目の願いについて全く心配はいらないことが分かった。明石書店はこれまでも、(いずれも上田勢子さんの訳により)ジェマ・ヒッキー『第三の性「X」への道」(2020年)や、エリス・ヤング『ノンバイナリーがわかる本』(2021年)など、トランス/ノンバイナリーに関する良質な翻訳を出版してきた。また、いまだにトランスジェンダーに関する数少ない研究書である石井由香理『トランスジェンダー現代社会』(2018年)、また古くは山内俊雄『性転換手術は許されるのか』(1999年)などの書籍を世に問うてきた。時代の制約はあれ、いずれも重要な意義のある出版だと思う。ぜひ、明石書店のHPから歴史を知って欲しい。

www.akashi.co.jp

 そんな明石書店が、今後いきなりトランス差別的な本を出して金儲けを狙うような会社ではないことは、翻訳出版に向けていろいろコミュニケーションをとるにつれますます強い確信に変わった。担当の編集者さんだけでなく、営業さんたちや、社長さんとも会って話をする機会を得た。会社として、これまでもトランスのトピックに重きを置いてきたこと。『トランスジェンダー問題』の出版に、社として大きな意義を感じていること。教えていただいた。明石書店は、2022年のその大切な仕事を、専業翻訳家でもないわたしに任せてくれた。わたしはその期待に応えられたかどうかまだ分からない。しかしわたしは、明石書店と仕事ができたことを誇りに思っている。

 2つ目の願い。「この本(『トランスジェンダー問題』)を売ること」。わたしは明石書店に、この本を絶対に商業的に成功させてほしいとお願いした。もちろん、明石書店だって企業なのだから、本を売って利益を出すのは当然のことだ。しかしそれ以上に、この本が「売れる」ことを世の中に見せつけてほしいと、わたしはことあるごとに伝えた。

 トランスジェンダーの人口は少ない。緩やかな定義でも人口の0.6~0.7%くらいしかいない。実際に生きる性別を変えていく人は、おそらくその半分(0.3%)かそれ以下だろう。だから、本を買ってくれる「顧客」としてのトランスジェンダーの人口は、マーケットとして極めて極めて小さい。しかし2022年現在、トランスジェンダーの置かれている現状についての正しい知識や、トランスたちが政治的に求めていることを社会正義の視点から論じた文章を欲している人たちはとても多い。大半はシスの人たちだが、そこには間違いなく、大きな知へのニーズがある。

 2021年の10月にエミコヤマさんがTwitterで『トランスジェンダー問題』の原著の内容紹介をしたとき、小さな輪のなかとはいえ、大きな注目が集まった。2021年の12月、今からちょうど1年前には周司あきらさんの『トランス男性による トランスジェンダー男性学』が刊行された。わたしも著者と対談のイベントをする機会があったが、予想を遥かに上回る来場者数があった(https://bookandbeer.com/event/20220221_jw/)。2022年の1月からはジュリア・セラーノの『ウィッピング・ガール』(原題は Whipping Girl)の翻訳クラファンが始まり(https://greenfunding.jp/thousandsofbooks/projects/5658)、残り日数を大きく残して250万円が集まった。クラファンの応援イベントにもわたしは登壇したが(https://bookandbeer.com/event/20220221_jw/)、こちらも信じられないくらい人が来た。いま、トランスジェンダーの生存や差別の実態について正確な知識を欲している人たちが多くいることを、痛切に感じていた。

 だから、明石書店にはその需要に応えて見せてほしいと願った。そして、『トランスジェンダー問題』のように硬派に社会正義を論じた本でも、世の中にそれを必要としている人がいるという事実を可視化して欲しいと願った。この本は「売れる」のだから売ってほしい、この本が売れるさまを他の出版社に「見せつけて欲しい」と願った。

 これは担当編集者さんにも繰り返し伝えたことだが、わたしは『トランスジェンダー問題』の後につづく書籍のためにこそ、『トランスジェンダー問題』が出版されてよかったと考えている。わたしは本書の刊行の意義を、この本につづくまだ見ぬ書籍に見出している。

 元も子もないことを言えば、この社会はデフォルトでトランス差別的に設計されていて、多くの人にとってはトランスジェンダーなどどうでもいい存在なんだろう。だから、トランスの権利擁護やトランスの経験に根ざして正面から社会正義を訴えるような本がたくさん売れるなんて、誰も考えない。むしろ、トランスの存在を馬鹿にしたり、その政治的要求を「過激だ」と揶揄したりするような言説の方が、人々の受けが良いと考える人が出てくる方が自然だ。

 でも、待ってほしい。ヘイトや冷笑主義に魂を売る前に、出版社には踏みとどまってほしい。日本にはまだ、『トランスジェンダー問題』がきちんと売れる土壌がある。知的なニーズがある。もちろんこんな分厚い本が読めるような生活上の余裕がある人は限られているし、そうした余裕は社会からますます切り詰められている。それでも、まだこのが売れるだけの需要が、ちゃんとある。

 明石書店には、その事実を知らしめてほしいとお願いした。この本を売ってほしいという、訳者が言う必要のないことを何度も口にした。もっともっとトランスジェンダーのための本が日本語圏に増えるために、この本が売れるさまを見せてほしいと、お願いした。これが2つ目の願い。

 出版後、様々なメディアで『トランスジェンダー問題』の書評が掲載され、わたし自身いろいろなイベントに呼ばれた。取材も受けた。これまでトランスへの差別的言説に心を痛めてきたけれど、どのように発信すればいいか迷っていたという何人もの編集者さん、記者さんが、私たちにアプローチしてくれた。大丈夫。すべてのメディアが産経新聞や『WILL』と区別がつかなくなるような悲惨な世の中には、まだなっていない。メディア関係者には、現実をよく見て行動してほしいと願っている。

 『トランスジェンダー問題』には、まだまだ仕事が残っている。大小の書店さんからの応援もあり、この短期間ですでに相当な部数が売れていると聞いた。わたし自身も驚いている。しかし、まだまだ仕事が残っている。もっと遠くまでこの本を届けて、他の出版社にも重い腰を上げてもらう手伝いをしなければならない。醜いヘイト言説や冷笑主義に魂を売る必要はない。大丈夫だ、これだけ重厚な、硬派な社会正義の本でさえこれだけ売れるのだから―――各社の編集者さんが、会社の企画会議で胸を張ってそう言えるように、もっともっと『トランスジェンダー問題』には遠くまで行ってもらう必要がある。

 とはいえすでにもう、日本のトランスコミュニティにとってプラスになるような書籍の出版がいくつも決まっていることをわたしは知っている。先の『ウィッピング・ガール』に加えて、1冊はわたしの共著によるもの、そしてもう1冊は、これまで不可視化されてきたトランスジェンダーの語りが活字化したものだ。早くこれらが書店に並ぶ姿を見たい。どの本もきっと、たくさん注目されて、たくさん売れるだろう。なぜなら、日本社会にはトランスについてのまともな情報を欲してる人が多くいるから。

 それと同時に、これまで日本語圏で出版されてきたトランスジェンダー関連の書籍についても、十分な敬意をもって改めて注目が集まることを願っている。田中玲さんの『トランスジェンダーフェミニズム』(インパクト出版:2006年)や吉野靫さんの『誰かの理想を生きられはしない: とり残された者のためのトランスジェンダー史』(青土社:2020年)などが、訳書である『トランスジェンダー問題』よりも注目されないという事態があるのなら、それは同書の良質さを差し引いても少し異様な光景だ。今だからこそ、日本のトランスたちが何を語り、書き残してきたのかということに、丁寧な参照が与えられることを願う。

 以上、『トランスジェンダー問題』の翻訳を引き受けるにあたって明石書店にお願いしたこと2つを書き残した。繰り返すが、明石書店には本当に無理をお願いしたと思っている。特に担当編集者である辛島さんには、言葉では言い表せないほどの労力を割いていただいた。もっと多くの出版社さんがトランスを取り巻く政治的環境に関心をもち、いろいろな本が出版され、こうして辛島さんのような方の個人的な奮闘に依存しなくても済む世界が来ることを心から願っている。