ゆと里スペース

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特例法の4号要件は「手術」を求めているのか?

 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)の4号要件を、わたしは「不妊化」要件と呼ぶ。これには理由がある。この要件は「手術要件」と呼ばれることもあるが、わたしはそれらの呼び方を採用していない。それには理由がある。

 呼称など、実際には些末な問題に過ぎない。しかし、この要件をどのように呼ぶかという問いは、この要件が何を求めているのかについての理解と密接に関わっている。

 

1.不妊化要件(4号要件)は何を求めているか?

 そもそも、特例法のいわゆる4号要件――正確には同法3条4号――は何を求めているのか。同法3条は次の通りである。

第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。

一 十八歳以上であること。

二 現に婚姻をしていないこと。

三 現に未成年の子がいないこと。

四 生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

上の通り、4号要件は「生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」を求めている。まず確認すべきこととして、ここに「手術」の文字はない。しかし(閉経その他の医学的理由により生殖の能力を失っている場合を除いて)ひとが生殖腺の機能あるいは存在そのものを失うには手術を受ける必要がある。そして、特例法に沿って戸籍性別を変更しようとするトランスの人々の多くは、外科的な手術を受けた結果としてこの要件をクリアしている。そのため、4号要件を「手術要件」と呼ぶことには妥当性があるように見える。

2.求められているのは「不妊状態」

 しかし、そうした呼称は4号要件の正確な理解を妨げる。なぜなら、4号が求めているのは「生殖能力を持っていないこと」つまり「不妊状態であること」だからである。

 絶対に理解しなければならないことがある。特例法4号要件は、トランスの人々に「手術を受けること」を求めてはいない。4号要件が求めているのは、性別登録を訂正するトランスジェンダーが「不妊状態であること」だ。そして、そうした「不妊状態であること」を創り出すためならば、手術を希望しない人や希望できない人も含めて、一律にまとめて不妊化を伴う手術を強いても構わないと特例法は考えている。

 そもそも、なぜ特例法に4号要件があるのだろうか。つまり、なぜ特例法はトランスジェンダーたちに不妊状態であることを求めているのだろうか。それは、法案が成立した際に自民党の議論をリードした南野知恵子が書き残しているように、そして2019年の最高裁判決でも採用されてきたように、「移行前の性別に備わる生殖能力で生殖をすると、法秩序に混乱がもたらされるから」である。もっとも法律が懸念するのは、トランス男性が法的に「男性」へと登録を変えたのちに、妊娠・出産するケースだろう。関連してまた、「父=妊娠させる」「母=妊娠する」という通念に反する事態が出現するため「社会が混乱する」ということも、4号要件の存置の理由に挙げられる。

 それだけのことだ。だから、絶対に勘違いしてはならない。特例法は、そして日本国家は、トランスジェンダーの人々に「手術をしてほしい」とは思っていない。特例法が望んでいるのは、トランスジェンダーが「不妊状態であること」だ。そして、その状態を作り出すためなら、トランスの人たちが望まない手術を結果的に強いられたり、そのことで生殖の権利を侵害されたり、望まない医学的措置を受けない権利を侵害されたり、家族を形成する権利を侵害されたりしても、いいと思っている。トランスの人々の権利など、どうでもいいと思っているからだ。それが、現在の4号要件だ。

 だから、「手術を望む当事者もいる」といった理由で4号要件の存置に賛成する(もしくは撤廃に反対しない)のだとしたら、そこにはおかしな「ボタンのかけちがい」が起きている。何度でも繰り返す。特例法は、トランスの人たちに「手術をしてほしい」とは願っていない。特例法は「不妊状態であれ」と命令しているのであって、しかもそのとき「望まない人にまで手術を強制しても構わない」と思っているのである。つまり、ここで「手術」は”コストのかかる手段にすぎない。不妊化を伴う手術という、極めて身体的な負荷の大きい医学的措置を、特例法はせいぜい「必要なコスト」程度にしか思っていない。

 もちろんトランスの人のなかには、自らの医学的ニーズとして性別適合手術を受ける人がいて、そうした人は手術の結果として不妊状態となる。しかし、そんなトランスの人々のニーズなど、特例法には関係がない。特例法が求めているのは、繰り返すが「不妊状態であること」であって、自分の望んだ手術によって不妊状態になったのであろうと、あるいは望まぬ手術によって不妊状態になったのであろうと、そんなことに国家は1ミリも関心を持っていないからである。その意味で、4号要件に「違憲」判断を下した先日の静岡家裁が「生殖腺除去手術」という言葉を使っていたのは示唆的である。

3.時間が経ちすぎてしまった

 トランスの人々のなかには、出生時に戸籍に登録された性別(女or男)と、現実に生きている性別とが食い違っている状態の人がいる。そうした状況にある人たちは、就労や婚姻、住居探し、病院への通院などにあたって、著しい不利益を被っている。とくに就労は経済状況(貧困)と直結しており、通院は健康と直結している。いずれも、人生=生存全体にかかわる問題である。そのため、トランスジェンダーたちのこうした不利益は、国家の責務として解消されなければならない。これが、日本の特例法をはじめとして、一般に性別承認法が必要とされる背景である。先に触れた、特例法ができたときに出版された南野らの著作でも、そうした社会的困難の解消の一助として、特例法の意義が明確に説かれている(南野知惠子(監修)『「解説」性同一性障害者性別取扱特例法』日本加除出版2004)。

 しかし、そうしてトランスの人々の生活上の不利益、法的な不利益をなくすための特例法には、厳しい要件が残され続けてきた。「小さく生んで大きく育てる」という期待のもと作られた特例法は、当事者コミュニティのそうした期待を完全に裏切り、20年間ほとんど変わらなかった。4号の不妊化要件もそうした「取り残された要件」の1つだ。だから、今こうして裁判闘争が繰り返されている。

 明後日10月25日には、最高裁で4号要件についての憲法判断が下る。問われているのは、4号要件を国家が残そうとする理由が、この要件があることで生み出される多様な人権侵害に優越するかどうか、である。すなわち、4号の不妊化要件を残したいという国家の願いは、不妊化を伴う手術を希望しない・希望できない人びとにまで、一律に手術を強制し、そのことによっておびただしい権利侵害を生み出すにたるだけの重要な「願い」なのかどうかが、問われている。(図を参照)

 わたしは、そのようなことはありえないと思っている。性別変更を願い、権利として性別承認の機会を得ようとするトランスの人々に対して、一律に不妊化を強いるなどあってはならないことであり、4号要件は憲法13条(幸福追求権)や24条(の含意する家族を形成する権利)に違反すると考えている。

 そしてそもそも、不妊化を求める理由である「混乱」は、出生登録や戸籍登録にあたって新たな附則を設けたり、特例を設けたりすることによって容易に回避できるはずのことだ。そうした運用上の工夫によって解決可能な「混乱=問題」の解決のために、不妊状態であることを一律に要求するのは、明らかにコストに見合っていない。先日、裁判所として初めて特例法の4号要件に「違憲」判断を下した静岡の家庭裁判所も、同様の論理を立てていた。もはや、不妊化を一律に求めることなど許されないのだ。

5.これは「手術要件」ではない

 もう一度くりかえす。4号要件が求めているのは「手術をすること」ではない。4号要件が求めているのは「不妊状態であること」であり、しかもその不妊状態を一律に実現するためなら「望まない人びとにまで一律に手術を強要してもいい」と国家は考えている。これが、特例法の4号要件である。だから、つねに考えなければならない。

1)なぜ国家は性別承認(戸籍訂正)を求めるトランスジェンダーに「不妊状態であること」を求めるのか?そこに正当性はあるのか?

2)そうして「不妊であること」を求める国家の理屈は、はたして手術を望まない人びとに対してまで一律に手術を強いることを正当化するだけの理屈なのか?

 この2つの問いを区別することは、つねに重要である。

 だから、わたしは4号要件を「手術要件」と呼ばない。その呼び名は、4号要件がどのような理屈で不妊化を求め、その理屈がほんとうに手術の強制を正当化するのかどうかという、真に考えるべき問いを見失わせるからだ。