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反トランスジェンダー大統領令解題②:「ジェンダー・イデオロギー」と反ジェンダー運動

 米国のトランプ新大統領が初日に署名した、反トランスジェンダーの大統領署名について、引き続き解題を行っていきます。この記事は2本目です。
 1本目はこちら。

yutorispace.hatenablog.com

 2本目のこの記事では、大統領令のタイトルにも含まれた「ジェンダーイデオロギー」について解説します。いかにも反フェミニズム的な雰囲気のするこの言葉ですが、結論から言えば、この言葉は、研究者やジャーナリストたちが「反ジェンダー運動」と呼んできた、一連の右派の政治運動が使ってきた概念です。
(※煩瑣なので、参考文献は大まかな指示に留めます。興味がある方はリンク先をお読みください。)

1.反ジェンダー運動の誕生

 反ジェンダー運動(anti-gender movement)とは、90年代中盤以降に現れた、女性の権利や(女性を含む)LGBTの権利に反対するための、国際的に組織化された政治運動を指します(参照※リンク先日本語)。1990年代中盤というのは、性と生殖に関する健康と権利(セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ:SRHR)が、国際社会で人権として承認され始める時期にあたります。1994年の国際人口開発会議(カイロ会議)で採択された「カイロ行動計画」や、1995年の世界女性会議(北京会議)で採択された「北京行動綱領」は、SRHRについ言葉の定義を与え、その健康と権利への国際社会の強いコミットメントを示したものとして、歴史的に大きな重要性を持ちます(参照参照※いずれも日本語)。なお、この北京会議には多くのレズビアン女性も参加しており、性的な自由やセクシュアリティの権利を訴えたことが知られています。SRHRの概念は、その当初から、女性の人権のみならず、性的マイノリティの人権を守るために求められたものでもありました。
 こうしてSRHRが国際的な承認を得るこの時代は、国連の文書や国際条約などで「ジェンダー」の概念が使用され始めるタイミングとも重なっていました。男・女のあいだの身体構造の違い(セックスと呼ばれる性差)と、そうした身体の在りかたに意味づけを与える知の体系や、その意味理解に基づいて男女に異なる期待を課す社会規範、およびそうした社会規範に基づいて生みだされる、男女のあいだの政治的・文化的・法的・経済的な地位の違い(すなわちジェンダー)が、それぞれ異なる「性別」のリアリティを表現する概念として、区別されはじめたということです。
 もちろん、フェミニズムがそのような意味で「ジェンダー」の概念を使い始めるのは70年代にまで遡ります。生物学的決定論に異を唱え、社会的に作られた性差の存在を指摘し、それが「女性差別を作りだしている」ことを暴き出すにあたり、ジェンダーの概念は大いに役立ちました。多くの女性が、妊娠する機能をもっているとしても、だからといって女性は男性と性交渉すべきだとか、男性と結婚して子育てに専念すべきだとか、妊娠をみずからの意志で終了させてはならないとか、そのような規範は導かれないはずだ――フェミニズムはこうして、「女性であること」のリアリティ(とりわけ性差別の経験)は社会的な要素や力学によっても確かに構築されている面があると主張し、それをSRHRの擁護に積極的に活かしていきました。
 そうしたフェミニズムの蓄積が、国連のような場所に届き始め、国際会議や条約のなかに「ジェンダー」の概念が現れた――それが、1990年代の中盤という時代です。
 しかし、その後「ジェンダー主流化」の時代を迎えることになる、こうした(フェミニズムにとっての)前進は、人工妊娠中絶を「罪」と捉える宗教右派や、性教育を「文化を壊す過激な実践」と捉える保守派、また同性愛や同性愛行為、ましてや同性間での婚姻を「不道徳」だと考える政治勢力にとっては、大きな衝撃をもって受け止められました。それ以前から、中絶に反対する運動や、同性愛を有罪にしようとする(戻そうとする)運動自体は存在していたのですが、90年代中盤のこの時期、それらの運動は危機感を強め、垣根を越えたネットワークを作りつつ、巨大な資金が中絶反対や同性婚の阻止に投じられるようになりました(参照)。
 そこで攻撃の矛先が向かったのが、「ジェンダー」でした。先ほど見たように、ジェンダーの概念は、生物学的な決定論を打ちこわし、伝統的な家族観という名の下に女性差別や同性愛差別を温存する社会制度・社会規範と闘うことを可能にしました。ですから、それら生物学的決定論を復興させ、伝統的な家族観とそれにともなう道徳的価値を守ろうとする勢力が「ジェンダー」を敵視するのは必然的でもありました(参照)。こうして始まったのが、反ジェンダー運動です。

2.ジェンダーイデオロギーカトリック教会

 反ジェンダー運動の歴史をその発端において駆動し、現在も多くの資金と人材をそこに投入しているのは、カトリック教会です。このころには、カトリック教会は明確に「ジェンダー」を攻撃対象に据えており、「ジェンダー」は同性婚や中絶を認める法律を後押しするための危険な概念であり、家族制度に対する広範な攻撃が仕掛けられていると主張していました。なかでも最も有名なのは「性について、あるいは女性の尊厳や使命について、誤った考えに導く概念が広められている」と警告したヨハネ・パウロ二世の言葉です。彼によれば、それを広めているのは「「ジェンダー」についての特定のイデオロギー」なのでした(参照)。このヨハネ・パウロ二世の言葉こそ、現在まで用いられる「ジェンダーイデオロギー」という言葉の起源とされています(参照)。
 カトリック教会はその後も、中絶の権利やLGBTQの権利などを後押しする「ジェンダーイデオロギー」に警鐘を鳴らすとともに、現実の政治のレベルでも、巨額の資金を投じて「反ジェンダー運動」を展開し続けています。ちょうど昨年も、フランシスコ教皇が「もっともおぞましい危険はジェンダーイデオロギーである。なぜならそれは、男性と女性の境界をなくすからだ」と発言していました(参照)。もちろん、ここで「男女の境界をなくす」とされているのは、トランスジェンダーやノンバイナリーだけを念頭に置いたものではありません。こうした人々の認識では「男性とは、男性の身体をもち、女性を好きになり、女性と結婚し、子育てをする」ことになっており、「女性とは、女性の身体をもち‥(以下略)」なので、同性愛や人工妊娠中絶を是認する発想は、それだけで「男女の境界をなくす」「おぞましい危険なイデオロギー」なのです。

3.グローバルな展開

 なお、ここではカトリック教会に焦点を当てましたが、世界中でそれぞれの土地に応じた運動を展開する反ジェンダー運動の担い手は、ナショナリスト・政治家・宗教団体など、決して限定されたものではありません。反ジェンダー運動は、伝統的な国柄や文化を壊すもの、安定や安寧の拠り所となる価値観を壊すものとして「ジェンダー」を標的化するので、宗教的信念を動機とする人びとのみならず、ナショナリズムを動機とする人びとから、単に家族の中での自分の権威を守りたい男性や族長など、幅広いアクターを巻き込むことができるのです。
 その結果、当初は東欧やラテンアメリカを主たる舞台としていた反ジェンダー運動は、世界中に広がることとなりました(参照参照
)。最近の研究者やジャーナリストは、ハンガリーのオルバーン政権やプーチン政権の一連の施策、インドのモディ政権や昨年に議会を通過したガーナの反LGBT法なども「反ジェンダー運動」の一部とみなしています。そうした世界中の右派勢力を結び付けるための資金を提供しているのが、World Congress of Families や Family Watch International などの米国の保守派の団体です。にわかには信じがたいですが、これらの団体は、先ほど言及したガーナの反LGBT法の成立のために巨額の資金を投じたことが明らかになっており(参照)、World Congress of Families は莫大な資金を投じて、グローバル・サウスを含む世界中で会議を行い、各地で活動する政治リーダーを組織化しています(参照)。また、アメリカのキリスト教右派勢力は、2007-2019のあいだに、リプロの権利とLGBTIQ+の権利に対抗するために世界で280万ドルを費やしたとされています(参照)。

4.「グルー」としてのジェンダー

 さきに紹介したように、反ジェンダー運動が生まれた直接のきっかけは、中絶へのアクセスを筆頭とした、女性のSRHRが国際社会で人権として認めら始めていたという時代状況にあります。しかしカトリック教会の動きなどからも分かるように、反ジェンダー運動において「ジェンダーイデオロギー」の汚名を着せられるのは、中絶や性教育など、狭義のSRHRに関わるものだけではありません。およそ「常識」を外れていたり、「伝統的な家族の価値」を壊すとされるものであれば、なんでも「ジェンダーイデオロギー」には代入することができます。そのため、研究者はこのように言うことがしばしばあります。反ジェンダー運動において、「ジェンダー」は空虚なのだと。それは、なにか特定の権利や事象と結びつく必要がありません。むしろ、「ジェンダー」や「ジェンダーイデオロギー」が、それ自体では空虚な概念であるからこそ、反ジェンダー運動はそこにどのようなものでも代入して、互いにネットワークを作ることができるのです。ふだんは敵対している政治勢力同士だったとしても、「ジェンダーイデオロギー」という悪魔のような思想運動が、グローバリズムに乗って「常識」に反することを人々に押し付けはじめ、家族や国家、宗教を破壊しようとしているのなら、手を取り合って闘うしかない(参照)――こうしてジェンダー」は、奇妙なかたちで政治勢力を結びつける「グルー(接着剤)」の役割を果たしてきたのです(参照参照参照)。

5.トランスジェンダーと反ジェンダー運動

 そうして、反ジェンダー運動は、時代や地域によって柔軟に姿を変えてきました。そして、現代のアメリカにやっと話が戻ってきました。ここ10年間、アメリカの反ジェンダー運動にとっての最大の標的は、中絶とトランスジェンダーでした。しかし、皆さんもご存じの通り、2016年に大統領となったトランプが指名した保守派の判事らによって、全米で中絶を合法化していたロウ判決は覆ってしまいました(2022年)。ロウ判決が中絶アクセスの全てではもちろんありませんが、それが担ってきた象徴的な意味も含めて、これは反ジェンダー運動にとっての大きな勝利でした。
 もうひとつの標的は、トランスジェンダーでした。婚姻平等が最高裁で認められた2015年以降、アメリカのキリスト教右派は今さらLGBを攻撃しても得策でないと考え、「ジェンダーイデオロギー」を体現する存在としてトランスジェンダーへと攻撃の矛先をシフトさせました。ただでさえ人口が少なく、誤解も多いトランスジェンダーについてであれば、プロパガンダが浸透する余地がまだまだあると考えられたのです。そしてその過程で、「LGBT」の連帯に傷をつければ、それはそのままLGBT運動の弱体化につながります。フェミニズムトランスジェンダーを敵対させることができれば、フェミニズムの弱体化にもつながります。こうしてトランスジェンダーは、2010年代後半以降、女性のSRHRやLGBTの権利を標的とする反ジェンダー運動にとっての、もっとも都合の良いターゲットとして表舞台に引きずり出されたのです(参照)。
 その後、2020年にバイデン政権が発足し、トランスの権利を擁護する姿勢をあるていど見せたこともあったのですが、各州の共和党議員と手を組んだトランスジェンダーへの攻撃は全米でみるみる広がっていき、反トランス法を追跡しているTrans Legislation Tracker によれば、トランスジェンダーを標的として、その健康や権利の制約や縮減を企図した法律の提案は、174本(2022年)→615本(23年)→672本(24年)とうなぎ上りに増えています。
 そうして現れたのが、今年2025年1月20日大統領令でした。

6.大統領令と反ジェンダー運動

 こうしてやっと、今回の大統領令のタイトルが部分的に理解できるようになります。それは、「ジェンダーイデオロギーの過激主義から女性たちを守り、連邦政府に生物学的な真実を取り戻す」でした。すでに見たように、「ジェンダーイデオロギー」という言葉は、女性のSRHRや同性愛を敵対視するローマ教皇の言葉から生まれたものであり、反ジェンダー運動における「空虚な中心」を指し示す表現です。
 その「ジェンダーイデオロギー」の「過激主義」として、この大統領令ではトランスジェンダーの存在がやり玉に挙がっています。ここ10年近く、アメリカの反ジェンダー運動が「ジェンダーイデオロギー」の体現者として攻撃してきた、トランスジェンダーです。
 この大統領令を見たとき、わたしは「まずい」と思いました。トランプが反トランスジェンダー的な政策を進めることは当然予想されていましたし、初日の大統領令トランスジェンダーを攻撃するような命令が出ることも覚悟していました。しかし、予想は裏切られました。トランプが選んだのは「トランスジェンダーイデオロギー」という言葉ではなく「ジェンダーイデオロギー」という言葉でした。この言葉の選択に、反ジェンダー運動の歴史を見てとらないことは不可能です。そして実際、次の解題から見ていくように、大統領令の内容もまた、反ジェンダー運動の思想を体現したものです。
 これは、ただの「反トランスジェンダー大統領令ではありません。タイトルに「ジェンダーイデオロギー」という概念を盛り込んだ、アメリカにおける反ジェンダー運動のひとつの勝利宣言でもあるのです。

7.おわりに

 今回の記事では、大統領令のタイトルに含まれた「ジェンダーイデオロギー」という概念の背景を紹介すべく、反ジェンダー運動の歴史をすこし解説しました。そこから分かるのは、これが単にトランスジェンダーを標的とした大統領令では決してなく、「ジェンダー」という空虚な対象を攻撃してきた、政治的右派の運動が現代的な勝利を収めたものだということです。
 反ジェンダー運動の歴史において、「ジェンダーイデオロギー」にはさまざまなものが代入されてきました。あるときは中絶の権利が、あるときは包括的性教育が、あるときは同性婚が、あるときはトランスジェンダーの権利が…。いま、大統領令において「ジェンダーイデオロギー」が排撃の対象として公認されました。次に狙われるのは、そのうちのどれでしょうか。あるいは全てでしょうか。大統領就任直後にホワイトハウスのHPからSRHRについてのページが消え、今日はアイダホ州議会で、全米での同性婚を合法化した最高裁判決を覆すよう請願が出されました。この大統領令がいったいどのような文脈から生まれたものなのか、私たちはよく知っておく必要があります。